「ジョン・ヘイ」とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したアメリカ合衆国の政治家・外交官で、とくに国務長官として「門戸開放宣言」を打ち出し、アメリカの対中国外交と太平洋進出の方向性を決定づけた人物です。若いころにはリンカン大統領の秘書として南北戦争期のホワイトハウスで働き、その後は外交官・作家・新聞編集者など多彩な経歴を経て、マッキンリー大統領とセオドア・ローズヴェルト大統領のもとで国務長官を務めました。世界史の文脈では、とくに1899〜1900年の中国に関する門戸開放通牒、義和団事件後の対応、パナマ運河建設にかかわる条約などを通じて、アメリカが本格的な帝国主義国家として振る舞い始めた時期を象徴する人物として登場します。
ヘイの外交路線は、一言でいえば「既存の列強との妥協を図りつつ、アメリカの経済的進出の機会を最大限に確保する」ことを狙ったものでした。軍事征服や領土獲得よりも、自由貿易と平等な商機の確保を重視し、列強による中国の分割・植民地化に反対しながらも、中国の主権を本気で守るというよりは、アメリカ自身の通商権益を確保するために「領土の保全」「門戸開放」を掲げた側面が強かったと言えます。このため、ヘイはしばしば「アメリカ式帝国主義」の代表的人物の一人として評価・批判の両面から論じられます。
以下では、まずジョン・ヘイの生涯と政治的キャリアを概観し、つづいて国務長官としての「門戸開放政策」と義和団事件への対応、さらにパナマ運河やスペイン=アメリカ戦争後の外交整理など、対外政策の具体的内容を見ていきます。そのうえで、彼の外交が当時のアメリカ社会と世界秩序にどのような意味を持ったのかを整理していきます。
リンカンの秘書から外交官へ―生涯と政治的キャリア
ジョン・ヘイは1838年、アメリカ合衆国オハイオ州に生まれました。中西部の比較的素朴な環境で育ちましたが、大学で教養教育を受け、若いころから文学・詩作にも関心を持っていました。弁護士としての修業を始めた彼は、親戚を通じてイリノイ州の弁護士だったエイブラハム・リンカンの事務所に出入りするようになり、ここからリンカンとの縁が生まれます。
1860年、リンカンが共和党から大統領候補に選ばれ、やがて大統領に当選すると、ヘイは20代前半にしてホワイトハウスの私設秘書(秘書官)として採用されました。もう一人の秘書ニコライとともに、リンカンの演説草稿や書簡作成を補佐し、南北戦争という国家的危機のただ中で、大統領の最も近い側近の一人として働きます。ヘイは後年、「リンカン伝」を共同執筆し、彼の人柄や政治の舞台裏を記録に残しました。
リンカン暗殺後、ヘイは外交の道に進みます。彼はさまざまな国への外交官・公使として派遣され、ヨーロッパや南米での経験を積みました。その一方で、帰国後には新聞の編集者や実業界の顧問、作家としても活動し、ワシントン社交界と政財界に幅広い人脈を築いていきます。文学的教養と政治的実務能力の両方を備えた「教養ある政治家」として、徐々に全国的な名声を得るようになりました。
19世紀後半のアメリカは、南北戦争後の再建期を経て、急速な工業化と西部開拓を進め、多民族・多地域からなる大国へと成長していました。同時に、国内市場の飽和と過剰生産の問題を背景に、海外市場の獲得へと目を向け始めます。太平洋を挟んだアジア貿易への関心も高まり、中国や日本をめぐる列強間の競争が激しくなっていました。このような状況の中で、ヘイのような教養ある外交官・政治家は、アメリカの「新しい役割」を理論づけ、実際の外交交渉を進める役割を担っていくことになります。
1897年、共和党のマッキンリー大統領が誕生すると、ヘイはまず在英公使(駐英大使に相当)としてロンドンに赴任し、アメリカとイギリスの関係改善に努めました。かつては独立戦争や1812年戦争を通じて対立していた両国ですが、19世紀末には経済的な利害の一致とドイツなど他の大国の台頭により、「英米協調」の気運が強まりつつありました。ヘイはロンドン社交界での人脈と交渉術を生かし、両国間の信頼関係構築に貢献したとされます。
その後、1898年にスペイン=アメリカ戦争が起こると、アメリカはキューバの独立支援を名目にスペインと戦い、結果としてフィリピン・プエルトリコ・グアムなどを獲得する帝国主義国家としての一歩を踏み出します。この戦争の最中、1898年9月にヘイは国務長官に任命され、以後マッキンリー政権とセオドア・ローズヴェルト政権のもとで、アメリカの対外政策を一手に担う立場につくことになりました。
門戸開放宣言と義和団事件―対中国外交の展開
ジョン・ヘイの名前が世界史で必ずといってよいほどセットで語られるのが、「門戸開放宣言(門戸開放通牒)」です。19世紀末の中国(清朝)は、アヘン戦争やアロー戦争、日清戦争などを通じて列強からの圧力を受け、各国に租借地や勢力範囲(勢力圏)を認めざるをえない状況に追い込まれていました。イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・日本などがそれぞれ港湾や鉄道敷設権を押さえ、中国を事実上「分割」しようとする動きが強まっていたのです。
アメリカは、清国と不平等条約を結んで通商権益を得ていたものの、アジアに直接の植民地を持たず、中国内陸部への進出も遅れていました。そのため、もし列強が中国を完全に勢力圏ごとに分割し、各自の勢力圏内で保護貿易を行うようになれば、後発のアメリカは商機を失う危険がありました。そこでヘイは、「中国の領土保全と門戸開放」を掲げることで、自国の通商機会を守ろうと考えました。
1899年、ヘイはイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本・イタリアなど主要列強に対し、「門戸開放通牒」と呼ばれる書簡を送付します。その内容は、(1) 各国は中国で獲得した勢力圏内でも他国の通商・居住の自由を妨げないこと、(2) 中国に課される関税は全地域で平等とすること、など、形式的な機会均等を求めるものでした。これは、中国市場への「機会均等」=アメリカも含めた列強の平等な参入を保証させることを目的としていました。
列強各国は、ヘイの提案を全面的に歓迎したわけではありませんが、明確に拒否することも避けました。自らの既得権を否定されるわけではない一方で、「名目上の原則」としては同意しても支障が少ないと判断したからです。ヘイはこの曖昧な反応を「実質的な同意」と解釈し、1900年に改めて門戸開放の原則が国際的に承認されたと宣言します。こうして、「門戸開放・機会均等・領土保全」というスローガンは、アメリカの対中国外交の基本方針として定着していきました。
しかし、このタイミングで中国内部では大きな動揺が起こります。1890年代末から1900年にかけて、山東省などを中心に「扶清滅洋(清朝を扶け、外国勢力を滅ぼす)」を掲げる義和団と呼ばれる民衆武装集団が勢力を拡大し、やがて北京の各国公使館区域を包囲する事件へと発展しました(義和団事件)。清朝内部の保守派は当初これを利用しようとし、結果的に外国勢力との全面衝突に至ります。
この事態に対し、アメリカ・日本・ロシア・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国連合軍が派兵され、北京を占領して義和団と清軍を鎮圧しました。ヘイはこの過程で、中国の完全な分割や植民地化には反対しつつも、国際協調の枠組みの中でアメリカの軍事行動を正当化し、平等な賠償金受け取りと権益確保を目指しました。
1901年の北京議定書(辛丑条約)では、清朝に巨額の賠償金支払いと公使館区域の警備権などが課されました。アメリカは自らの賠償金の一部を後に中国人留学生のアメリカ留学基金に充てるなどの措置をとり、「文明国」として寛大さをアピールしましたが、根本的には他の列強と同様に中国に対する不平等条約体制の一部をなしていました。ヘイの「門戸開放」は、中国の主権を守るためというより、「列強のあいだで独占を避け、アメリカも分け前にあずかる」ための原則だったという批判も根強くあります。
パナマ運河と英米関係―新たな世界秩序への関与
ジョン・ヘイは、中国だけでなく、パナマ運河や英米関係の面でも重要な役割を果たしました。アメリカは、太平洋と大西洋を結ぶ短絡ルートとして、中米地峡に運河を建設する構想を長く持っていました。当初、コロンビア領だったパナマ地峡にフランス企業が運河建設に挑戦しましたが、技術的・資金的困難から挫折していました。このプロジェクトを引き継ぎ、アメリカが主導して運河建設を進めるには、国際的な法的枠組みを整える必要がありました。
ここで重要なのが、ヘイ=ポーンズフォート条約(Hay–Pauncefote Treaty)です。19世紀半ばに結ばれたクレイトン=バルワー条約では、アメリカとイギリスは「中米地峡に建設される運河は両国の共同管理とし、いずれか一方が単独支配しない」と合意していました。しかし20世紀を目前に控えた時点で、イギリスは世界各地に多くの責任を抱えており、アメリカとの対立を避ける方向に舵を切り始めていました。
1901年に締結されたヘイ=ポーンズフォート条約は、クレイトン=バルワー条約を事実上修正し、アメリカがパナマ運河を単独で建設・管理することを国際的に認める内容となりました。イギリスは、中立性の確保など一定の条件付きでアメリカの主導権を認めることで、英米関係の協調路線を選択し、アメリカも「英語圏大国同士の協力」を基盤に世界秩序に関わっていく姿勢を強めます。この合意の背景には、ドイツ帝国など他の列強の台頭に対抗するという戦略的計算もありました。
その後、アメリカはコロンビアからの分離運動を支援する形でパナマ共和国の独立を後押しし、1903年のヘイ=ブナウ=バリヤ条約によってパナマ運河地帯の実質的支配権を手にします。ヘイ自身は1905年に死去しており、運河の完成(1914年)は見届けていませんが、彼が結んだ諸条約は、アメリカが中米・カリブ海地域を自国の「裏庭」と見なし、戦略拠点として支配していくための基盤となりました。
また、ヘイはスペイン=アメリカ戦争後の講和条約(パリ条約)の締結にも関わり、アメリカがフィリピンやプエルトリコ、グアムを獲得するプロセスを支えました。フィリピンではその後、アメリカ支配に反対する独立運動との激しい戦争(アメリカ=フィリピン戦争)が起こりますが、ヘイの外交路線は、こうした軍事介入と植民地支配を国際的に正当化し、「文明化」と自由貿易を名目に帝国主義的な拡大を進める役割を果たしました。
評価と歴史的意義―「門戸開放」とアメリカ帝国主義
ジョン・ヘイの歴史的評価は、アメリカ国内外で分かれています。一方では、彼は高い教養と文筆力、議会と社交界での幅広い人脈を生かして、アメリカ外交を「粗野な拡張主義」から、ある程度洗練された国際協調路線へと導いた人物とされています。門戸開放政策は、列強による中国の全面的な領土分割を防ぎ、中国の形式的な統一を保つ一因になったとも評価されます。また、英米関係の改善とパナマ運河建設の国際的承認は、20世紀アメリカの世界的台頭の重要なステップだったとみなされています。
しかし他方で、ポストコロニアル研究や批判的な国際関係論の視点からは、ヘイの政策は「帝国主義の新しい形」にすぎないという批判も根強くあります。門戸開放は中国の主権や民衆の利益を守るためではなく、アメリカ自身が中国市場から排除されないための原則であり、結局は不平等条約体制と列強支配を前提としていたという指摘です。また、パナマ運河地帯の獲得に際してコロンビアの主権が無視されたことや、フィリピンでの軍事支配の正当化なども、「自由と民主主義」を標榜するアメリカの矛盾を象徴する事例として論じられます。
ヘイ個人の姿を見れば、リンカン時代から政治の中心に近い場所で活動しつつも、自らが大統領になることはなく、「影の実務家」「グレーな実務外交の体現者」として裏方に徹した人物でもありました。詩人や作家としての一面を持ちながら、現実政治の力学を冷静に読み取り、アメリカの国益を最大限に引き出そうとする姿勢は、後の多くのアメリカ外交官のモデルにもなっています。
世界史の学習で「ジョン・ヘイ」という名前を見かけたときには、まず「門戸開放政策」「義和団事件に対する列強の共同出兵」「パナマ運河をめぐる条約」といったキーワードと結びつけておくとよいです。そのうえで、彼の外交が「帝国主義時代の中で、武力による征服と、国際協調や自由貿易のスローガンをどのように組み合わせていたのか」という点に目を向けると、19世紀末から20世紀初頭の世界秩序の性格がより立体的に見えてきます。

