ウェストミンスター憲章 – 世界史用語集

ウェストミンスター憲章は、1931年にイギリス議会が制定した法律で、カナダ、アイルランド自由国、南アフリカ連邦、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランドといった英自治領(ドミニオン)に、立法上の完全な自律性を与えたものを指します。これにより、イギリス本国の議会は、自治領の要請と同意なしには当該領域のために法律を制定できないことが原則化されました。帝国としての一元的支配から、対等な「英連邦(ブリティッシュ・コモンウェルス)」への漸進的移行を法的に成文化した点が最大の意味で、第一次世界大戦後に高まった自治領の自己主張を受け止める「現実対応の憲章」だったと言えます。背景には、1926年の帝国会議で出されたバルフォア報告(自治領は「身分は同等、相互に従属しない」)があり、憲章はその原則を法制度に落とし込む役割を果たしました。以後、カナダの憲法権限の確立、アイルランドの離脱と共和化、南アフリカ・オーストラリア・ニュージーランドの憲法改正の自立化、さらに司法上訴(枢密院上訴)の段階的終焉など、「帝国から同盟」への大きな流れが加速しました。

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成立の背景—帝国からコモンウェルスへ

19世紀末から20世紀初頭にかけて、カナダ自治領(1867年連邦成立)、オーストラリア連邦(1901年)、ニュージーランド(1907年ドミニオン宣言)、ニューファンドランド(1907年)、南アフリカ連邦(1910年)、そしてアイルランド自由国(1922年)といった「自治領」が整備されました。これらは内政上は責任内閣制を持ちながらも、対外関係や最終的な立法権ではロンドンの拘束を残していました。特に「植民地法の有効性に関する1865年法(Colonial Laws Validity Act 1865)」は、自治領の法律がイギリス本国法に抵触する場合は無効とする規定を持ち、帝国の法体系における上下関係を明確にしていました。

第一次世界大戦は、この秩序に根本的な圧力をかけました。自治領は人的・物的に莫大な貢献を行い、戦後のヴェルサイユ講和や国際連盟で、カナダや南アフリカなどが独自の署名と議席を得るに至ります。1922年のチャナック危機(トルコ共和国をめぐる対立)では、自治領がロンドンの対外政策に自動追随しない姿勢を示し、1923年帝国会議は自治領の条約締結権を一定程度認める方向へ傾きました。決定的だったのが1926年帝国会議のバルフォア報告で、自治領は「同等の地位を持ち、いずれも相互に従属しない、イギリス連邦に属する自治共同体」であると宣言されます。もっとも、これは政治的宣言にとどまり、国内法体系への反映はなされていませんでした。

この宣言を現実の法制度へ組み込むために起草・成立したのが1931年のウェストミンスター憲章です。名の由来は、イギリス議会(ウェストミンスター宮殿)で制定されたことにあります。憲章は英国法の形式でありながら、その効果は各自治領の立法権と法体系に直接関わるもので、帝国法秩序の構造を一段と「水平化」することを狙いました。

条文の柱—「要請と同意」「域外立法」「帝国法の優越の終焉」

ウェストミンスター憲章の核心は、次のような原則群で整理できます。第一に、イギリス議会が自治領のために立法するには、当該自治領の「要請と同意(request and consent)」が必要だという規則です。これは通称「第4条の原則」として知られ、以後、本国議会は自治領の意思表示なくして一方的に干渉できなくなりました。第二に、自治領議会の「域外立法権」の承認です。これによって、自治領は自国民や自国の利益に関わる事項について域外効果を持つ法律を制定できるようになり、国際取引や航海、軍務などの分野で自立度が増しました。

第三に、1865年法による上下関係の修正です。憲章は、自治領の法律が英国法と矛盾する場合でも、原則として自治領法を無効とはみなさないことを明確にしました。さらに、自治領議会は、自領域に適用されている過去の英国法を、独自に廃止・修正できる権限を獲得します。もっとも、王位継承など帝国全体に関わる「共通事項」については、各自治領が共同歩調をとるという慣行が形成され、全てが完全に分離したわけではありません。

第四に、条約と外交の取り扱いの実務化です。自治領は、英国政府とは別途に条約へ署名し、外交代表を置くことが可能になり、在外公館の設置や二国間関係の運営を拡大しました。これらはすでに第一次大戦後に部分的に認められていた流れを、憲章が国内法の言葉に翻訳して安定化させたものです。

各地域の受容—即時適用、遅延、そして例外

憲章は制定直後から、カナダ、アイルランド自由国、南アフリカ連邦ではほぼ即時に効果を持ちました。カナダでは、連邦と州の関係(連邦制)を前提にしつつ、連邦議会が英国法に縛られない立法を進める余地が広がります。もっとも、カナダ憲法(1867年英領北アメリカ法など)の改正権限は依然としてロンドンに残されており、完全な「憲法の本国からの切り離し(パトリエーション)」は1982年のカナダ憲法法で実現します。段階的自立のプロセスにおいて、1931年の憲章は立法主権の基礎を与えたと位置づけられます。

アイルランド自由国では、憲章が持つ「英国法の廃止・修正権」が政治的武器となりました。1933年以降、対英関係の再定義を進め、1937年には新憲法を制定して国家の名称・制度を大幅に変更します。1948年のアイルランド共和国法で王権との関係を断ち、翌1949年には英連邦から完全に離脱しました。ウェストミンスター憲章は、アイルランドの「法的離床」を可能にした足場でした。

南アフリカ連邦は、憲章によって国内の立法至上権を確認し、のちに1961年の共和制移行(当初は英連邦離脱、1994年に復帰)へ向かう法的幹線道路を整えました。司法上訴の停止や英国法の廃棄・改正を自国の政治判断で進めることが容易になります。

一方、オーストラリアとニュージーランドは、制定時点では憲章の一部規定をただちには受け入れず、各国の「採用法(Adoption Act)」で能動的に取り込む方式を採りました。オーストラリアは第二次世界大戦中の1942年に「ウェストミンスター憲章採用法」を制定し、効果を1939年9月3日まで遡及させました。これにより、戦時の立法措置に遡及的正当性を与え、英国議会からの独立性を明確化しました。ニュージーランドは1947年に採用し、同年の「ウェストミンスター採用法」と憲法改正権の移管を通じて、内外政策の自立性を一段と高めました。なお、後年には両国とも1986年の「オーストラリア法」「ニュージーランド憲法法」によって、英国議会の残存的立法権を終止符にしています。

ニューファンドランドは特異例です。1930年代の大不況と財政危機によって、1934年に責任政府を停止し、ロンドンの委員統治に戻りました。そのため憲章の実効化は限定され、第二次大戦後の1949年に住民投票を経てカナダ連邦に参加し、自治領としての独自の道は終わります。ウェストミンスター憲章が各地の政治経済状況に応じて「活用度」が変わったことを示す一例です。

制度的帰結—王位・外交・司法・憲法改正の実務

憲章は、王位継承など「共通王冠(Crown)」に関わる問題でも新たな実務を生みました。1936年のエドワード8世退位の際には、各自治領政府の同意を取り付けて退位法を整え、国王の地位に関する決定が単独の英国法で他の領域に自動的に及ばないことが確認されました。これは、「共通の君主を戴く複数の主権国家」という英連邦の独特な構造を象徴する出来事でした。

外交の面では、各国が独自に条約を締結し、在外公館を設置する動きが定着します。カナダのワシントン大使館設置(1927年の実務化が戦後に拡充)、独自の通商協定、南アフリカ・オーストラリア・ニュージーランドの太平洋・インド洋における軍事協力など、憲章は「二次的承認」ではなく「一次的主体」としての地位を強めました。司法面では、枢密院司法委員会への最終上訴を段階的に制限・廃止する潮流が広がり、各国最高裁の最終性が確立していきます。

憲法改正の技術面でも、ウェストミンスター憲章は重要でした。カナダでは1982年の憲法制定によって、改正手続(硬性化)や権利章典が国内法に統合され、英国議会への形式的な「請願—制定」のルート(いわゆる英国法形式)を終止符にしました。オーストラリアでも1986年法により、州法と連邦法に及ぶ英国の立法権・上訴関係が全面的に切断されました。ニュージーランドでも同年の憲法法で議会主権が国内のみで完結するよう整理されています。いずれも、1931年の原則を足場として「最後の紐を解く」工程だったと捉えられます。

国際秩序への波及—英連邦の変容とロンドン宣言

第二次世界大戦後、英連邦は1949年のロンドン宣言を通じて、君主を国家元首としない共和国も加盟し得る「コモンウェルス・オブ・ネイションズ」へと再定義されました。インドが共和国として加盟を継続できたのは、この宣言が「王冠への忠誠」から「君主を共同の象徴として尊重する」という柔らかな表現に切り替えたためです。ウェストミンスター憲章で明確になった「対等の主権」という原理が、連合の柔軟な拡張を可能にしたと言えます。以後、旧植民地の多くが独立と同時にコモンウェルスへ参加し、教育・法制度・スポーツ・開発協力などの分野で緩やかなネットワークを構築しました。

とはいえ、憲章とその延長線上の制度は、帝国の不平等な歴史を帳消しにする魔法ではありませんでした。外交・防衛・経済における非対称性や、王室と各国社会の距離感、先住民の権利など、個別の問題は各国の国内政治で改めて処理される必要がありました。ウェストミンスター憲章は、こうした課題に取り組むための「法的余白」を自治領に提供し、自らの憲法と歴史に即した解決を模索できる舞台を整えたのです。

歴史的評価—「離縁」ではなく「成人」

ウェストミンスター憲章は、しばしば「帝国解体の第一歩」と要約されます。確かに、主従の法的関係を緩め、各自治領の立法主権を承認した点で、帝国の一体性は後退しました。しかし、より正確には「離縁」ではなく「成人」に近いプロセスでした。共通の王冠と歴史・制度・慣習を分有しつつ、各国が独立の主権者として関係を結び直す枠組みが整い、対等なパートナーシップの可能性が切り開かれたからです。実際、第二次大戦や冷戦期を通じて、英連邦は軍事・情報・経済の面で多様な協力を維持し、完全な解体には至りませんでした。

同時に、憲章は英米法圏の国家理性に「柔軟な連邦—連合」モデルを示しました。連邦国家の中央—地方関係、国際組織と主権国家の関係、王権や象徴の共有と民主主義の調和、といった難題に対して、拘束よりも同意、命令よりも調整、統一よりも互換性を重視するアプローチを制度化したのです。今日のコモンウェルスの緩やかな結束、さらには欧州連合や地域機構における主権の分有の議論とも共鳴する部分があります。

総じて、1931年のウェストミンスター憲章は、帝国からコモンウェルスへと至る「法の梯子」の主要な一段でした。1926年の原則宣言を実体化し、各国が自国の憲法秩序を自己完結的に設計できるようにしたことで、20世紀の脱植民地化と多元的な国際秩序の成立を先取りする実験となりました。法技術の精密さと政治判断の現実主義が結びついたこの憲章は、今日の主権と協調のバランスを再考する際にも、なお有効な参照点であり続けています。