「女真文字(じょしんもじ)」とは、12世紀ごろに中国東北地方の女真(じょしん)族が、自分たちの言語を書くために作り出した文字体系のことです。女真族はやがて金(きん)王朝を建てて中国北部を支配するようになりますが、その際に、漢字だけでなく自民族の言葉を表記できる独自の文字を必要としました。女真文字は、その要求に応えて成立した文字であり、当時の東アジア・北アジア世界における多民族・多言語状況を理解するうえでとても重要な存在です。
女真文字は、漢字の影響を受けつつも、直接の母体は同じツングース系民族と近縁とされる契丹(きったん)の「契丹文字」にあると考えられています。見た目は漢字に似た四角い形をしているものもあれば、より簡略で記号的な形をしたものもあり、「表語文字的な要素」と「音節を表す要素」を組み合わせた独特の体系になっていました。しかし、女真文字で書かれた資料は現存数が限られており、解読には多くの困難が伴っています。そのため、現代でも完全には読み解かれていない部分が多い、研究途上の文字でもあります。
女真文字を学ぶことは、単に一つの珍しい古代文字を知るというだけでなく、「国家が自らの権威を示し、言語を記録するために文字をどう作るのか」「周辺民族が中国的な文化とどう向き合ったのか」といった、広い歴史的テーマを考える手がかりにもなります。以下では、まず女真族と金王朝の歴史的背景を整理し、そのうえで女真文字の成立・形態・使用例を見ていきます。最後に、女真文字の衰退とその後の研究史、そしてこの文字から読み取れる歴史像について考えていきます。
女真族と金王朝の成立背景
女真文字の理解には、まず女真族という集団の歴史的背景を押さえることが必要です。女真族は、中国東北地方からアムール川流域にかけて活動していたツングース系の諸部族の総称で、狩猟や漁労、遊牧、農耕を組み合わせた生活を営んでいました。彼らは、遼(りょう)を建てた契丹族とも接触し、朝貢や従属といった関係を結びながら、徐々に勢力を拡大していきます。
11世紀末から12世紀初頭にかけて、女真族の中から完顔阿骨打(かんがんあこつた)という指導者が台頭し、契丹の支配に反乱を起こしました。彼は女真諸部族を統合し、1115年に金王朝を建国します。その後、宋(北宋)とも同盟・対立を繰り返しながら、最終的には契丹の遼と宋北部を打倒し、中国北部を支配する大国となりました。この金王朝の支配層を構成していたのが女真族であり、彼らは既存の漢字文化圏に対して、自らのアイデンティティと支配の正当性を示す必要に迫られていました。
当時の東アジアでは、漢字はすでに高度に発達した書記体系として広く使われており、金王朝の統治においても漢字は不可欠でした。一方で、女真族の間で話されていた女真語は、漢語とは系統の異なるツングース系言語であり、そのまま漢字で記録するのは難しい面があります。そこで金朝は、漢字と契丹文字などの先行例を参考にしつつ、自民族の言葉を表記できる新しい文字を作ろうとしたのです。
このように、女真文字は「漢字文化圏の周縁にあった遊牧・農耕混合社会の民族」が、「征服王朝」として中国本土を支配する立場に立ったときに生み出した文字だと言えます。そこには、漢字文明を完全に受け入れて飲み込まれるのではなく、自らの伝統と権威を象徴する「独自の文字」を持ちたいという意識が反映されていました。
女真文字の成立と形態
女真文字が正式に制定されたのは、金王朝の初期とされています。年代については史料によって多少の差がありますが、おおむね12世紀前半、遅くとも金が華北支配を固めつつあった時期には、女真文字が公的に用いられ始めていたと考えられます。史書には、女真語を記録するために「女真字」を作らせたという記事が見られ、その中心的役割を果たした人物の名も伝えられています。
女真文字は、同じく北方系遊牧民族の契丹が作った「契丹文字」に大きな影響を受けています。契丹には「契丹大字」「契丹小字」と呼ばれる二種類の文字があり、女真文字もまた「大字」「小字」の区別があったのではないかとする説があります。いずれにせよ、女真文字の多くの字形は、漢字のように四角くまとまりを持ちながらも、線や点の組み合わせが簡略で、契丹文字と共通する要素も多く見られます。
表記の仕組みとしては、漢字のような「表語文字(意味を表す)」的な字と、音節や音素に対応する「音を表す」字が混在していたと推測されています。つまり、女真語の特定の語彙や文法要素には専用の字をあて、その他の部分には音を写す字を使う、といった折衷的な方法です。これは、既存の漢字・契丹文字などの書記体系を参考にしながら、自民族の言語に合わせて工夫した結果と考えられます。
女真文字は縦書きで用いられ、基本的には上から下へ、行は右から左へと進む方式でした。これは漢字や契丹文字と同様の書字方向であり、当時の東アジア世界の標準的な書き方に従っています。ただし、石碑や銘文など、場面によっては横方向の配置や変則的なレイアウトが見られることもあります。
現存する女真文字の資料は、主に石碑の刻文、金朝時代の貨幣や印章、僧侶や官吏の墓誌などに限られています。紙に書かれた文献もかつては存在していたはずですが、時間の経過や戦乱によってほとんど失われてしまい、断片的な写本がわずかに残る程度です。そのため、女真文字の全体系を復元することは非常に難しく、今日まで多くの謎が残されているのが実情です。
使用例と機能―何を書くための文字だったか
女真文字は、金王朝のもとでどのような目的に使われていたのでしょうか。現存する資料をもとにすると、女真文字は主に次のような用途に用いられていたと考えられます。ひとつは、公的な碑文や詔書など、国家的な性格を持つ文書です。金朝の皇帝が出した命令や布告、領土や軍事的勝利を記念する碑文などに、女真文字と漢字が併記される例が確認されています。
このような二言語表記は、「自民族の言葉と文字を持つ征服王朝」としての金の姿勢を象徴しています。漢字は中国的な正統性や教養を示す一方で、女真文字は女真族の統治者としての権威とアイデンティティを示す役割を果たしました。たとえば、女真語で女真族の功績をたたえつつ、漢文で中華世界向けのメッセージを記す、といった構成が考えられます。
もうひとつの重要な用途は、墓誌や記念碑などです。女真族の貴族や高級官僚の墓には、女真文字で名前や家系、功績などが記されることがありました。これにより、その人物が女真族としてどのような位置にあったかが明示されています。漢字による墓誌と並んで女真文字の墓誌が存在する場合もあり、そこから当時のバイリンガル状況を読み取ることができます。
また、女真文字は宗教的な場面でも使われました。金朝の支配領域には仏教寺院や道教施設も多く、碑文や供養塔などに女真文字が刻まれている例があります。これは、女真族の間にも仏教や道教が一定程度浸透し、それを自民族の言葉で表現しようとしたことを示しています。一方で、純粋な行政文書や法律文書の多くは漢文で書かれ、実務面では漢字が主流だったと考えられます。
女真文字が日常生活の中でどの程度広く使われていたのかについては、資料不足のため断定が難しいですが、少なくとも読み書きできるのは支配層や一部の教育を受けた人びとに限られていたと見られます。農民や一般の遊牧民にとっては、口頭での伝達や慣習法が中心であり、文字は支配層の権威と結びついた存在だったでしょう。
このように見ると、女真文字は「女真語を話す人びとの日常的な書きことば」であると同時に、「金王朝のアイデンティティを示す象徴的な文字」としての性格も強かったと言えます。特定の儀礼や記念の場面で用いられることで、「われわれは独自の言葉と文字を持つ統治民族である」というメッセージが強調されたのです。
衰退と消滅、その後の研究
女真文字の運命は、金王朝の盛衰と密接に結びついています。13世紀初頭、モンゴル帝国が台頭し、金に対して大規模な攻勢をかけると、金は次第に領土を失い、1234年には滅亡しました。その過程で、多くの女真族が戦死し、あるいは捕虜となり、社会構造は大きく破壊されます。金の旧領はモンゴル帝国およびのちの元朝の支配下に入ることになりました。
金滅亡後、女真族の一部は東北地方に残って生活を続けましたが、政治的な主導権は失われ、元・明の支配のもとで徐々に漢化や他民族との同化が進みました。文字の面でも、実用性や教育制度の点から漢字が圧倒的に優勢であり、女真文字を学ぶ機会は急速に減少していったと考えられます。結果として、女真文字は数世代を経るうちにほとんど使われなくなり、忘れられた文字となっていきました。
その後、16〜17世紀にかけて、女真族と近縁関係にある建州女真が台頭し、後金(のちの清)を建てて再び中国全土の支配者となりますが、このときに彼らが採用したのは「満洲文字」であり、女真文字とは系統を異にします。満洲文字はモンゴル文字を基礎にして作られたアルファベット的な縦書き文字で、女真文字の直接の後継とは言えません。ただし、民族としての連続性という観点からは、「女真→満洲」の流れの中に女真文字を位置づけることはできます。
近代に入るまで、女真文字はほとんど忘れられた存在でしたが、清末から民国期、そして20世紀の考古学・金石学の発展にともない、金代の碑文や遺構が発見されるにつれて、その存在が再び注目されるようになりました。研究者たちは、漢文と女真文が併記された碑文、地名や人名の対応、さらにはツングース系の比較言語学などを手がかりに、女真文字の解読に取り組みました。
しかし、資料が限られていること、女真語そのものが後継言語との比較を通じてしか再構成できないことなどから、解読作業は容易ではありませんでした。現在でも女真文字の多くの字形について、読み方や意味が完全には確定しておらず、専門家の間でも議論が続いています。それでも、少しずつ音価や語彙が明らかになり、女真語の文法や語彙も部分的に再構成されつつあります。
女真文字研究は、単なる文字学の問題にとどまらず、金王朝の政治・社会構造、女真族の生活文化、中国・ツングース系諸民族の交流史など、多くの分野と結びついています。また、世界の文字史の観点から見れば、「既存の大文明の文字(漢字)を参考にしつつ、自民族の言語に合わせた新たな文字を作る」というプロセスの一例としても興味深いケースです。
このように、女真文字は、金王朝の興亡とともに生まれ、使われ、やがて忘れられた文字です。しかし、その断片的な刻文や碑文に刻まれた線は、今もなお、当時の女真人たちが自らの言葉を記録し、歴史に名を残そうとした努力の跡を伝えています。女真文字について学ぶことは、教科書の中では短くしか触れられない金王朝や女真族の歴史を、より具体的で生き生きとした像として思い描くための、一つの入口になると言えるでしょう。

