生糸(きいと)は、カイコが繭をつくるときに吐き出す細い糸を、人の手でより合わせずにそのまま長く引き出して巻き取った天然繊維です。繊維の主成分はフィブロインというたんぱく質で、ほかにセリシンという天然の接着剤が表面を覆っています。光沢があり、しなやかで強度も高く、染色性に優れるため、古代から高級衣料・祭礼具・外交贈答の素材として珍重されてきました。原料の繭は農家が桑を育ててカイコを飼う養蚕によって得られ、糸を繰る「製糸」を経て生糸として市場に出ます。生糸は絹織物の出発点であり、シルクロードや近代の世界貿易の主役を担って、各地域の政治・経済・技術の発展に大きく影響を与えてきた用語です。本稿では、生糸の基本的な性質と作り方、世界史における流通と役割、日本の近代化と生糸、品質や市場・技術の変化と現代の展開について、できるだけ平易に整理して説明します。
基本概念と製造工程—養蚕から糸取りまで
生糸は、カイコガの幼虫(カイコ)が桑の葉を食べて成長し、終齢になると吐き出す糸で繭を作る過程を人が利用して得られます。繭の糸は一本が数百メートルから千数百メートルにも及び、フィブロインという芯繊維をセリシンが包み込む二重構造になっています。セリシンがあるために生糸は適度な張りと光沢を持ち、のちの「精練(熱とアルカリでセリシンを落とす工程)」によって柔らかい絹糸(練り絹)に姿を変えます。
製造工程は大きく、①桑園管理と種紙(卵)管理、②飼育(給桑・温湿度管理・衛生管理)、③上蔟(じょうぞく:繭づくり用の棚へ上げる)、④収繭と選繭、⑤製糸(繰糸・乾燥・撚り)、に分かれます。製糸の要は繰糸で、繭を温水に浸してセリシンを軟化させ、糸口を探って複数個(通常6~10個前後)の繭糸を合わせ、撚りをかけずに一条の生糸として均一に巻き取ります。糸の太さはデニール(9000m当たりのグラム数)で表し、21デニールなどの規格が用いられます。糸の均斉度を保つため、繭の供給や糸の張力を一定に保つ「目摺り」や自動調整機構が重要です。
繭から生糸にしないとチョウに羽化してしまうため、繭は通常「座繭」として熱処理(乾燥・蒸熱)され、蛹の生育を止めます。繭の品質は、品種・飼育環境・病虫害管理に左右され、とくに微粒子病(ペブリン)や腐蛆病(フラッヘリー)などへの対策が欠かせません。近代以降は衛生飼育、消毒、健卵検査、温湿度管理機器の導入によって歩留まりが向上しました。
生糸はそのままでは少し硬さが残るため、織物にする前に精練・染色を施します。精練でセリシンを落とした糸は柔軟になり、ドレープ性が高まります。染色は、フィブロインがアミノ酸由来の官能基を持つため、酸性染料などで発色がよく、深みのある色合いに仕上がります。こうして織られた絹織物は、和装・洋装・インテリア、あるいは儀礼具・芸能装束などに用いられ、文化の記憶を支える素材としても重要性を持ちます。
世界史における生糸—シルクロードから近代貿易へ
生糸は、中国で早くから高度な生産体制が整い、漢代には朝貢・賜与の品として政治・外交に組み込まれました。シルクロードという言葉が象徴するように、オアシス都市や草原の交易網を通って、西アジア・地中海世界にまで絹製品が運ばれ、貨幣や金属、馬、ガラス、香料などと交換されました。絹は軽くて高価値であるため長距離交易に適し、王侯貴族や聖職者の衣装、儀礼の装飾品に用いられ、宗教美術・宮廷文化に欠かせない素材となりました。
中世以降、ビザンツやイスラーム圏、さらにイタリアのルッカ・フィレンツェ、フランスのリヨンなど、ヨーロッパ各地でも養蚕と製糸・織物技術が広がり、ギルドや都市の保護政策のもとで独自の絹産地が育ちました。とはいえ、東アジア由来の高品質生糸は依然として国際市場の基準であり、アジアの政治の動向が価格や供給に影響を与え続けました。
近世の東アジアでは、中国に加えて日本の生糸が国際市場に参入します。江戸時代には国産生糸や絹織物が国内の消費とともに長崎などから輸出され、東アジアの銀・銅・砂糖・綿織物との交換に寄与しました。さらに19世紀、開港とともに生糸は世界貿易の主要品目となり、ヨーロッパの織物工業の需要を受けて、アジアから大量の生糸が出荷されるようになります。
近代の生糸貿易は、価格変動・為替・信用の管理が重要でした。ヨーロッパの不況や新技術の導入、疾病や気候の不良などが相場に直結し、産地は品質と数量の安定供給を競いました。生糸は保管・輸送の際の湿度・温度にも敏感で、輸送技術(蒸気船・鉄道)や保険の発達が市場の統合を加速させました。こうして生糸は、単なる伝統素材から、世界規模のサプライチェーンで管理される近代的商品へと性格を変えていきます。
日本の生糸—江戸後期から明治の輸出主力と産業化
日本では、養蚕は古代から広がっていたものの、江戸中期以降に各地の農村で副業としての養蚕が定着し、絹織物の産地も分化しました。江戸後期には、上州・信州・甲州などで良質の生糸が生産され、海外の需要にも応える素地が整います。開港後は横浜が生糸の集散地となり、外国商人との取引が拡大しました。輸出の急増は国内価格の高騰を招き、和装や庶民の衣生活に影響を与えた一方、農村の現金収入を一気に伸ばし、道路・倉庫・港湾などのインフラ整備を促しました。
明治政府は、財政と外貨獲得の柱として生糸に注目し、品質向上と数量拡大のために殖産興業を推進します。器械製糸(蒸気動力や水力を使った多条繰糸機)の導入は、糸の均一性と生産性を飛躍的に高めました。官営模範工場の設置や海外技術者の招聘、検査制度や規格の整備、検査印(ブランド)の付与などが進み、国際市場での信用が向上します。やがて官営は民間に払い下げられ、地域の資本や女性労働力を活用した大規模製糸工場が各地に誕生しました。
養蚕の現場では、桑園の改良、品種の選抜、病害対策、温湿度管理の工夫が浸透しました。微粒子病(ペブリン)に対しては、フランスでの研究成果や衛生育の普及により被害が抑えられ、良質繭の安定供給が可能になりました。学校教育や講習会、雑誌・教科書を通じて、技術と衛生の知識が農村に広がり、女性を中心に高い技能を持つ労働力が育成されました。
こうした改革の結果、日本の生糸は19世紀末から20世紀前半にかけて世界市場で大きなシェアを占め、輸出収入の最大項目として国家財政と産業化を支えました。生糸輸出から得られた外貨は、機械・鉄道・軍需・教育への投資を可能にし、近代産業の基礎資本となります。都市には銀行・商社・保険・検査機関が集まり、地方では製糸・織物と関連産業が裾野を広げ、サプライチェーン全体が発達しました。
しかし、20世紀に入ると、化学繊維(レーヨン、のちにナイロンなど)の登場や世界恐慌、戦争による市場寸断が生糸産業を直撃します。農村では転作や労働移動が進み、製糸工場も再編・縮小を迫られました。戦後は一時的に輸出が回復する場面もありましたが、長期的には化学繊維の量産・低価格化に押されてシェアを落とし、高級用途や特定市場へと役割を変えていきます。
品質・市場・技術の変化—規格、価格、代替繊維と現代の展開
生糸の品質評価には、糸の太さ(デニール)、均斉度(むら)、節(ネップ)、光沢、強伸度、清浄度などの指標が用いられます。国際取引では、検査・等級付け・規格表示が信用の基盤で、産地は品質の安定とトレーサビリティを重視します。製糸技術は、手回し(座繰)から器械繰糸、自動繰糸へと進化し、張力制御や温度管理、センサー計測などによって均質な製品が得られるようになりました。副産物としての蛹や絹糊(セリシン)は、食品・化粧品・医薬素材としても活用されています。
価格は、需要(ファッション動向、所得水準)、供給(産地の天候・病害・労働力)、為替、輸送費、関税・協定などの複合要因で変動します。歴史的には、疫病や戦乱、金融恐慌が相場に大きな波をもたらしました。近年は、グローバル・サプライチェーンの最適化と情報技術の発達により、現物と先物、為替ヘッジを組み合わせたリスク管理が一般化しています。一方で、希少性と職人技の価値が見直され、高級ブランドや伝統工芸では、上質な生糸へのこだわりが強まっています。
代替繊維の台頭は、生糸の位置づけを変えました。レーヨンは「人絹」として絹に似た風合いを安価に提供し、ナイロンやポリエステルは強度と耐久性、メンテナンス性で優位に立ちました。この中で生糸は、天然素材ならではの光沢・肌触り・吸放湿性・静電気の起きにくさを生かした高級衣料や伝統装束、舞台衣装、工芸材料として独自の領域を保っています。さらに、フィブロインの生体適合性・分解性に注目が集まり、医療用縫合糸、ドラッグデリバリー、人工皮膚・骨再生の足場材料、電子デバイスの基材といった先端用途の研究・実用化が進んでいます。
養蚕の現場でも、スマート農業の技術が導入されつつあります。温湿度やCO₂のセンサー、自動給桑、AIによる病害早期検知、クラウドでの飼育記録管理などが、省力化と品質の安定に貢献します。桑は栽培が比較的容易で斜面地にも適するため、地域の景観維持や環境保全に寄与し、観光・教育と組み合わせた「文化としての養蚕」も再評価されています。フェアトレードやサステナブル認証の枠組みが、産地の労働・環境基準の向上と消費者の信頼をつなぐ橋渡しをしています。
総じて、生糸は、古代から現代に至るまで、一貫して「人の暮らしと世界のつながり」を媒介する素材でした。一粒の卵から繭、糸、布、装いへと連なる連鎖は、農業・工業・流通・文化の総合的な営みです。代替繊維が普及した今日でも、生糸はその唯一無二の質感と文化的価値、そして新素材としての潜在力によって、新しい領域を切り開き続けています。歴史と技術の両面からその歩みを知ることは、素材が社会をどう形づくるのかを理解するうえで、豊かな示唆を与えてくれるはずです。

