カルカッタ大会4綱領 – 世界史用語集

カルカッタ大会四綱領(1906年)は、イギリス植民地下のインドで国民会議(Indian National Congress, INC)がカルカッタ(現コルカタ)で開いた年次大会において採択された、運動方針の核心をなす四つのスローガンを指します。一般に(1)スワラージ(自治)の追求、(2)スワデーシー(国産品の愛用・国産産業の振興)、(3)ボイコット(英製品や政府機関・一部制度の不買・不利用)、(4)ナショナル・エデュケーション(民族教育の推進)の四点から構成されると理解されています。これらは1905年のベンガル分割に反対する運動のエネルギーを受け止め、穏健派と急進派がせめぎあうなかで共通の旗印としてまとめられたものでした。四綱領は、のちのスーラト分裂(1907)やガンディーの非協力運動、スワラージ党の戦術選択など、後続の展開に直接的な影響を与えます。以下では、背景と採択過程、四綱領それぞれの具体的意味、会内対立と直後の波紋、地域社会・産業・教育への広がりを分かりやすく整理します。

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背景—ベンガル分割とスワデーシー運動、そしてカルカッタ大会へ

19世紀末から20世紀初頭、インドでは国民会議が年次大会を重ね、請願・陳情を通じた段階的改革を重視する穏健派(ゴーカレーら)が主流でした。しかし1905年、英印政府は広大なベンガル管区を行政効率の名目で東西に分割しました。実際にはカルカッタを中心とするベンガル人知識層の政治的結集を分断する意図が濃いと受け取られ、都市と農村に強い反発が広がります。これを契機に、国産品の愛用と英製品の不買、国産工業の育成、国民教育の拡充を柱とする「スワデーシー運動」が各地で高揚しました。

運動の現場では、学校や講演会、結社、バザール、宗教祭礼が相互に結びつき、国旗や歌、バッジなどの象徴が広まりました。反英感情の激化や一部過激行為も生じ、植民地当局は治安法や検閲で抑圧します。こうした状況下で迎えた1906年のカルカッタ大会は、国民会議が高まる大衆的エネルギーにどう応答するか、また穏健派と急進派の路線をどう調停するかが最大の焦点でした。大会議長には、国民会議の長老でありながらスワラージの明記に理解を示すダーダーバーイ・ナオロージーが選ばれ、象徴的なバランスが図られます。

ナオロージーは演説で、帝国のもとでインドが富を流出させられてきた「ドレイン・オブ・ウェルス(富の流出)」論を再提示し、自助と団結、自治の正当性を訴えました。討議の過程で、ティラク、ビピン・チャンドラ・パール、ラージパト・ラーイら急進派が主張する強硬なボイコットと大衆動員、ゴーカレーら穏健派が重んじる制度内改革と教育の重視が、四綱領という折衷的フレームで束ねられていきます。

四綱領の中身—スワラージ/スワデーシー/ボイコット/民族教育

① スワラージ(Swaraj)—自治の追求

スワラージは、直訳すれば「自ら(swa)による統治(raj)」です。カルカッタ大会の文脈では、ただちに完全独立(プールナ・スワラージ)を宣言するというより、自治権の拡大とインド人による行政参加の実質化、州・市の自治拡充、最終的には自治領的地位の獲得を含意する広い旗印でした。議会・司法・官僚制へのインド人登用拡大、予算・課税への関与強化、地方自治体の権限増大などが具体的目標とされ、のちのホーム・ルール運動や自治法改正要求へとつながっていきます。

② スワデーシー(Swadeshi)—国産品の愛用と産業振興

スワデーシーは、国産品の選好と、それを支える生産・流通の土台づくりの二層から成ります。輸入綿布の不買と国産綿布の使用、製塩や砂糖、マッチや石鹸など日用品の国産化、銀行・保険のインド人資本による設立、協同組合の整備が推進されました。カルカッタとベンガル周辺では、ジュート、茶、印刷、手工業の生産者が運動と結びつき、国旗やリボン、バザールのディスプレイを通じて「買うことが政治参加」という意識が育ちます。商店は「スワデーシー」を掲げ、学校や地域集会で詩や歌が歌われ、消費・生産・文化が一体化しました。

③ ボイコット(Boycott)—不買・不利用・不合作

ボイコットは、英製品(とくに綿布)の不買にとどまらず、政府が設けた一部の学校や役所、裁判所に対する不合作、祝典・式典への不参加など、制度的協力の拒否を含みました。合法の範囲をめぐっては会内で議論があり、過激化への懸念から穏健派は慎重でしたが、経済的圧力と象徴的抗議の両面を狙う点で合意が形成されました。実務的には、ボイコットの標的一覧、代替商品のリスト、違反への圧力(社会的非難や説得)が運動に伴い、都市・農村で濃淡の差が生まれます。

④ ナショナル・エデュケーション(National Education)—民族教育の推進

民族教育は、官設英語学校一辺倒の教育体系に対し、地域社会が資金と人材を出し合って学校・大学を設立し、歴史・地理・科学・商業・公民の教育をインド人の手で行うという構想です。カルカッタでは国民教育評議会の設立や、のちの国民大学の設置など、具体的取り組みが進みました。教育は単に知識の伝達ではなく、公共心・自助・協同の訓練であり、スワデーシー産業の担い手育成とも直結しました。授業言語、カリキュラム、教員の養成、奨学金制度といった制度設計が論じられ、印刷・出版の拠点が教材供給を担いました。

採択の経緯と会内対立—穏健派と急進派、スーラト分裂への前奏

カルカッタ大会は、四綱領という合意でひとまずまとまったものの、運動の方法論をめぐる緊張は解けませんでした。急進派はボイコットと大衆動員の加速を訴え、地方大会や街頭での実力的抗議を辞しませんでした。穏健派は、請願・議会工作・地方自治の拡充という制度内の前進を重視し、違法行為や暴力の芽を摘む必要を説きました。ナオロージーの議長就任は両派の橋渡しを象徴しましたが、組織運営や議事進行、指導者人事をめぐる不信は残り、翌1907年のスーラト大会ではついに会場が騒擾状態に陥り、国民会議は穏健派と急進派に分裂します。

スーラト分裂後、急進派は弾圧や内部の戦術差を抱え、穏健派は政庁との交渉力を保ちつつも大衆的求心力を弱めました。四綱領はなお運動の標語として生き続けましたが、実施の比重は地域や組織によってばらつきます。カルカッタ大会で蒔かれた「スワラージ/スワデーシー/ボイコット/民族教育」の組み合わせは、のちのホーム・ルール運動(1916)や非協力運動(1920年代)において、ガンディーの非暴力不服従(サティヤーグラハ)と結びつき、非協力(役職辞退・学校不就学・裁判所不使用)やスワデーシー(糸車・手紡ぎカーディー)といった形で再編されていきます。

波及—産業・地域社会・教育現場での具体的展開

四綱領は、都市の商人層・中間層・学生層にとくに強く浸透しました。カルカッタのバザールでは英製布の焼却や掲示、店頭の「スワデーシー」表示が広がり、同時に国内の紡績・織布・マッチ・石鹸・製塩などの小工業・家内工業が支援されました。銀行・保険ではインド人資本の新設が進み、協同組合運動が農村信用の改善を目指しました。教育では、私立の「ナショナル・カレッジ」や地域学校が設立され、奨学金と寄付の仕組みが整備されます。教材や新聞・雑誌は運動を可視化し、詩や歌、演説の定型が共有されました。

一方で、ボイコットの実施には地域差が大きく、農村では英製品の代替が乏しい、価格が高い、といった現実的制約がありました。運動は都市偏重になりがちで、工場労働者や農民の生活改善との接続が弱いとの批判も出ます。治安当局は指導者の拘束、出版の差し止め、学校への圧力で対抗し、運動は波打ちながら継続しました。カルカッタ大会の四綱領は、こうした現場の凸凹を抱えたまま、それぞれの地域に応じた実務に翻訳されていきます。

カルカッタという都市の特性—港湾・印刷・高等教育・金融の結節—は、四綱領の運動を加速しました。職能別・地域別の結社、サロンや討論会、新聞社の編集室、大学の講堂、ガートの階段、宗教祭のパンダルが、政治と文化の交差点として機能し、国民会議の年次大会を越えて日常の公共圏が拡張しました。スローガンは日用品と教育の場に浸透し、家庭の食卓や市場の値札、祈りの歌や講義ノートの中に、四綱領の語彙が息づくようになります。

総じて、カルカッタ大会四綱領は、請願主義から大衆動員へと広がる過程で、穏健派・急進派の分岐点に置かれた共通プラットフォームでした。自治の理念、国産の選好、協力拒否の戦術、教育の自立という四つの柱は、その後のインド独立運動の語彙や技法の源泉となり、多くの地域社会と世代に引き継がれていきます。出来事の年号や人物名だけでなく、具体の実施例や地域差、会内の議事の手触りにまで目を向けると、四綱領の実像がよりはっきり見えてきます。