『集史』 – 世界史用語集

『集史』(しゅうし、ペルシア語原題ジャーミウッタワーリーフ=Jāmiʿ al-tawārīkh)は、13~14世紀にモンゴル帝国の一部であるイル汗国(イルハン国)で編纂された大規模な歴史書です。著者は宰相ラシードゥッディーンで、「世界のあらゆる歴史を集めて一つにまとめる」という構想のもとに書かれたことから、しばしば「世界最初期の世界史」や「イスラーム世界最大級の通史」とも呼ばれます。アダムや旧約の預言者の物語からはじまり、イスラームの歴史、イラン・中央アジア・中国・ヨーロッパの諸民族の歴史、そして何よりモンゴル帝国とチンギス=ハン一族の歴史が詳しく記されています。

『集史』というタイトルは、文字どおり「歴史(タワーリーフ)を集めたもの」という意味で、さまざまな地域・民族・王朝の歴史を一冊(実際には全体で膨大な巻数)にまとめようとした意欲的な試みを表しています。従来のイスラーム史書がアラブ・イスラーム世界中心に記述されることが多かったのに対し、『集史』はモンゴルの支配下で広がったユーラシア世界のネットワークを背景に、東西の豊富な情報を取り込みながら「世界全体の歴史」を描こうとした点に大きな特色があります。

とくにモンゴル帝国と諸ハン国の部分では、王家の系譜や征服の過程、遊牧社会の制度、チンギス=ハンの家法などが詳細に記されており、今日でもモンゴル帝国研究に欠かせない第一級の史料となっています。また、イランや中央アジア、さらには中国(元朝)や朝鮮、日本に関する記述も含まれており、東アジアの歴史を外部から眺めた貴重な証言としても重視されています。写本の中には、多数の彩色挿絵(ミニアチュール)を含むものもあり、美術史の観点からも高く評価されています。

簡単に言いかえると、『集史』とは「イル汗国の宰相ラシードゥッディーンが、モンゴル帝国時代の膨大な情報を集約して編んだ、世界規模の通史」です。以下では、この歴史書のタイトルと性格、編纂の背景となったイル汗国の状況、具体的な構成と史料としての特徴、そして世界史上の意義について、もう少し詳しく見ていきます。

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『集史』とは何か:名称・言語・基本性格

『集史』という日本語の書名は、中国語・日本語圏での慣用的な訳で、ペルシア語原題の「ジャーミウッタワーリーフ(歴史を集成したもの)」に由来します。ここでいう「歴史(タワーリーフ)」は単数ではなく複数形であり、「さまざまな歴史叙述」「多くの国・民族の歴史」を集めるという意味合いが込められています。つまり、『集史』は単一王朝の年代記ではなく、多様な資料を集成した「世界通史」「普遍史」に近い性格の書物です。

使用言語としては、主にペルシア語で記されましたが、一部にはアラビア語版も作成されました。中世イスラーム世界では、アラビア語が宗教・神学・法学の言語として重んじられた一方、イランや中央アジアを中心とする東方イスラーム世界では、ペルシア語が歴史や文学、行政文書の重要な言語として使用されていました。ラシードゥッディーンは、このペルシア語の伝統を活かしつつ、アラビア語での伝統的史書とも対話する形で『集史』を構想しました。

構成は大きくいくつかの部分に分かれており、一般的には①イスラーム以前の諸民族・諸王朝の歴史、②イスラームとアラブの歴史、③モンゴル帝国と諸ハン国の歴史、④イル汗国や近隣諸国の同時代史、といったブロックで理解されます。もともとはさらに、世界の各民族・各宗教についての地理・民族誌的な記述を拡張していく計画もあったとされ、そのスケールの大きさがうかがえます。

『集史』の重要な特徴は、「多民族・多地域の歴史を一つの枠組みで語ろうとした」点にあります。イスラーム世界の歴史書は、預言者ムハンマドの伝記から始まり、イスラーム共同体の拡大を中心に叙述するものが多いですが、『集史』はそれ以前のイラン・中央アジア・中国・ヨーロッパなど、多様な文明の歴史も独立した章として扱います。これは、モンゴル帝国がユーラシア各地を結びつけた「世界帝国」であったことを反映しており、そのもとで生まれた「世界史的な視野」が、『集史』という書物に結晶していると言えます。

また、『集史』は政治的にも、イル汗国政権の正統性を支える役割を担いました。モンゴルの諸ハン国の中で、イル汗国もまたチンギス=ハン一族の一員としての地位を持ちますが、イスラーム世界の中で自らの支配を正当化するには、「自分たちも世界史の正統な継承者である」という物語が必要でした。『集史』は、モンゴル帝国を世界史の中心に位置づけつつ、イスラームや古代イランの伝統ともつなげることで、支配の物語を作り上げたとも言えます。

編纂の背景:イル汗国と宰相ラシードゥッディーン

『集史』を理解するためには、その編纂がどのような歴史状況のもとで行われたのかを押さえておくことが重要です。13世紀前半、チンギス=ハンとその後継者たちはユーラシア大陸の広大な地域を征服し、中国の金・西夏、中央アジアのホラズム朝、ロシア公国群、イスラーム世界のアッバース朝などを次々に打倒しました。その結果、元・キプチャク汗国・チャガタイ汗国・イル汗国など、いくつかのハン国に分かれた「モンゴル帝国世界」が形成されます。

イル汗国は、そのうちイラン・イラク・アナトリアの一部など、西アジアの広い地域を支配した政権で、首都はタブリーズなどに置かれました。初期のイル汗は仏教・キリスト教・イスラームなど多様な宗教の影響を受けながら統治を進めましたが、13世紀末のガザン=ハンの時代にイスラームを国教化し、本格的にイスラーム王朝としての性格を強めていきます。このガザン=ハンの宗教政策と改革を支えたのが、宰相ラシードゥッディーンでした。

ラシードゥッディーンは、もともと医師として宮廷に仕えた人物で、のちに行政・政治の才能を見込まれて宰相へと出世した経歴を持ちます。イラン出身の有力な知識人であり、イスラーム学やイラン伝統の学問、さらにはモンゴル語や中国語史料にも通じていたとされます。彼は、ガザン=ハンやオルジェイトゥ=ハンのもとで改革と中央集権化を進める一方、自らの周囲に学者・書記たちを集めて巨大な「歴史編纂事業」を立ち上げました。その成果の中心が『集史』です。

ラシードゥッディーンは、単独で膨大な資料を読みこなし執筆したわけではなく、多くの助手・資料収集者・書写生に支えられて編纂作業を進めました。モンゴル帝室の公式記録や、各地から集めた年代記、口頭伝承、元朝から送られてきた漢文史料、さらには商人や旅行者の証言など、さまざまな情報源を統合しようとしたのです。彼は宰相としての権限を活用して、帝国各地から資料を集めさせることができました。

その一方で、『集史』は純粋な学問的好奇心だけから生まれたわけではありません。ガザン=ハンのイスラーム改宗後、イル汗国はイスラーム世界の中で自らの立場を確立する必要に迫られていました。ラシードゥッディーンは、モンゴルの征服を「神の意志による世界秩序の再編」として描き直し、チンギス=ハン家の支配を歴史的必然として正当化する役割をこの歴史書に持たせました。その意味で、『集史』は政治的プロパガンダと、真摯な学問的努力の両方の性格を併せ持つ書物だと言えます。

ラシードゥッディーン自身は、後に宮廷内の権力争いに巻き込まれ、失脚・処刑されるという波乱の人生を送りましたが、『集史』は彼の没後も写本として読み継がれ、後世に大きな影響を与え続けました。編纂の背景にこうした政治的・宗教的ダイナミズムがあったことを意識すると、『集史』の文章や構成の奥に潜む意図も見えやすくなります。

内容構成と史料としての特色

『集史』の内容は非常に多岐にわたりますが、世界史の学習で特に重要視されるのは「モンゴル帝国史」と「多地域を対象にした普遍史」という二つの側面です。前者として、『集史』はチンギス=ハンの出自・草原社会の背景・モンゴル諸部族の統一・その後の遠征と征服の過程を詳しく描いています。モンゴル語の正史的記録(『元朝秘史』など)とも照らし合わせながら、チンギス=ハンや諸ハンの系譜、功臣たちの活躍、各地の戦役の詳細が整理されています。

このモンゴル部分は、単なる外部観察ではなく、帝室の内部情報や口承伝承にもとづいた記述を多く含んでいると考えられ、今日のモンゴル史研究にとって欠かせない第一級史料です。同時に、『集史』の叙述はラシードゥッディーン自身の価値観や政治的意図の影響を受けており、どの部分が事実に近く、どの部分に脚色や構成上の意図があるのかを見極めることが、研究上の課題となっています。

普遍史としての側面では、『集史』はアダムから始まる人類史を旧約・イスラームの預言者物語と結びつけ、古代イラン王朝(アケメネス朝など)やギリシア・ローマ、インド、中国など、幅広い文明の歴史を紹介します。情報源には、アラビア語の古い史書やイランの伝説的叙事詩、中央アジアの年代記、中国の官修史書に基づく要約などが含まれており、ときに伝説と史実が入り混じった叙述となっています。

中国や東アジアに関する記述も、『集史』の特色の一つです。元朝の成立とモンゴルによる中国支配の過程、南宋征服、科挙や行政制度、さらには朝鮮・日本に対する関心などが記されています。日本については、元寇(モンゴルの日本遠征)をめぐる情報や、東の果ての島国としてのイメージが語られ、当時のイスラーム世界が日本をどのように認識していたかを知る手がかりとなっています。もちろん、情報の正確さには限界がありますが、「外から見た東アジア」の姿を伝える貴重な証言です。

写本によっては、多数の挿絵・ミニアチュールを含むものがあり、これも『集史』の大きな魅力です。モンゴルの騎兵、王の謁見、戦闘場面、都市の景観、宗教儀礼などが彩色画として描かれており、当時の衣服・武器・建築様式を具体的にイメージする資料となっています。美術史の観点からは、「モンゴル朝ペルシア絵画」の代表作として高く評価され、後のペルシア細密画の発展にも影響を与えました。

史料として見ると、『集史』には長所と限界の両方があります。長所は、多彩な地域・民族について比較的体系的に情報を収集した点、同時代のモンゴル帝国の内部事情を伝える点です。一方の限界としては、前述のように政治的意図や宗教的解釈が色濃く、史実と説話が混在していること、他の史料と照合すると誤りや誇張が見つかることなどが挙げられます。そのため、現代の歴史研究では、『集史』を他の史料と組み合わせて慎重に読み解く姿勢が求められています。

『集史』のその後の影響と世界史上の意義

『集史』は、編纂後すぐにイスラーム世界全体に広まったわけではありませんが、イランや中央アジアを中心に写本として受け継がれ、後世の歴史家たちに利用されました。ティムール朝やサファヴィー朝の歴史家は、『集史』の記述を引用・要約しながら自らの時代の通史を書き上げており、その意味で『集史』は東方イスラーム世界の歴史叙述の一つの基盤となりました。

近代以降、ヨーロッパや日本の研究者が『集史』に注目するようになったのは、モンゴル帝国史研究が本格化した19~20世紀のことです。ロシア・ドイツ・フランス・日本などの東洋学者が、各地に散在する写本を収集・翻刻・翻訳し、原文の校訂や注釈を進めました。これにより、『集史』は世界の研究者が共有する史料としての位置を確立し、モンゴル帝国だけでなく、イラン・中央アジア・中国・ロシアなどの中世史研究に広く活用されるようになりました。

世界史上の意義という点では、『集史』は「モンゴル帝国という世界帝国のもとで生まれた普遍史」として特に重要です。チンギス=ハンの征服により、ユーラシア大陸の遠く離れた地域どうしが初めて本格的に結びつき、物資だけでなく情報や人々が移動するようになりました。ラシードゥッディーンは、この「モンゴルによる世界の連結」を背景に、さまざまな場所から集めた情報を一冊の書物にまとめるという壮大な試みを行ったのです。

その意味で、『集史』は近代ヨーロッパの世界史や、今日のグローバル・ヒストリーに先立つ「中世の世界史」として位置づけられます。もちろん、記述の中心はイスラーム世界とモンゴル帝国にあり、完全にバランスのとれた世界史ではありませんが、「自分たちとは異なる文明や民族の歴史を、同じ地平の上に並べて描く」という姿勢は、後の世界史的思考につながる先駆的なものだと評価されています。

また、『集史』に描かれた世界像は、今日の歴史の見方にも示唆を与えます。たとえば、ヨーロッパ中心ではなく、イランや中央アジアを世界の中心の一つとして描く視点、モンゴル帝国の諸ハン国を軸に東西をつなぐ視点などは、「地域ごとの中心性」を考える手がかりになります。日本・中国・ヨーロッパをそれぞれの中心として描く歴史だけでなく、「イル汗国から見た世界史」があったことを知ることで、世界史の多中心性を実感できます。

『集史』という用語を入り口として、私たちはモンゴル帝国期のダイナミックな交流、イスラーム世界の知的な営み、そして「世界を一冊にまとめようとした中世の試み」に触れることができます。教科書では数行で紹介されるにすぎないかもしれませんが、その背後には、政治と学問、信仰と権力、東西交流のすべてが絡み合った豊かな歴史が広がっているのです。