極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、International Military Tribunal for the Far East:IMTFE)は、第二次世界大戦後、連合国が日本の指導層の戦争責任を法廷で問うために東京・市ヶ谷で開いた国際軍事裁判です。1946年5月に開廷し、1948年11月に判決が言い渡されました。裁判は、侵略戦争の遂行を指導したとされる「平和に対する罪(A級)」を中心に、戦争法規違反(B級)や人道に対する罪(C級)の扱いを含みつつ、主に政治・軍事の最高決定層を対象としました。判決では東條英機ら7名に死刑、16名に終身刑・有期刑が言い渡され、日本の敗戦処理と戦後秩序の形成に大きな意味を持ちました。他方で、遡及処罰への批判、天皇の訴追回避、証拠・弁護の扱い、アジア植民地支配の評価などをめぐって、今なお多面的な議論が続く出来事でもあります。以下では、成立の背景と仕組み、訴因と審理の流れ、判決とその後、評価と論争点、記憶と影響という観点から丁寧に説明します。
成立の背景と裁判の枠組み
東京裁判は、ニュルンベルク裁判にならって、戦後処理の一環として連合国が設けた国際軍事裁判の極東版です。1945年9月以降、日本は連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の占領下に置かれ、最高司令官ダグラス・マッカーサーが政治・軍事の最高権限を掌握しました。1946年1月、マッカーサーは「極東国際軍事裁判所条例(いわゆる東京裁判憲章)」を公布し、裁判所の権限・構成・訴因を定めました。この憲章は、連合国の極東委員会の合意とニュルンベルク原則を参照しつつ作られ、裁判の法的基盤となりました。
裁判所は、11か国(米・英・ソ・仏・中・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・インド・フィリピン)の各国から1名ずつの判事で構成され、議長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブが務めました。検察団の主任検事はアメリカのジョゼフ・キーナン、被告の弁護は各被告が選任した弁護団が担当しました。会場は旧陸軍省・陸軍士官学校跡(市ヶ谷台)で、極めて長期にわたる国際審理が続けられました。
起訴の対象は主として政治・軍事の最高指導者でした。被告は東條英機(元首相)をはじめ、広田弘毅、木戸幸一、板垣征四郎、武藤章、松井石根、土肥原賢二、梅津美治郎ら28名(審理途中の病死・免訴により判決対象は25名)で、皇族や天皇は訴追されませんでした。なお、東京裁判が扱わなかった現場レベルの戦争犯罪(B・C級)については、連合各国がアジア各地(横浜、シンガポール、マニラ、ラバウル、南京など)で別途開いた軍事法廷で審理が行われました。
訴因の内容と法的論点
東京裁判の訴因は大きく三類型です。第一に「平和に対する罪(A級)」で、共同謀議によって侵略戦争を計画・準備・開始・遂行した責任を問うものです。ここでは1928年の不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)などを根拠に、国家の最高指導層が違法な戦争を企図・指導したとされました。第二に「通例の戦争犯罪(B級)」で、捕虜虐待・無差別攻撃・文民殺害など、ハーグ陸戦法規などの違反が対象です。第三に「人道に対する罪(C級)」で、組織的・大規模な迫害や虐殺が含まれます。ただし東京裁判では、ニュルンベルクに比べC級の立証・適用は限定的で、中心はA級に置かれました。
法的論点として最も争われたのは、侵略戦争を犯罪として個人に遡及的に適用できるのかという問題でした。被告側は「事後法(ex post facto)」による処罰であると反論し、国家行為に対する個人責任の原理も争点となりました。また、日本の自衛権や満洲事変・日中戦争の性格、米英の経済制裁やABCD包囲網の評価、蒋介石政権・中国共産党との関係など、国際政治の事実認定にも意見が分かれました。さらに、連合国側の空襲(特に無差別爆撃)や原爆投下の合法性を被告側が争点化しようとしましたが、裁判所は審理対象外として退けています。
もう一つの論点は、天皇の訴追回避です。天皇の地位と戦争責任をめぐっては、連合国の政治判断が強く働き、占領統治の円滑化と日本社会の安定を理由に、検察は起訴を見送りました。また、関東軍防疫給水部(いわゆる731部隊)に関する訴追や資料の扱いも、冷戦の情報価値を背景に限定され、米軍が免責と引き換えにデータ提供を受けたとされる点が、後世の批判を招いています。
審理の進行と証拠・弁護の実際
審理は1946年5月に始まり、最終弁論を経て1948年11月まで延べ2年半を超える長丁場となりました。検察側は、共同謀議の長期性を主張し、満洲事変(1931)を発端とする一連の拡張政策を「大東亜共栄圏」という名の侵略計画として構図化しました。証拠は政府文書・外交記録・軍命令・日誌・新聞・回顧録のほか、多数の証人尋問が用いられました。翻訳・通訳の負担は膨大で、証拠価値の評価や伝聞証拠の扱いをめぐって法廷ではしばしば紛糾しました。
弁護側は、満洲事変や日中戦争を治安維持・自衛・既成事実への対処と位置づけ、日本の経済的包囲やコミンテルンの影響を強調しました。また、真珠湾攻撃についても、外交交渉の破綻と時間差通告の問題を論じ、米国の挑発や英米の帝国主義的側面を指摘しました。個別被告については、閣議や軍令の決定構造における関与の度合い、反対意見や辞職の有無、意思決定の同意の度合いなど、個別責任の差異を強調しました。
裁判運営では、弁護側の証人申請が却下される例や、検察側に有利な訴訟指揮があったとの批判も残っています。他方、弁護・反対尋問の機会自体は広く与えられ、記録は膨大です。審理の長期化は、通訳・翻訳の困難、複数言語の法文化差、国際政治の配慮が複雑に絡み合った結果でもありました。
判決の骨子と個別の帰趨
1948年11月12日に言い渡された判決は、25名のうち東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、松井石根、武藤章の7名に絞首刑、残る被告に対しては終身刑・有期刑(7年~20年)を科しました。被告のうち岡田啓介は免訴、松岡洋右・永野修身は審理中に死亡しています。死刑は同年12月23日に執行されました。判決は、満洲事変以降の対外政策を侵略計画の一体として捉え、真珠湾攻撃を「不意打ち」として断罪しました。他方で、個々の戦争犯罪(B・C級)についての直接責任の立証には限界があり、指揮監督責任(いわゆる司令官責任)の適用も、その射程と証拠評価をめぐって議論を残しました。
判決文は非常に長大で、被告ごとに関与の程度や意思決定の記録を検討し、国策の形成・推進への寄与、反対・抑制行為の有無を評価しました。たとえば広田は首相在任中の統帥抑制の不作為が重視され、松井は南京攻略後の惨劇に対する統率責任が問われました。東條は首相・陸相としての全面的関与が断罪されています。
少数意見・反対意見と国際的視線
判事の間でも見解は一様ではありませんでした。インドのラダ・ビノード・パール判事は、全被告無罪を主張する広汎な反対意見を提出しました。彼は、事後法による処罰、勝者による裁きの問題、列強の植民地主義や無差別爆撃の評価抜きに日本だけを断罪することの不整合を強調しました。オランダのレーリンク判事は、侵略の犯罪性は認めつつも共同謀議の長期一体性や個別責任の立証に疑義を呈し、量刑の妥当性にも批判的でした。議長のウェッブは、天皇の訴追回避に不満と疑念を示しています。これらの少数意見は、裁判そのものの正当性と限界を考える上で重要な参照点となっています。
国際的には、東京裁判はニュルンベルクと並んで戦後国際法秩序の礎を形づくったと評価される一方、冷戦の始まりとともに政治的判断が色濃く反映された裁きとして批判も受けました。アジアの植民地地域では、日本の加害責任追及と同時に、西欧列強の植民地主義や戦後の独立運動との関係が複雑に受け止められました。
戦後への影響:占領政策、講和、記憶の政治
東京裁判は、占領政策と連動して日本の戦後秩序を形づくりました。日本国憲法の制定(1947)や基本的人権・議会制民主主義の制度化は、戦後民主化の基盤を提供し、侵略戦争の否定と平和主義(九条)は東京裁判の歴史的評価と響き合いながら、日本の国際的アイデンティティの一部となりました。他方、講和・再軍備の局面では、対米関係と冷戦構造の中で裁判の位置づけが相対化され、政治的配慮の下で受刑者の赦免・仮釈放が進みます。1956年までにA級受刑者の釈放がほぼ完了し、保釈後に政財界で活動する人物も現れました。
記憶の面では、1978年の靖国神社へのA級戦犯合祀、教科書叙述、政府の歴史認識声明、首相の談話・追悼の形などをめぐり、国内外で論争が繰り返されました。東京裁判の歴史的評価は、日本国内でも大きく割れ、加害責任の自覚と反省を強調する立場から、勝者の裁き・事後法性を批判して道義的評価を相対化する立場まで、多様です。政治指導者やメディアの発言は、外交関係や周辺諸国の人々の記憶と感情に直接影響を与え、歴史が現在進行形の課題であることを示してきました。
学術的には、東京裁判は国際刑事法の発展過程における画期として位置づけられます。侵略戦争の違法化を個人責任に結び付ける試み、指揮監督責任の理論化、組織犯罪としての共同謀議の構成などは、その後の国際刑事裁判所(ICTY・ICTR・ICC)へと知的遺産を提供しました。同時に、被害の全体像――南京事件、バターン死の行進、強制労働、性暴力、細菌戦の疑惑など――の立証と司法的救済の限界、被害者の声の位置づけとその後の補償・和解の在り方は、未解決の課題を残しています。
総括:意義と限界を併せて捉える
総じて、極東国際軍事裁判は、侵略戦争を違法とする戦後国際秩序の理念を、敗戦国の最高指導層に対する司法的手続で具体化しようとした試みでした。裁判は、国家の名の下で行われた暴力に個人責任を問うという新原理を提示し、記録化・可視化という点でも歴史的意義を持ちます。他方で、事後法の問題、審理の不均衡、訴追選択の政治性、被害の全体像の包摂不足といった限界は看過できません。両面を併せて理解することが、東京裁判を世界史の中で適切に位置づける最短の道です。
東京裁判は終わった過去ではなく、戦争責任・記憶・国際秩序をめぐる現在の対話に接続するトピックです。史料の精読と比較史の視野、法と政治の交差点に対する繊細な理解が、単純化を避けた学習へと導いてくれます。そうした姿勢で向き合うとき、裁判の膨大な記録は、国家と個人、正義と政治、記憶と和解の難しさを静かに語り続けていることが見えてくるはずです。

