紅衛兵 – 世界史用語集

紅衛兵(こうえいへい、Red Guards)は、1966年に始まる中国の文化大革命の初期から中期にかけて、主に中学・高校・大学の学生・若者によって自発的・動員的に形成された政治運動の担い手を指す呼称です。彼らは毛沢東の革命理念を体現する「無産階級の戦士」を自任し、「四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)の打破」や既成権威の批判を合言葉に、街頭デモ、集団討論(大字報の掲示)、批判集会(闘争会)、学校・機関の接収、幹部の査問などを展開しました。行動は当初、党中央と毛沢東・林彪らの後押しを受けて全国に拡大し、やがて各派に分裂し武力衝突へと発展します。国家機構や教育・学術、日常生活に深い混乱をもたらし、膨大な人的被害と長期にわたる社会的後遺症を残しました。以下では、成立の背景、運動の展開と内部構造、社会への影響、収束と後日談という観点から整理します。

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成立の背景:文化大革命の発動と若者動員の論理

紅衛兵が台頭する背景には、党指導部内の権力闘争と革命理念の再動員がありました。1960年代前半、中国は大躍進政策の破綻と自然災害の影響で経済が深刻化し、党内では現実重視の調整派(劉少奇・鄧小平ら)と、革命の純粋性・階級闘争の継続を強調する毛沢東路線の対立が表面化していました。毛沢東は、官僚化した党・国家機構が新たな支配階級に転化することを警戒し、既存組織の外側から「革命の主体」を作り出す必要を感じました。そこで選ばれたのが、学校に集まる若者たちでした。

1966年5月、中央は「文化大革命」の開始を告げ、北京市の大学・中学を皮切りに、教師や指導者層への批判が鼓舞されました。同年8月、毛沢東は天安門広場で紅衛兵と複数回にわたり閲兵式のような大規模集会を行い、「反権威・反官僚・階級敵への闘争」の正当性を示しました。数百万単位の若者が全国で紅い腕章を巻き、「造反有理(造反には理がある)」のスローガンの下、各地で組織を結成します。紅衛兵は正式の国家部局ではなく、学校・工場・機関の単位で自然発生的に結成された多数のグループの総称で、中央の文革小組(江青・張春橋・陳伯達・康生ら)が政治的にこれを庇護しました。

思想的には、毛沢東語録の暗誦、革命史の英雄化、階級成分(出自)の重視が運動の規範になりました。「黒五類」(地主・富農・反革命・悪辣分子・右派)とされた家庭出身者は差別されやすく、「紅五類」(革命幹部・貧農・下層中農・革命軍人家族・革命烈士遺族)などの出自が優位に扱われました。こうした出自観は仲間内の序列を生み、やがて紅衛兵組織内部の対立の火種にもなります。

運動の展開と内部構造:四旧打破、権威批判、派閥化と武闘

運動の初期、紅衛兵は「四旧打破」を掲げ、街路名・店名の変更、寺廟・祠堂・歴史的建造物や仏像の破壊、書籍・骨董の焼却、服装や髪型・礼儀作法への攻撃などを行いました。学校では教師への公開糾弾、研究所・文化機関では知識人の批判が相次ぎ、地方政府・党機関の幹部は「走資派(資本主義の道を歩む幹部)」として吊し上げられました。大字報(壁新聞)とマイクによる街頭宣伝は、参加者の政治参加の場であると同時に、誹謗・デマ・名誉毀損の温床にもなりました。

1967年に入ると、紅衛兵は一枚岩ではなくなります。各地で「保守派(既存機関の秩序維持を志向)」と「造反派(従来の指導部の打倒を志向)」が対立し、さらに出自や利害の違い、中央からのシグナルの解釈差によって細分化します。軍や工場労働者を取り込んだ組織も現れ、武器庫の占拠・自製武器・軍からの流出兵器による武闘が発生しました。都市ではバス・鉄道・通信の遮断、地方では農村組織や人民公社の支配権をめぐる争奪が続き、地方行政はまひ状態に陥りました。

中央の対応は揺れます。文革小組はしばしば造反派を鼓舞しましたが、秩序の崩壊は軍の出動を必要としました。1967年末から68年にかけて、解放軍は「三支二軍(軍が工場・学校・機関を支援し、軍がまた生産と宣伝に参加)」の名の下に介入し、革命委員会(軍・幹部・群衆代表の三者連合)を設置して地方統治を再編しました。これにより、紅衛兵組織の一部は権力から切り離され、内部対立は一層先鋭化します。

運動の過程で、個人攻撃・私刑・拘束・リンチ・集団暴力が多発し、命を落とした人や後遺症を負った人が多数にのぼりました。文化財の破壊や系譜・家蔵文書の焼却は、地域社会の記憶に不可逆的な損失を与えました。紅衛兵の当事者のなかには、当時の行為を後年悔やみ証言する人々も多く、世代の記憶の中で運動は賛否入り混じった重い影を落としています。

社会・教育・経済への影響:日常の分断と知の空白

紅衛兵の活動は、政治領域にとどまらず、社会の隅々まで影響しました。まず教育です。大学入試は長く停止され、研究・授業は中断されました。教員や研究者は批判・下放(農村や工場での労働)に送られ、世代間の知識継承は断たれました。学校現場では、功利的な学習より「革命化」を最優先とし、授業時間が政治学習・集会・行進に置き換えられました。これにより、都市部の若者の基礎教育が空洞化し、のちの進学・就業に長期的な影響を及ぼしました。

次に、都市と農村の関係です。1968年以降、中央は秩序回復と都市の失業対策を兼ねて「上山下郷(知識青年の下放)」を大規模に進め、多数の紅衛兵世代が辺境・農村へ送り出されました。若者は農業やインフラ作業に従事し、現地住民との文化ギャップや資源配分をめぐる摩擦を経験しました。下放は、個人にとっては成長の契機であったと語られる一方、教育機会の喪失・都市への復帰の困難といった負担も大きかったのです。

経済面でも、工場・交通・港湾・商流がたびたび停止しました。指導層の追放や組織の再編は、生産計画の遂行を阻害し、設備の破壊や部品の欠乏をもたらしました。物資配給や住民登録(戸口)といった日常行政も滞り、都市生活の秩序は不安定化しました。医療・文化・出版では、政治基準による選別が強化され、検閲と自己検閲が広く浸透しました。

家庭・個人のレベルでは、出自や政治歴に基づく差別、家宅捜索や財産没収、私生活の暴露が日常化し、多くの人が「階級背景」を理由に進学・就職・結婚で不利益を受けました。人々の間には相互不信が広がり、友情や親族関係にも深い亀裂が生じました。この経験は、後年の社会心理に長く影響を残しています。

収束・再編・後日談:軍の介入、下放、そして世代の記憶

1968年以降、軍の介入と革命委員会の設置により、紅衛兵の活動は次第に統制されます。1969年には第九回党大会が開かれ、林彪が毛沢東の後継者として格上げされましたが、1971年に林彪事件が発生すると、文革の正統性は大きく揺らぎました。この前後、紅衛兵は組織としての求心力を失い、若者の大多数は下放を経験するか、工場・農村での常勤に吸収されていきます。1976年の周恩来・毛沢東の死、四人組の逮捕により、文化大革命は政治的に終結へ向かいました。

1977年の大学入試(高考)再開は、知の回路を復旧する象徴的な出来事でした。紅衛兵世代の一部は、遅れて大学に進み、のちに改革開放期の専門家・官僚・企業人として重要な役割を果たします。他方、教育空白と下放経験のためにキャリア構築が大きく遅れた人々も多く、世代内の格差は大きくなりました。

改革開放期以降、中国の公式見解は文化大革命を「党・国家・人民に重大な災難をもたらした内乱」と位置づけ、総括と是正が図られました。紅衛兵についても、初期の理想主義や社会改革の意欲を評価する声がある一方、暴力と破壊、人格と人権の踏みにじりに対する厳しい批判が根強く存在します。都市ごと・学校ごとの歴史記憶は多様で、回想録・聞き書き・地方史の収集が進むにつれ、運動の内部の異質性—参加の動機、行動の振幅、後悔や和解の物語—がより立体的に描き出されるようになりました。

海外では、紅衛兵は1960年代の世界的な若者運動の一部として参照されることもありますが、中国の政治体制・歴史的文脈に根ざした固有の現象であり、単純な比較は慎重であるべきです。国家権力のシグナル、党内権力闘争、出自による身分秩序、都市と農村の断層が複合したところに紅衛兵が生まれ、拡大し、やがて収束していったことが重要です。

総じて、紅衛兵は、革命理念を掲げた若者運動でありながら、国家と党の権力、社会の身分秩序、教育と知識のあり方に根こそぎの変化をもたらした存在でした。人々の人生、地域の文化、制度の設計に残した痕跡は、今日に至るまで議論の対象であり続けています。賛否を超えて事実を丁寧に積み上げることが、あの時代を理解するうえで欠かせない作業です。