「清(しん)」とは、17世紀から20世紀初頭にかけて中国を支配した王朝で、1616年に女真族(のちの満州族)のヌルハチが建てた後金を前身とし、1636年に国号を「清」と改めて成立した王朝です。1644年に明が北京で滅びたのち、山海関を越えて華北に進出し、中国本土を征服しました。以後、清は中国史上二度目の「異民族による統一王朝」として、満州族を支配民族としつつも、漢民族・モンゴル・チベット・ウイグルなど多民族を抱えた広大な帝国を形成しました。18世紀には康熙帝・雍正帝・乾隆帝のいわゆる「康雍乾盛世(こうようけんせいせい)」のもとで最盛期を迎えますが、19世紀に入ると欧米列強や日本の進出、アヘン戦争や太平天国の乱などによって動揺し、最終的には辛亥革命を経て1912年に滅亡しました。
世界史のなかで清は、「東アジア伝統世界の最後の皇朝」であると同時に、「近代世界システムへの編入に苦しんだ帝国」として位置づけられます。一方では、科挙や皇帝専制、朝貢体制など伝統的な中国秩序を維持し、広大な版図と人口を支える統治システムを整えました。他方では、アヘン戦争以降の不平等条約・列強の半植民地化圧力に対応できず、内憂外患の中で改革と抵抗を試みながらも崩壊していきます。
以下では、まず清の成立と中国支配の確立、つづいて清帝国の統治体制と社会・文化、さらに19世紀以降の列強の進出と清の動揺、最後に革命と滅亡、そして清王朝の歴史的意義について順に見ていきます。
成立と中国支配の確立
清の起源は、遼東地方の女真族にさかのぼります。女真はもともとツングース系の狩猟・農耕民族で、明朝の冊封を受けつつも、しだいに自立の動きを強めていきました。16世紀末から17世紀初頭にかけて、女真族の指導者ヌルハチが勢力を拡大し、1616年に国号を「後金(こうきん)」として建国します。彼は八旗(はっき)と呼ばれる軍事・社会組織を整備し、女真諸部を統合するとともに、漢人や蒙古人も取り込んで軍事力を強化しました。
ヌルハチの死後、その子ホンタイジ(皇太極)が後を継ぎます。ホンタイジは1636年に国号を「清」と改め、自らを「皇帝」と称して明と対立する独立王朝の地位を明確にしました。彼は、女真という名称を「満洲(満州族)」へと改め、漢人官僚やモンゴル貴族と協調しながら、より広い意味での多民族王朝を志向しました。また、明の制度や儒教的な礼法を積極的に採用し、中国皇帝としての正統性を準備していきます。
清が中国本土に進出する決定的きっかけとなったのは、1644年の明の滅亡です。李自成(りじせい)率いる農民反乱軍が北京を占領し、明の崇禎帝は自殺します。これに対し、山海関を守っていた明の将軍呉三桂(ごさんけい)は、李自成政権を敵視し、清軍を引き入れて反撃しました。順治帝のもとで清軍は北京に入城し、李自成を追い払うとともに、明の残存勢力を各地で討伐していきます。こうして清は「反乱軍を討つ」という名目のもと、華北の支配を確立しました。
しかし、明王朝の旧勢力はすぐには消滅せず、江南や西南では南明政権が抵抗を続けました。清は軍事力と懐柔策を併用してこれらを次々と制圧し、1683年には台湾に拠っていた鄭成功(ていせいこう)の後裔・鄭氏政権を滅ぼして台湾も支配下に収めます。こうして17世紀末までに、清はほぼ明の旧領を継承し、中国本土における支配を完成させました。
17〜18世紀の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の時代は、清の領土拡大と支配の安定化が進んだ時期です。康熙帝は三藩の乱(さんぱんのらん)を鎮圧して国内の大規模反乱を収めるとともに、ロシア帝国との間でネルチンスク条約を結び、北方国境を確定させました。乾隆帝の時代には、新疆(しんきょう)のジュンガルを制圧し、チベットへの宗主権を強めるなどして、清帝国の版図は最大に達します。こうして清は、満州・中国本土・モンゴル・チベット・新疆を含む巨大な多民族帝国となりました。
清帝国の統治体制と社会・文化
清の統治体制の特徴は、「満漢併用」と呼ばれる多民族支配の仕組みにあります。皇帝は満州族出身であり、宮廷や軍事の中枢は満州人と八旗軍が握っていましたが、地方行政や文官官僚の多くは漢人が担いました。中央官庁や地方の高級官職は、「満人枠」と「漢人枠」を設けてバランスをとり、どちらか一方に権力が偏らないように工夫されました。
官僚登用の基礎には、明以来の科挙制度が引き続き用いられました。儒教経典の理解度を試す試験を通じて、各地の士大夫(しだいふ)が官僚として登用され、皇帝専制を支える役割を果たしました。清朝は自らを「中華王朝の正統な後継者」と位置づけ、儒教的正統を重んじるとともに、満州族としての独自性を保持し続けました。そのため、朝廷では儒教儀礼が重んじられつつも、宮廷内では満州語や満州風の習俗が保たれました。
統治制度の面では、明の遺制を多く継承しつつも、八旗と緑営(りょくえい)と呼ばれる二重の軍事組織を持った点が特徴です。八旗は満州・モンゴル・漢軍の旗人で構成される世襲的な軍事・社会組織であり、首都や要地の防衛、対外戦争に従事しました。一方、緑営は主として漢人からなる地方駐屯軍で、治安維持や反乱鎮圧を担いました。しかし、時代が下るにつれて緑営は腐敗・弱体化し、19世紀の太平天国の乱などの際には十分に機能しなくなります。
清代の社会経済は、18世紀を中心に大きく発展しました。新大陸作物であるトウモロコシやサツマイモの導入や、長江下流域や華南での水田開発により、農業生産力が上昇し、人口は爆発的に増加しました。18世紀末には人口が3億を超えたとも言われ、世界最大級の人口大国となります。一方で、人口増加に対して耕地の拡大には限界があり、19世紀に入ると農村貧困や土地不足が深刻化していきました。
国際関係では、清は朝鮮・琉球・ベトナム・ビルマ・シャムなど周辺諸国との朝貢関係を維持し、「華夷秩序(かいちつじょ)」と呼ばれる伝統的な国際秩序を保ちました。対欧米諸国との貿易は、18世紀には主に広州(こうしゅう)に限定され、茶・絹・陶磁器などが輸出されました。清朝は当初、ヨーロッパ勢力を「遠方の朝貢国」の一種として扱い、西洋の科学技術には関心を示しつつも、政治的には従来の中華中心的世界観を変えませんでした。
文化面では、康熙・乾隆期に大規模な文献整理事業が行われ、『康熙字典』や『四庫全書』などの編纂が進みました。これらは、漢籍の集大成として後世に大きな影響を与えます。一方で、乾隆帝は思想統制の一環として「文字の獄」と呼ばれる言論弾圧を行い、反清的・批判的とみなされた文書の著者や一族を処罰しました。このように、文化保護と検閲・弾圧が並存する体制がとられました。
列強の進出と清の動揺
18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパで産業革命が進むと、イギリスなどの列強は新たな市場と原料供給地を求めてアジアに進出しました。清との貿易において、イギリスは大量の銀を中国に流出させており、貿易赤字の解消のためにインド産アヘンを清に密輸するようになります。アヘンは中国社会に深刻な中毒と銀流出を招き、清政府はアヘン取り締まりを強化しました。
1840年、アヘン取締官林則徐(りんそくじょ)が広州でアヘンを没収・焼却したことをきっかけに、イギリスは武力をもって清に圧力をかけ、アヘン戦争が勃発します。清は軍事力と近代兵器で大きく劣るため敗北し、1842年の南京条約によって香港の割譲、上海などの開港、不平等な関税制度などを認めさせられました。これが、清が列強と結んだ最初の不平等条約であり、以後、他の列強も同様の権益を要求するようになります。
続くアロー戦争(第二次アヘン戦争)では、イギリス・フランス連合軍が北京に進撃し、円明園を焼き払うなど、清廷の威信は深く傷つきました。天津条約・北京条約により、外国公使の北京駐在や内地通商の拡大、キリスト教布教の公認など、清の主権は大きく制限されます。こうして清は「半植民地化」の道を歩み始めました。
対外的屈辱と同時に、国内では巨大な反乱が相次ぎました。その代表が、洪秀全(こうしゅうぜん)を指導者とする太平天国の乱(1851〜64年)です。彼はキリスト教的要素と平等主義を取り込んだ独自の教えを掲げ、「天王」と称して南中国に大規模な政権を築きました。太平天国は土地の共有や女性解放など急進的政策を打ち出し、多くの農民の支持を集めましたが、内部対立や清軍・地方勢力(曽国藩らの湘軍など)との戦いで次第に弱体化し、最終的に鎮圧されました。
太平天国の乱や捻軍の乱、イスラーム教徒の反乱(回民蜂起)など、19世紀中頃の内乱は、清の財政と軍事力を著しく消耗させました。一方で、これらの反乱を鎮圧する過程で、曽国藩・李鴻章(りこうしょう)ら地方官僚が自前の軍隊(郷勇)を編成し、中央政府に依存しない軍事力を持つようになりました。これは、地方軍閥化の萌芽であり、のちの軍閥割拠の先駆けともなります。
列強の圧力に対し、清朝内部には「自強運動(洋務運動)」と呼ばれる近代化改革の試みも現れました。曾国藩・李鴻章・張之洞らは、「中体西用(中学を体とし、西学を用とする)」のスローガンのもと、武器工場や造船所、電信・鉄道などの近代的軍事・産業施設を整備しました。しかし、これらの改革は主に軍事・技術面に限定され、政治制度や社会構造を根本から変えるには至りませんでした。
清はまた、対外戦争でも苦杯を重ねました。1884〜85年の清仏戦争では、ベトナムの宗主権をフランスに奪われ、1894〜95年の日清戦争では、近代化を急速に進めていた日本に敗北し、下関条約で朝鮮の独立承認と遼東半島・台湾の割譲、多額の賠償金支払いを余儀なくされました。これにより、清の国際的地位は大きく低下し、国内では列強による勢力範囲分割(いわゆる「中国分割」)への恐怖が広がりました。
改革と革命、清王朝の滅亡と歴史的意義
日清戦争の敗北を受けて、清朝内部ではより抜本的な改革の必要性が認識されます。光緒帝のもと、康有為・梁啓超らの変法派知識人は、立憲君主制や近代教育制度の導入、官僚機構の刷新などを目指す「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」を提案しました。1898年には百日間にわたり改革詔勅が出されますが、西太后を中心とする保守派のクーデタによって変法派は失脚し、改革は挫折します。
改革と保守の対立が続く中、1900年には義和団事件が起こりました。山東などの民間武術結社を中心とする義和団は、「扶清滅洋(清を扶けて洋人を滅ぼす)」をスローガンに外国人とキリスト教徒を攻撃し、やがて北京の各国公使館を包囲します。当初、清廷は義和団を利用して反外国勢力として動かそうとしましたが、列強八カ国の連合軍が出兵し、北京を占領しました。清は北京議定書により巨額の賠償とさらなる軍事的・政治的制約を受け、主権は一層弱体化します。
義和団事件後、西太后と光緒帝のもとで「新政」と呼ばれる近代化策が再び試みられました。科挙の廃止(1905年)や新式教育制度の導入、地方諮議局の設置、憲法大綱の公布など、立憲君主制への移行を見据えた改革が進められます。しかし、改革は遅れと矛盾を抱えており、軍事・財政・政治の現代化が十分に進まないまま、社会の不満だけが高まっていきました。
こうした状況の中で、孫文(そんぶん)らの革命派は「三民主義(民族・民権・民生)」を掲げ、海外と国内で反清運動を展開していました。1911年、武昌起義をきっかけに各地で清からの独立宣言が相次ぎ、革命は短期間で全国に拡大します。翌1912年、最後の皇帝溥儀(ふぎ)は退位を余儀なくされ、清王朝は正式に滅亡しました。これによって、中国は二千年以上続いた皇帝制を終え、中華民国として共和制へと転換します。
清王朝の歴史的意義は、多面的です。第一に、清はモンゴルの元に次ぐ「異民族支配王朝」として、満州族が漢文化を受容しつつも自身のアイデンティティを保持し、多民族帝国を長期にわたり維持した事例です。その統治はしばしば専制的でありながらも、一定の安定と繁栄をもたらしました。
第二に、清の支配領域とその国境線は、現代中国の領土構成に大きな影響を与えています。満州・新疆・チベット・内モンゴルなどの地域は、清代に「皇帝の領域」として組み込まれ、その後の中華民国・中華人民共和国もその継承を主張してきました。したがって、清の版図をめぐる歴史認識は、現代の民族問題や領土問題とも結びつきます。
第三に、清の衰退と滅亡の過程は、近代における非西洋帝国が直面した「近代化と植民地化の圧力」の典型例として、比較史的にも重要です。列強の軍事的・経済的優位の前で、伝統的な政治体制と社会構造がいかに対応できず、改革と革命がどのような形で起きたのかという点で、清の経験はオスマン帝国や日本など他地域との比較対象にもなります。
世界史の学習で「清」という用語に出会ったときには、(1) 満州族による多民族帝国としての成立と拡大、(2) 科挙・朝貢体制を軸とした伝統的統治の完成、(3) アヘン戦争以降の列強進出と内乱、(4) 自強運動・変法運動・新政などの改革の試み、(5) 義和団事件と辛亥革命を経ての滅亡、という流れをセットで思い浮かべるとよいです。その背後には、東アジアの伝統秩序と近代国際関係の衝突という大きなテーマがあり、清の歴史をたどることは、近代中国だけでなく近代世界全体を理解する手がかりにもなります。

