「神の国(神国論)」は、日本という共同体を天照大神をはじめとする神々の加護のもとにある特別な国とみなす思想を指します。古代神話の系譜に基づいて皇統の正統性を説き、外敵や内乱の危機に際しては神威による守護を強調し、政治秩序の維持や対外姿勢の根拠として機能しました。中世には元寇をめぐる「神風」観念が広まり、近世の国学では固有信仰の純化を通じて神国意識が体系化され、近代国家の形成過程では国体論・皇国史観へと連結されました。他方で、神仏習合・本地垂迹の枠組みとの往還、儒仏キリスト教との接触による相対化、戦後の政教分離の下での再検討など、長い時間の中でその意味と射程は変化しています。本項では、起源と概念、歴史的展開(中世・近世)、近代以降の変容、思想史的評価と比較視点の順に整理して解説します。
起源と概念――神話的正統・祭祀共同体・神仏習合の基盤
神国論の基層には、『古事記』『日本書紀』に語られる神代の物語と、天孫降臨・神武東征を経て皇統が継承されるという歴史像があります。天照大神の子孫が統治する「日の本」という自己理解は、祭祀と政治が結びついた古代国家の正統性を支える語りでした。伊勢神宮を中心とする大嘗祭・新嘗祭などの宮中祭祀は、アマテラスと現人神(あらひとがみ)の天皇をつなぐ儀礼的枠組みを形成し、「神の国」の実感を毎年反復する制度として機能しました。
古代から中世初期にかけて、神国観は仏教受容とともに大きく変容します。神は仏・菩薩の垂迹(本地垂迹)として理解され、神仏習合のもとで神の国は「仏法護持の地」とも解されました。たとえば八幡神は僧形八幡とも描かれ、国家鎮護の守護神として朝廷・武家双方に崇敬されます。『続日本紀』などには「神国」の語が見え、唐・新羅に対し日本が神慮に護られた特別な地であると主張する文言が確認できます。ここでは、神国とは排他主義だけを意味するのではなく、仏教・律令と重合した国家観の一側面でした。
また、在地社会の祭祀・氏神信仰は、共同体の境界と秩序を神威によって可視化しました。延喜式神名帳に列した社格体系、祈雨・止雨・五穀豊穣・疫病退散などの国家的祈祷は、神祇を通じて天候・収穫・秩序という実際の生活を守る「現世利益」の政治言語でもあります。神国論はこの生活宗教の地層に根を下ろし、国家の非常時には「神威の発動」として前景化しました。
中世の展開――元寇と神風、寺社勢力・武家権力の言説へ
神国論が強い説得力を得るのは、鎌倉時代の元寇(1274・1281)を前後してです。異国降伏祈祷や石清水八幡・宇佐・伊勢・春日など主要神社の祈祷動員のなかで、暴風雨が蒙古軍を退けた出来事は「神風」の語で記憶され、国土が神々の加護によって守られたという物語が広がりました。これにより、武家政権の軍事的動員と神祇の祭祀装置が噛み合い、神国の観念は軍事・政治の正当化に資する語彙となります。
南北朝期には、北畠親房『神皇正統記』が神代から皇統が連綿と続く歴史を描き、朝廷正当論と結びついた神国意識を整えました。親房は伊勢神道や度会神道の系譜を汲み、天照大神—皇統—神器—大嘗祭という連鎖で国体の正統性を説きます。ここでは、神国は皇統の唯一性・普遍性を補強し、南朝の大義名分を支える装置でした。他方、禅・浄土・日蓮などの新仏教も国家護持の祈祷・社会救済を担い、寺社勢力は神仏習合の枠内で神国の守護者を自任します。日蓮の「立正安国論」は、法華経信仰による国家守護を説き、外寇・内乱を仏法衰微の兆しと見る点で、同時代の神国観と共鳴・緊張を併せ持ちました。
中世の神国論は、排外性のみならず秩序・徳目の回復要求でもありました。荘園制の動揺、貨幣流通の拡大、武力紛争の頻発は、共同体の基準を神意に照らして正すべきだという倫理的言説を生みます。祇園社の御霊信仰、熊野・伊勢の参詣、修験道のネットワークは、危機の時代に〈神国〉を体験する巡礼空間を提供しました。
近世の体系化と変容――国学の神道化、近代国家・国体論への接続
江戸時代に入ると、国学の運動が神国観を新たに編み直します。契機の一つは、神仏習合に対する内省と、外来思想(仏教・儒教)から「古道」を分節する努力でした。本居宣長は『古事記伝』や『直毘霊』で、やまとごころ・もののあはれといった感性の基層を神ながらの道に見出し、漢意(からごころ)に対する固有性を主張します。宣長の神国は、倫理規範に先立つ感受性と詞の働きを尊び、天皇を中心とする祭祀共同体を自然な秩序として捉え直すものでした。
平田篤胤は幽冥観・復古神道を展開し、神仙・霊魂観を通じて神国を宇宙論的に拡張します。水戸学や尊王思想は、幕藩体制下の政治秩序に批判的なエネルギーを蓄え、外圧(異国船来航)への危機意識と結びついて、尊王攘夷のスローガンに神国を重ねました。ここでは、神国は攘夷・国防・忠誠・純化という近代政治の語彙に翻訳されます。
明治国家は、神仏判然令(神仏分離)と祭政一致の理念のもとで、神社制度を国家の下に編制し、教育・儀礼・記念日の制度を通じて国家的神話を共有化しました。国家神道は、神道を宗教というよりも「国家の儀礼」と位置づけ、学校儀礼・皇室祭祀・地方社の護持を公的義務としました。皇国史観は、皇統一系・国体を強調し、神国論を帝国主義と総力戦の精神動員に接続します。「八紘一宇」のスローガンや現人神観念の強化は、内外の戦争と植民地支配を正当化する装置として機能し、神国の言説は排外主義・優越主義を帯びやすくなりました。
1945年の敗戦後、日本国憲法は政教分離(第20条)と信教の自由を明記し、神道指令により国家と神社の制度的結合は解体されました。天皇の「人間宣言」は、皇統の神格化に距離を置く契機となり、神国論は公的イデオロギーとしては後退します。しかし、地域社会の祭祀・伝統文化のレベルでは、神の国の表象は生活の秩序を支える物語として存続し、観光・文化政策・地域振興の文脈に再配置されました。戦後思想史は、神国論の歴史的機能と負の遺産を検証し、宗教と公共空間の関係を問い直して現在に至ります。
思想史的評価と比較視点――政治神話としての機能と限界
神国論を思想史的に捉えると、いくつかの軸が見えてきます。第一に、神国は政治神話です。危機時に共同体の結束を高め、権力の正統性を神話的時間へ接続する装置として有効でした。元寇の神風、南北朝の正統論、近代の国体論—いずれも神国の物語を媒介にして動員が実現しています。
第二に、神国は柔軟な包摂を持ちました。中世には神仏習合を通じて、神国=仏法護持という二重の語りが併存し、寺社勢力や武家政権の多元的正統性を支えます。近世国学はこれを「純化」へと振り直し、近代国家は制度化・統制化へ舵を切りました。したがって、神国論は常に他の思想・制度と連結して機能し、単独で完結したわけではありません。
第三に、神国は排他性と普遍性の緊張を孕みます。国内秩序の道徳的基準を提供する一方で、外部への優越・排除に傾く危険を内在させ、近代戦争における精神動員ではその負の側面が露呈しました。戦後の検証は、宗教的象徴を公共倫理の資源として評価しつつ、国家権力の動員装置としての暴走を抑制する制度設計—政教分離・人権保障・教育の自由—の重要性を確認する作業だと言えます。
比較の視点では、ヨーロッパ中世の「キリスト教国」(Res publica Christiana)や、清代中国の「天朝」観念、朝鮮の「小中華」思想など、宗教・文明の中心を自任する政治神話が各文明に存在しました。神国論は、日本列島版の「聖なる中心」物語であり、他文明の自画像と並置することで、その共通点(正統化・動員・境界設定)と差異(神話構造、祭祀の役割、国家との距離)が見えてきます。
最後に、神国論は今日の私たちに何を残すか。地域の祭り・言霊観・天皇制の文化的側面は、共同体形成と美意識の資源であり続けます。他方で、公教育や政策が特定の神話を正統化の根拠に用いるときの危うさも、歴史は警告します。神国を一枚岩のイデオロギーとして断罪するのではなく、その多層性—神仏習合の包摂性、国学的純化、近代の制度化と戦後の分離—を丁寧に読み解くことが、過去と現在の距離を保ちつつ伝統と共生するための最小の作法だと言えるでしょう。

