イタリア統一戦争 – 世界史用語集

「イタリア統一戦争」とは、ウィーン体制下で分裂していたイタリア半島の諸国家が、19世紀半ばから後半にかけて戦争・外交・民衆運動を組み合わせて統合され、最終的にイタリア王国が成立・拡張していく一連の過程を指します。狭義には1859年のサルデーニャ王国とオーストリア帝国の戦争(第二次イタリア独立戦争)から、1866年の普墺戦争に連動した第三次イタリア独立戦争、そして1870年のローマ併合までを含めます。中心人物は、ピエモンテ=サルデーニャの宰相カヴール、義勇の闘士ガリバルディ、そして国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世です。フランス皇帝ナポレオン3世やプロイセンのビスマルクなど列強の思惑も交錯しました。戦場の勝敗だけでなく、密約・住民投票・領土交換が複雑に絡み、都市から農村まで生活を揺さぶる大転換となりました。

全体の流れは、①外交工作と仏軍の援助を梃子に北部からオーストリアの支配を切り崩す、②ガリバルディの「千人隊」が南部・シチリアを制して統一の輪郭を一気に広げる、③ドイツ統一戦争の余波でヴェネトを獲得し、④普仏戦争の混乱を突いてローマを併合する、という四段階で捉えると理解しやすいです。ミラノ・ロンバルディア、トスカナ・中部諸公国、ナポリ=両シチリア、ヴェネツィア、ローマと、地域ごとに事情が異なるため、戦闘と住民投票、外交と都市暴動が交互に現れます。赤十字創設のきっかけとなったソルフェリーノの戦いや、海戦の敗北にもかかわらず外交で実を取る1866年の展開など、象徴的な場面も多いです。

以下では、背景と起爆点、1859〜61年の形成期、1866〜70年の仕上げ、そして統一の仕組みと余波という四つの側面から、わかりやすく整理します。固有名詞や年号は多いですが、要所を押さえれば統一のロジックが見えてきます。

スポンサーリンク

背景と起爆点:ウィーン体制からカヴール外交へ

1815年のウィーン体制で、北イタリアのロンバルディア=ヴェネツィアはオーストリア帝国の直轄となり、中部はハプスブルクと縁戚の諸公国、教皇領が広がり、南部はブルボン系の両シチリア王国が支配していました。統一志向は秘密結社カルボナリやマッツィーニの青年イタリア運動などの形で地下から広がりましたが、1848年革命の高揚と挫折を経て、武装蜂起のみでは持続的成果を得にくいことが明らかになります。この段階で頭角を現すのが、ピエモンテ=サルデーニャ王国の宰相カミッロ・カヴールです。

カヴールは、鉄道・関税・産業育成を進める近代化政策と、列強の承認を取りつける現実外交を両輪に据えました。彼はクリミア戦争(1853〜56)に小兵力を派遣して講和会議の席を確保し、イタリア問題を国際議題に押し上げます。さらに1858年、フランス皇帝ナポレオン3世とプロンビエールで密談し、オーストリアを挑発して開戦させる代わりに、仏軍の援助と引き換えにサヴォイアとニースをフランスへ割譲する秘密合意を取り付けました。こうして、統一は「ピエモンテ主導・国際承認付きの秩序再編」という方向に舵を切ります。

一方、民衆の側では、ガリバルディが1849年のローマ共和国防衛で名を上げて以降、義勇兵のネットワークを広げていました。彼はカヴールと戦略的に緊張しながらも、場面ごとに連携して「国家の枠」と「大衆の熱意」を接合する役割を果たします。王権、自由主義者、共和派、地方エリートが、時に競合しつつも「オーストリアの後退」という共通目標に収束していく構図が整いました。

1859〜1861:第二次独立戦争、千人隊、王国の成立

1859年春、オーストリアはピエモンテに最後通牒を突きつけ、宣戦に踏み切ります。ここに第二次イタリア独立戦争が始まり、フランス軍が約束通り参戦しました。5月のマジェンタ、6月のソルフェリーノで連合軍は激戦の末に勝利します。ソルフェリーノの凄惨な戦場を目撃したスイス人アンリ・デュナンが後に赤十字運動を提唱したことはよく知られています。北部のオーストリア軍は後退し、ロンバルディアはサルデーニャに割譲されました。

しかし戦局がさらにヴェネトへ及ぶ前に、ナポレオン3世は死傷の多さとプロイセンの動向を懸念し、ヴィッラフランカでオーストリアと単独講和に踏み切ります。これはロンバルディアのみをサルデーニャに譲る一方、中部諸公国の帰趨を住民に委ねる含みを残しました。カヴールは激怒して一時辞任するものの、トスカナ、パルマ、モデナなど中部での住民投票により、これら地域はサルデーニャへの編入を決めます。その代償として1860年、サヴォイアとニースがフランスへ割譲されました。こうして、北中部を核とする「イタリア」像がまず形成されます。

同年、統一の行方を決定づけるのがガリバルディの「千人隊(赤シャツ隊)」です。彼はジェノヴァ近郊クアルトを出帆し、シチリア西岸のマルサーラに上陸しました。大土地所有と旧体制の残る南部で義勇軍は住民の支持と都市蜂起を取り込みつつ進撃し、パレルモ、メッシーナを経て半島に渡り、ついにナポリへ入城します。両シチリア王国の軍は各所で抵抗したものの、政治的求心力を失い、体制は崩れました。ガリバルディは臨時の独裁権を持ちながらも、王国との対立を避けて北上し、テアーノでヴィットリオ・エマヌエーレ2世と会見して征服地を献上します。

1861年3月、トリノでイタリア王国の成立が宣言され、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が王位に就きました。首都は当初トリノ、のちにフィレンツェ、1871年にローマへ移ります。もっとも、統一は完成ではなく始まりでした。南部では新政権への不満と旧体制残存勢力・逃散兵が結びついた反乱(いわゆる「山賊(ブリガンティ)戦争」)が激化し、厳しい治安作戦と徴税・徴兵の導入が地域社会に大きな摩擦を生みました。法制度・軍制・教育の統一は国家建設の要でしたが、北と南の格差は長く尾を引く課題となります。

1866〜1870:第三次独立戦争とローマ併合

1866年、ドイツ統一をめぐる普墺戦争が勃発すると、イタリアはプロイセンと同盟してオーストリアに宣戦します。これが第三次イタリア独立戦争です。陸のクストーツァ会戦と海のリッサ海戦でイタリア軍は敗北を喫しましたが、北方でプロイセンがケーニヒグレーツで勝利したため、講和条件ではイタリアに有利な展開となりました。最終的にヴェネトはフランスを仲介してイタリアへ割譲され、国家の地図はもう一歩完成に近づきます。ここで示されたのは、「戦術の敗北でも戦略的連携と外交で成果を得る」という統一過程の特色でした。

残る大目標はローマでした。教皇領とローマ市は、フランス第二帝政の駐屯軍によって守られており、イタリア政府は直接衝突を避けて機会を待ちます。1870年、普仏戦争でフランスが苦境に陥り、ローマ守備の仏軍が撤退すると、イタリア軍は進軍し、ポルタ・ピアで城壁の一角を破って市内へ入ります。住民投票の結果、ローマはイタリア王国に併合され、翌1871年に首都が移されました。こうして地理的な統一は達成されますが、教皇は「バチカンの囚人」として新国家を承認せず、教会と国家の対立(ローマ問題)は1929年のラテラノ条約まで続きました。

1878年にヴィットリオ・エマヌエーレ2世が没し、ウンベルト1世が継ぎます。外交では三国同盟(1882)など新たな国際配置が模索され、国内では選挙制度の拡大や工業化の進展、南部の移民増加など、統一国家としての課題が顕在化しました。統一の軍事段階が終わっても、行政・財政・文化の統合は長い時間を要したのです。

統一の仕組みと余波:軍制・外交・社会統合の相互作用

イタリア統一戦争は、戦闘だけでなく「制度の統合」を伴う総力の取り組みでした。第一に軍制面では、サルデーニャ王国の常備軍を骨格に全国徴兵制が整えられ、武器・制服・階級制度が全国基準に統一されました。砲兵・工兵・鉄道連隊の整備は、要塞戦と機動の両面で効果を発揮します。海軍はリッサの敗北を教訓に蒸気装甲艦と砲術訓練の強化に動き、地中海でのプレゼンスを回復させました。

第二に外交面では、密約・講和・仲介というレパートリーが巧みに使われました。1858年のプロンビエール密約、1859年のヴィッラフランカ、1860年の領土交換、1866年のウィーン条約(ヴェネト割譲)といった各段階で、イタリアは「単独で勝ち切らずとも、有利な枠組みを選び取る」術を磨きました。プロイセンとの連携は、ドイツ統一という別の大変動と歩調を合わせる戦略的判断であり、列強の均衡の中で「承認」を積み上げることが統一の鍵でした。

第三に国内統合です。行政区画の再編、ナポレオン法典やサルデーニャ法の全国適用、度量衡と通貨の統一、国語教育の拡充、鉄道網の延伸が並行して進みました。識字率や税負担の格差、地主制の残存、南部の土匪反乱など困難は多く、法の移植が必ずしも社会の実相に合致しない場面もありました。カヴールが意図した「国家が国民を作る(ピエモンテ化)」という上からの統合は、教育と徴兵を通じて徐々に成果を上げますが、地域アイデンティティの多様性は長く残り続けます。

第四に文化と記憶です。ソルフェリーノの惨禍は赤十字運動を生み、人道の理念が戦場に導入される契機となりました。ガリバルディは国際的な英雄像を獲得し、文学・絵画・銅像・街路名を通じて共有記憶に刻まれます。他方で、南部の鎮圧や治安立法、教会との緊張は、統一の光と影の両面を物語ります。統一後もトリエステや南チロルなど「未回収のイタリア」をめぐる民族問題は残り、19世紀末から20世紀初頭の外交課題となっていきます。

最後に、統一戦争の要点を整理します。第一に、統一は「一回の大勝利」ではなく、戦争・外交・住民投票を段階的に組み合わせたプロセスだったことです。第二に、北部の産業・行政基盤と南部・中部の政治文化を接合する国家建設は、戦後の長期課題だったことです。第三に、列強の均衡を読み解いて好機を掴む現実主義と、ガリバルディに代表される大衆的情熱が、しばしば緊張しつつも相互補完したことです。これらを踏まえると、イタリア統一戦争は、地図上の線を引き直すだけでなく、制度と記憶を組み替える「国家誕生のプロジェクト」であったと理解できます。