カンボジア人民共和国(People’s Republic of Kampuchea, PRK)は、1979年1月にポル・ポト派(民主カンプチア)政権が崩壊した直後、ベトナム軍の介入と国内勢力の合流によってプノンペンに樹立された政体を指します。1979年から1989年までの約10年間、内戦を継続しながら国家の再建・行政の復旧・飢餓と疫病の克服・難民帰還の受け皿づくりなどに取り組みました。一方で、ベトナムの軍事的・政治的影響を強く受け、東西冷戦の対立構造の中で国際的承認を十分に得られず、国連のカンボジア代表権は長く民主カンプチア側が保持し続けました。カンボジア人民共和国は、極端な社会実験の後始末と平時の国家機能の立て直し、対外的孤立と正統性の争い、農村と都市の再構築といった難題を同時に背負った暫定期の国家でした。ここでは、成立の背景と権力構造、国内統治と対外関係、経済社会の復旧と人道課題、次の国家(1991年の和平・1993年の立憲王政)への橋渡しという観点から、分かりやすく整理して解説します。
成立の背景と権力構造—政権崩壊ののちの緊急国家
1975年に樹立された民主カンプチア政権は、都市住民の強制疎開、集団化、貨幣と市場の否定、宗教・教育の破壊、粛清と飢餓によって社会を徹底的に荒廃させました。農地と灌漑は維持されず、医療や行政の人材は粛清で失われ、飢えと病が広がりました。ベトナムとの国境紛争が激化し、1978年末にはベトナム軍が反攻、1979年1月にプノンペンを制圧します。
このとき結成されたのが、ヘン・サムリンを議長とする救国統一戦線(後のカンボジア人民革命党=PRKの与党)で、彼らはカンボジア人民共和国の樹立を宣言しました。国家元首に相当する評議会議長、閣僚評議会(政府)、人民革命評議会(最高機関)といった枠組みが整えられ、地方には人民委員会が設置されました。治安維持と軍事には人民軍(後のカンボジア国軍の前身)と民兵組織が動員され、行政・教育・保健の骨格には旧王国期・植民地期の制度の断片が再利用されました。
権力構造の核心は、党(カンボジア人民革命党)—政府—軍—治安機関の結節で、政治局と中央委員会が政策決定を主導しました。主要指導者にはヘン・サムリン、フン・セン、チア・シムらが名を連ね、彼らの多くはかつての民主カンプチアからの離反者、あるいはベトナムに亡命していた人々でした。1979年制定の憲章と1981年の憲法は、社会主義的秩序と人民代表機関の原理を掲げ、宗教の自由や私有財産の限定的容認など、極端な否定からの揺り戻しを明文化しました。
ただし、戦時状況と外部依存の中で、政策は現実対応が優先され、理念先行の一枚岩ではありませんでした。党内ではベトナムとの距離感、集団化の程度、民間経済の許容範囲、反体制勢力との和解などをめぐって調整が続き、行政の現場では人材不足と資材欠乏が常態化しました。
国内統治と対外関係—国際孤立の中での生存戦略
カンボジア人民共和国は、国連での代表権を得られないという厳しい条件下でスタートしました。西側諸国や中国、ASEANの多くはベトナムの「占領」とみなし、民主カンプチア連合側(ポル・ポト派・シアヌーク派・ソン・サン派の連合)を国連代表と認め続けました。国境地帯では連合勢力がゲリラ戦を展開し、タイ側の難民キャンプは政治・軍事の後方基地の性格を帯びました。
こうした国際環境の中で、PRKの主な支援国はベトナムとソ連・東欧諸国でした。軍事・治安・行政の訓練、医薬品・食糧・燃料の供与、道路・通信の修復など、基礎的な部分は同盟側の援助に依存しました。外交的には、徐々にインドやラオスなどとの関係が整い、人道支援の枠組みでは国連機関・NGOとの限定的協力が進みましたが、制裁と承認問題がつねに活動の制約となりました。
国内統治では、破壊された国家機能をゼロから起動し直す作業が続きました。戸籍・住民登録・土地の境界と権原の確認、警察・裁判の再建、学校と教員養成、病院と看護師育成、栄養失調と感染症対策、地雷除去、道路と橋の補修など、課題は山積しました。宗教の再開が認められ、上座部仏教の寺院と僧団はゆっくりと復興し、地域社会の精神的拠り所と教育・福祉の拠点として機能回復を始めます。
治安面では、国境地帯の戦闘とテロ、徴兵・徴発をめぐる軋轢、地雷・不発弾の被害が社会を覆いました。政府は村落防衛組織の整備、交通要衝の警備、情報網の再構築で対応しましたが、資源不足と軍の規律問題は尾を引きました。
経済・社会の復旧—飢餓の回避から段階的な市場開放へ
経済政策の第一目標は「生き延びること」でした。1979〜80年は国際人道支援と同盟国援助に頼り、コメと医薬品の供給、栄養改善、疫病対策が優先されます。農村では共同体の再建と小規模な協同組合、灌漑の修復、牛や農具の供給が急務でした。都市では配給と公的雇用の確保、最低限の卸売・小売の再開が行われ、貨幣と市場が段階的に復活します。
1980年代半ばにかけて、PRKは計画経済の枠内での柔軟化を進めました。農業では生産割当と超過分の自由販売を併用し、家族農のインセンティブを高めます。工業・商業でも国営主体を維持しつつ、小規模民間や合弁の余地を拡大しました。価格の部分自由化と闇市の容認はインフレを伴いましたが、物資の流通は次第に改善し、飢餓の再発は抑制されました。
社会政策では、教育の再開と識字の回復、教員・医療人材の加速養成が最優先となりました。戦災孤児や寡婦、高齢者、障害者への支援、難民・国内避難民の帰還と再定住の支援、地雷汚染地域の生活再建が続きます。首都と地方の格差は大きく、道路網の寸断は市場統合を妨げましたが、メコン—トンレサップの水運が物流の命綱として機能しました。
文化と宗教の領域では、寺院・仏教儀礼・伝統芸能の復活が進み、粛清と破壊で断たれた記憶の回路がつなぎ直されました。同時に、虐殺の責任追及や記憶の公的扱いは国際政治に阻まれ、長く棚上げされました。職能教育や公務員制度の再建は、人的資本の枯渇ゆえに時間を要しました。
移行と遺産—国家再建の土台と政治の連続性
1986年のドイモイ(ベトナムの刷新)やソ連のペレストロイカ、米中ソの関係変化が外部環境を変え、ベトナム軍は段階的撤退を開始します。1989年、国名は「カンボジア国(State of Cambodia)」へ改称され、宗教・私有財産・市場の一層の容認が打ち出されました。1991年のパリ和平協定で内戦終結の枠組みが整い、国連暫定統治機構(UNTAC)が武装解除・選挙・行政支援を担います。1993年の総選挙を経て立憲王政が復活し、PRK期の多くの指導者は、新体制下でも政治・行政の中枢に残りました。
カンボジア人民共和国の遺産は複雑です。一つには、廃墟と化した国家に基礎的行政・教育・医療を再び立ち上げ、飢餓と疫病の最悪期を脱したという実績があります。もう一つには、対外的孤立と国内の強権的運用、表現の自由や法の支配の脆弱さ、ベトナムへの依存という負の側面があります。制度や人材の連続性は、安定の基盤であると同時に、政治の硬直や権力集中の温床にもなりえました。
2000年代以降に進む過去の責任追及(クメール・ルージュ特別法廷)や記憶の再構築は、PRK期の限界と外部要因を含めて当時を捉え直す作業でもあります。復興の現場で積み上げられた学校・保健・インフラのネットワーク、宗教・文化の回復、村落の相互扶助は、今日のカンボジア社会の基層を成しています。他方、土地権利の混乱や格差、地雷汚染は、当時の未解決課題が延長されたものとして現在も残ります。
要するに、カンボジア人民共和国は、戦後復興と冷戦政治の狭間で生まれた「つなぎの国家」でした。短い期間に、国家の再起動、人命の救済、基本制度の復元という最低限の目標に食らいつきながら、次の政治秩序に橋を架けたことが、その歴史的な意味だといえます。功罪が混在するこの時期を丁寧に読み解くことは、カンボジア現代史を立体的に理解するための欠かせない作業です。

