カルケドン公会議 – 世界史用語集

カルケドン公会議(451年)は、キリストの在り方(キリスト論)をめぐる古代教会最大級の論争に決着を与え、のちの正統教義と教会秩序の広い範囲を定式化した出来事です。ここで確認された「キリストは、一人の位格(ペルソナ)において、混合されず、変化されず、分割されず、分離されることのない二つの本性(神性と人性)を持つ」という定式は、ローマ・コンスタンティノープル・アレクサンドリア・アンティオキア・エルサレムといった主要座を結ぶ普遍教会の基準となりました。他方で、この決定はアレクサンドリア系の伝統に根ざした諸教会から強い反発を招き、シリア、エジプト、アルメニアなどで「非カルケドン派」(しばしば東方正統派・前カルケドン派などと呼ばれます)を生みました。政治的には東ローマ帝国の権威、皇帝と総主教の関係、各都市の座の序列問題とも絡み、宗教と帝国統治の接点が露わになりました。以下では、背景と開催経緯、教義決定の内容と文書、受容と分裂、帝国政治と教会秩序への影響、史料と研究の要点という順で整理します。

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背景と開催まで—エフェソス以後の対立、皇帝の調停、各座の駆け引き

4世紀のニカイア公会議(325年)とコンスタンティノープル公会議(381年)で、父と子と聖霊の関係に関する三位一体論の骨格が整いました。5世紀に入ると、関心はキリストの神性と人性がどのように結びついているかに移ります。特にアレクサンドリア学派は「受肉した御言(ロゴス)の統一」を強調し、アンティオキア学派は「完全な人性の実在」を強調する傾向がありました。431年のエフェソス公会議は、ネストリウスの教説を退け、マリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶことを確認しましたが、和解は不十分で、解釈の幅を残しました。

問題が再燃したのは、コンスタンティノープルの長老エウテュケスをめぐる論争です。彼は「受肉後にはキリストに一つの本性のみ(ミア・フューシス)がある」と主張したと理解され、複数の教会法廷で異端とされましたが、アレクサンドリアの総主教ディオスコロスは彼を擁護しました。449年には皇帝テオドシウス2世の後援のもと、いわゆる「強盗会議(ラトロキニウム)」と後に呼ばれるエフェソスの会議が開かれ、エウテュケスが復権、フラウィアヌス総主教らが失脚させられます。この決定はローマ教皇レオ1世の反発を招き、彼が書簡(通称『トメ(レオの書簡)』)で示したキリスト論理解—神性と人性の区別と結合—が新たな基準として浮上しました。

450年、テオドシウス2世が急逝し、プルケリア皇女とマルキアヌスが帝位を掌握すると、先行の混乱を収拾するために普遍公会議の招集が決定されます。会場はボスポラス海峡の対岸、ビテュニアのカルケドン(現ユスキュダル対岸のカドゥキョイ近辺)に定められ、東方・エジプト・小アジア・バルカンの司教たちが皇帝の護送のもとに集まりました。ローマからはレガトゥス(教皇使節)が派遣され、レオ1世の『トメ』が公式文書として読み上げられます。会議は451年10〜11月にかけて複数回の会期を重ね、信仰の定式と規範(教会法規)を決定しました。

教義決定の中身—カルケドン信条と『レオのトメ』、二性一位格の定式

カルケドン公会議の核心は、いわゆる「カルケドン信条(定式)」の採択です。ここでは、ニカイアとコンスタンティノープルの信条が改めて確認され、431年エフェソスの教会的決定も承認しつつ、キリスト論の表現が次のように定められました—キリストは「まことに神であり、まことに人である。一人子であり、同質(ホモウシオス)として父に関し、同質として私たちに関し(罪を除き)人性をもつ。一人の位格と一人の実体(ヒュポスタシス)において知られ、二つの本性において知られるが、その二性は混合されず、変化されず、分割されず、分離されない」。この四つ組の否定句は、極端な融合(混合・変化)と極端な分断(分割・分離)の双方を退け、神性と人性の区別を保ちつつ、救いの主体としての「一人のキリスト」の統一を守ろうとするものです。

この定式の理解を支えたのが、ローマ教皇レオ1世の『トメ』です。書簡は、キリストの奇跡や受難、飢え・渇き・疲労といった人間的経験の帰属を精緻に区別しながら、二性の協働による救いの経綸を説明しました。会場では『トメ』が朗読され、多くの司教が「これは聖父たちの信仰に一致する」と賛同しました。ただし、すべての参加者が無条件に受け入れたわけではなく、文言の解釈や、アレクサンドリア系伝統(キュリロスの「一つの本性(ミア・フューシス)」表現)の継承の度合いをめぐって、慎重な調整が試みられました。最終的に、キュリロスの正統性と『トメ』の整合性が強調され、極端な一性主義(エウテュケス的理解)は退けられます。

会議は教義だけでなく、教会秩序に関する規範(カノン)も制定しました。特に注目されるのが第28規範で、コンスタンティノープルの座がローマに次ぐ栄誉(第二の座)を持つと定め、帝都の重要性を理由にその管轄権を拡大しようとした点です。これはアレクサンドリア・アンティオキアとの序列関係、さらにはローマ座の首位権理解に関わるため、ローマ教皇庁はこの規範の受容に慎重でした。実際、ローマは第28規範を直ちには承認せず、首位権と総主教制のバランスは以後の数世紀にわたり微妙な政治神学的テーマとして残ります。

受容と分裂—非カルケドン派の成立、地域社会の反応、統一政策の揺れ

カルケドンの決定は、帝国全土で一様に受け入れられたわけではありません。エジプト(アレクサンドリア教会)、シリア、アルメニアなどでは、キュリロスの伝統を自認する勢力が、カルケドン定式を「ネストリオス主義への後退」とみなし、強く反発しました。彼らはキリストの位格的統一を最優先し、「受肉した御言(ロゴス)の一つの本性」という表現を固持します。これが後に「非カルケドン派」「ミアフィシテ派(単性論と訳されることもありますが、彼ら自身はキュリロス的『一つの本性』を単純な混合や一性主義と区別します)」として編成され、今日に続く東方諸教会(コプト正教会、シリア正教会、アルメニア使徒教会、エチオピア正教会など)の源流となりました。

帝国政府は、秩序維持と宗教統一の双方を求め、カルケドン受容を推進しましたが、地方の反発は根深く、総主教の座をめぐる二重任命や暴動が繰り返されました。皇帝ゼノンの時代(482年)には、妥協文書「ヘノティコン」が公布され、カルケドンの名指しを避けてキュリロス的表現での一致を図りましたが、ローマとの関係悪化(アカキオス分裂)を招き、統一は長続きしませんでした。6世紀、皇帝ユスティニアヌスは「三章問題(ネストリウス主義に近いとされた著作群の扱い)」でさらなる調整を試み、553年の第二コンスタンティノープル公会議で決着を図りますが、カルケドン受容/非受容の地域差は存続します。

社会史の視点から見ると、カルケドンをめぐる対立は、単に神学用語の争いではなく、都市アイデンティティと地方の自立、税制や官僚支配への不満、言語共同体(コプト語、シリア語、アルメニア語)とギリシア語帝都文化の緊張とも絡み合っていました。エジプトやシリアで非カルケドン派が根強かった背景には、在地教会組織と修道院運動の力、聖人崇敬と巡礼の地域的ネットワーク、都市と農村の社会経済的溝といった諸要因がありました。7世紀にイスラーム勢力が進出した際、これらの地域で宗教支配が比較的円滑に移行した一因として、帝国教会との長年の緊張が指摘されることもあります。

帝国政治と教会秩序—総主教座の序列、ローマとの関係、法と儀礼の整備

カルケドン公会議は、教義と同じく「秩序」の会議でもありました。第28規範は、帝都コンスタンティノープルの優先権を明文化し、黒海沿岸・小アジア・トラキアなどの教区再編に影響を与えました。ローマ座は使徒ペトロの継承者としての首位権を主張し、教会普遍性(カトリシティ)を踏まえた仲裁役を自任しましたが、東方の総主教制は皇帝との協働を通じて実効性を高め、二つのモデルの緊張が続きます。これは、のちの1054年の東西教会の相互破門へ直線的に繋がるというより、数世紀にわたり「合意と競合」を繰り返す関係の始点として理解されます。

また、カルケドン後の法と儀礼の整備は、帝国社会の統合に重要でした。教会裁判の手続き、司教任命の正統性、修道院の規制、聖遺物と巡礼、礼拝言語と典礼の標準化などが、皇帝勅法と公会議カノンの両輪で進みます。カルケドンの定式は、説教・祈祷文・讃美歌の語彙に浸透し、信徒の信仰実践に具体的な形を与えました。一方で、非カルケドン派の典礼や聖像、聖人伝承も独自の発展を見せ、多元的なキリスト教世界が同時に歴史の舞台に立つことになります。

史料と研究—公会議議事録、教皇書簡、聖人伝、近代史学の論点

カルケドン公会議の研究は、当時の議事録、参加司教の書簡、教皇レオ1世の書簡集、アレクサンドリア系・アンティオキア系の神学著作、聖人伝や年代記に依拠します。議場での発言記録は、異議申立てや拍手、文書朗読の反応まで比較的詳細に伝えており、古代の討議文化を知る手がかりにもなります。レオの『トメ』は教義史の中心文書であり、キュリロス、グレゴリオス・ナジアンゾス、アタナシオスらの伝統とどのように接続されるかが検討されます。非カルケドン派側の史料は、迫害や殉教の語りを通じて地域社会の記憶を保存し、宗教アイデンティティの形成過程を示します。

近代の研究では、神学史の枠を越えて、言語・社会・政治の交差点としてカルケドンを読む試みが進みました。例えば、「混合されず、変化されず、分割されず、分離されず」という四語句の修辞的機能、ラテン語とギリシア語の用語転換、位格(ヒュポスタシス)と本性(フューシス)の哲学的背景、地方言語教会と帝都文化の衝突、皇帝と公会議の相互依存などが論点です。東方諸教会との現代の教会間対話(エキュメニカル・ダイアローグ)では、キュリロス的伝統の再評価とカルケドン定式の解釈の歩み寄りが進み、相互の破門解除や共同声明が少しずつ積み重ねられています。歴史的分裂が必ずしも神学的本質の断絶に等しくないことを示す成果も現れています。

総じて、カルケドン公会議は、キリストの神秘を語る言葉を磨き上げる努力と、帝国社会の多様性を一つの秩序に収めようとする政治の努力が交錯した場でした。そこで生まれた定式は、多くの教会にとって今も信仰告白の要であり続けますが、同時に、それに異議を唱えた伝統の側にも、固有の正統意識と歴史が積み上がっています。史料を丁寧に読み、地域の声に耳を澄ませることで、この公会議の重層性がより鮮やかに見えてくるはずです。