イタリア・トルコ戦争 – 世界史用語集

「イタリア・トルコ戦争(1911〜1912)」は、当時オスマン帝国領だったトリポリタニアとキレナイカ(おおむね現在のリビア西部と東部)をめぐって、イタリア王国が領土獲得を目指して起こした戦争を指します。イタリアは近代国家としての地位向上と植民地の獲得を急ぎ、1911年9月29日にオスマン帝国へ宣戦布告しました。主戦場は北アフリカの沿岸都市(トリポリ、ベンガジ、デルナ、トブルクなど)で、地中海やエーゲ海では海軍行動も行われました。1912年10月18日のローザンヌ条約(オチー条約)で戦争は終結し、イタリアはトリポリタニアとキレナイカの支配権を手にしました。航空機の偵察と爆撃の初実戦、無線通信と装甲車の活用、島嶼占領を伴う海陸共同作戦など、20世紀型戦争の要素が早くも現れたことでも知られます。

一方で、戦場の現実は容易ではありませんでした。イタリア軍は沿岸都市の占領には成功したものの、内陸ではセヌーシー教団など現地勢力やオスマン正規軍将校の指揮による抵抗に直面し、砂漠の環境、補給の脆弱さ、疫病に苦しみました。停戦・講和後も現地抵抗は長く続き、植民地統治はのちにファシズム期の苛烈な「平定」へ連なります。戦争はまた、オスマン側の弱体を露わにして第一次バルカン戦争(1912)を誘発する一因となり、ヨーロッパ国際秩序の再編を早めました。ここでは、開戦背景と戦局の推移、講和と領土の処理、そして軍事・政治・社会の広い意味をわかりやすく整理します。

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背景と開戦:領土獲得の野心とオスマンの動揺

19世紀末のイタリアは、統一を果たしたとはいえ列強内での地位は脆弱で、エチオピア遠征の失敗(アドワの敗北、1896年)の痛手も残っていました。地中海世界での影響力を強めるには、北アフリカでの足場が不可欠だと考えられ、トリポリタニアとキレナイカは「未割当の空白地」のように見なされました。経済界やナショナリストは、輸出市場の確保、移民の受け皿、国家威信の回復を主張し、ジョリッティ政権は国内の反対(社会党を中心とする反帝国主義)に配慮しつつも、対外的に機会をうかがいます。

一方、オスマン帝国は青年トルコ革命(1908)後の体制変動と地方統治の不安定化に直面していました。トリポリとベンガジでは、中央からの統治が弱く、地元の宗教勢力や部族指導者の影響が強く残っていました。イタリアは長年、経済利権や居留民保護を梃子に影響力を浸透させ、新聞や議会では「トリポリはイタリアの自然の延長」とする論が繰り返されました。国際的にも、英仏露独の列強はそれぞれの思惑からイタリアの動きを黙認する空気があり、あからさまな牽制は限定的でした。

1911年9月、イタリアはオスマン側に最後通牒を突きつけ、居留民保護や行政改革の名目で軍事介入の準備を表明します。9月29日に宣戦布告が発せられ、海軍がトリポリ沿岸を封鎖、翌10月上旬から上陸作戦が始まりました。イタリアは最新鋭の戦艦と巡洋艦、輸送船団、陸軍部隊を動員し、地中海の制海権を握って短期の決着を狙いました。しかし、沿岸都市の占領後に直面するであろう内陸の抵抗と補給の困難については、当初の見積もりが甘い面がありました。

イタリア国内では、この開戦はナショナリストの熱狂と社会主義者の反戦運動を同時に呼び起こしました。詩人パスコリの「偉大なるプロレタリアは動き出した」という演説は、矛盾をはらみつつも「植民地を求める国民国家」というイメージを広めました。議会多数派を率いたジョリッティは、短期戦と限定的な犠牲で外交的成果を得る計算でしたが、現実は必ずしも期待通りには進みませんでした。

戦局の展開:トリポリ・キレナイカ、ドデカネス、海空の新局面

開戦直後、イタリア海軍はトリポリとベンガジを砲撃し、10月5〜7日にかけてトリポリを占領しました。続いてデルナ、トブルクなど主要港湾に上陸し、沿岸線に橋頭堡を築きます。12月のアイン・ザラの戦いでは、イタリア軍がトリポリ近郊のオスマン・現地連合部隊を退け、都市周辺の防衛線を押し出しました。1912年6月のズンジュール(ザンズール)攻撃でも、装甲車と砲兵の支援を組み合わせて前進を図り、沿岸地帯の掌握を進めました。

しかし、内陸に入ると事情は一変します。砂漠とオアシスの点の支配は補給の悪化を招き、長い防御線の維持は兵力を食いつぶしました。オスマン帝国の若手将校(エンヴェル・ベイ、ムスタファ・ケマルら)とセヌーシー教団を軸にした現地戦士は、地の利を活かして奇襲と波状攻撃を繰り返し、イタリア軍の外郭陣地を脅かしました。トリポリ周辺では住民蜂起と前線の緊張が重なり、1911年秋には激しい市街戦と報復の応酬が生じました。疫病と炎暑も兵力の消耗を加速し、イタリア側は想定外の長期戦を強いられます。

海上では、イタリアは制海権を活かして広域の示威行動を展開しました。1912年2月のベイルート沖海戦では、イタリア巡洋艦がオスマン艦艇を撃沈し、東地中海での存在感を見せました。さらに戦局後半、イタリアは戦略の圧力点をエーゲ海へ移します。1912年5月、ロードス島をはじめとするドデカネス諸島を占領し、海軍基地と補給拠点を確保しました。これはオスマン中枢のアナトリアに近い海域での圧迫となり、講和を引き出すための強力なカードとなりました。ダーダネルス海峡への示威行動や沿岸砲台への砲撃も、心理的な圧力を高めました。

この戦争は、軍事技術の面で画期的でした。イタリア軍は気球と航空機を偵察に用い、1911年11月にはガヴォッティ中尉が航空機から爆弾を投下し、世界で最初期の空爆を実施しました。写真偵察と無線電信は、砂漠の広い戦場で敵の位置や補給路を捉える手段として重宝されました。地上では装甲車が機動火力を提供し、砲兵は塹壕と野戦要塞に対する集中射撃を行います。もっとも、技術の優位がそのまま戦略的決着に直結したわけではなく、地形・気候・住民の支持といった要素が勝敗を左右したことは、当時の関係者に深い教訓を残しました。

国際政治の視点では、イタリアの攻勢とオスマンの防戦が長引くなかで、バルカン諸国(セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロ)が「いまこそ」とばかりに対オスマン戦を準備し始めました。イタリアの戦果は、オスマンの周辺領域に「穴」が空き得ることを示し、列強の介入バランスを読み直す契機になりました。戦争はリビアだけの出来事ではなく、バルカン半島と東地中海の大きな再編の前触れでもあったのです。

講和と領土処理:ローザンヌ(オチー)条約の内容

長期戦で双方が消耗する中、決定打となったのはエーゲ海でのドデカネス占領と、バルカン緊張の高まりでした。オスマン政府は、バルカン戦争の勃発が目前に迫る中で二正面を避ける必要に迫られ、講和交渉は加速します。1912年10月18日、スイスのオチー(ジュネーヴ近郊、ローザンヌの一部)で講和条約が締結されました。一般に「ローザンヌ条約(第一次ローザンヌ、オチー条約)」と呼ばれます。

条約の要点は、①オスマン帝国がトリポリタニアとキレナイカに対する権限を放棄し、スルタンの勅令をもって自治的な秩序を整える体裁でイタリアの支配を事実上承認すること、②イタリアが捕虜を返還し、メッカ巡礼など宗教に関わる便宜を保証すること、③イタリアがドデカネス諸島を占領解除する約束をしつつ、実際の返還は条件と時期に関して曖昧さを残したこと、に集約されます。形式上は「オスマンの体面を保つ」文言が盛られましたが、実質的にはイタリアが北アフリカの新たな支配者となることが確定しました。

ドデカネス諸島については、第一次世界大戦やその後の国際関係の変転の中でイタリア支配が既成事実化し、最終的には1923年の(第二の)ローザンヌ条約で国際的に承認されます。トリポリタニアとキレナイカでは、当面は宗教・慣習を尊重する柔らかな支配を表向き掲げたものの、実務上は軍政と都市行政、税制・治安の整備が進みました。沿岸部の都市はイタリア化が進む一方、内陸では抵抗と折衝が続き、統治の難しさがすぐに露わになりました。

講和はイタリア国内で「遅すぎたが必要な決着」と受け止められ、政権は一応の外交的成功を主張しました。けれども、戦費の膨張と戦死・病死の数字、統治コストの展望は、議会や世論に複雑な感情を残します。国家威信の回復という名目の裏側で、実務を担う官僚・軍・企業の負担が増し、植民地経営の実態は容易ではないことが明らかになりました。

影響と評価:軍事技術、国際秩序、植民地統治の現実

イタリア・トルコ戦争の影響は三つの層で理解できます。第一に軍事技術です。航空偵察と爆撃の使用、無線電信の普及、装甲車の試験的運用、海軍と陸軍の共同作戦は、のちの第一次世界大戦で標準化される要素を先取りしていました。空爆の法的・倫理的問題は当時から議論を呼び、1907年のハーグ陸戦条規の精神をどう適用するかが問われました。写真偵察と気球観測は砲兵射撃の精度を高め、野戦要塞と塹壕の攻防は、近代火力の前で歩兵がどのように動くべきかという課題を突きつけました。

第二に国際秩序です。戦争はオスマン帝国の周縁領域を切り取る先駆けとなり、バルカン諸国に対オスマン戦争の好機を認識させました。実際、講和の直後に第一次バルカン戦争が勃発し、バルカンの政治地図は大きく塗り替えられます。列強は地中海の制海権とエーゲ海の島嶼支配をめぐって警戒を強め、イタリアは「地中海の一角の強国」として存在感を増しました。ただし、英仏独露の大枠の均衡を動かすには至らず、イタリアは依然として「中堅」の立場から機会主義的に動くことを余儀なくされました。

第三に植民地統治の現実です。沿岸都市部の再開発や農業移民の導入、インフラ整備など、イタリア化のプログラムは進められましたが、内陸では部族社会と宗教勢力の自治が強く、抵抗は断続的に続きました。とくにキレナイカではセヌーシー教団の影響力が強く、第一次世界大戦期には英独の動向と絡んで独自の軍事・外交を展開します。1920年代以降、ファシズム政権は厳しい掃討作戦と強制移住、収容を伴う政策で「平定」を図り、オマル・ムフタールの抵抗をはじめとする闘いを鎮圧しましたが、その過程は多大な人命と社会的傷痕を残しました。1911〜12年の戦争は、こうした長期の植民地統治の出発点だったのです。

イタリア国内政治にとっても、この戦争は示唆に富む出来事でした。政府は「短期・限定・低コスト」の対外行動を想定しましたが、現実は長期化と予算膨張、社会の分断をもたらしました。ナショナリズムは高揚した一方、社会党などの反戦・反帝国主義運動も広がり、街頭と議会での対立は激化します。のちの第一次世界大戦期の「参戦派と中立派」の分裂、さらに戦後の政治的ラディカル化の底流には、この経験が影を落としています。メディアは電信と特派員報道を通じて戦場を「リアルタイム」に可視化し、世論と政策の相互作用が近代的な形で加速したことも重要です。

最後に位置づけをまとめると、イタリア・トルコ戦争は、①列強の植民地競争とオスマン帝国の弱体化が重なったタイミングで生じ、②海軍力と新技術を駆使したものの内陸戦では地理・社会の条件に苦しみ、③エーゲ海の島嶼占領と国際圧力で講和を引き出し、④リビア支配とドデカネス支配の既成事実を積み上げ、⑤バルカン戦争と第一次世界大戦への連鎖の一部を成した、という多面的な出来事でした。単なる「領土拡張の成功」という一言では片づけられない、20世紀世界史の入口に立つ複雑な戦争だったといえます。