「侵入ギリシア軍との戦い(トルコ)」とは、第一次世界大戦後、オスマン帝国領アナトリア西部に上陸・侵攻してきたギリシア軍と、それに対抗したトルコ民族運動(ムスタファ=ケマルら)が繰り広げた戦争を指します。世界史ではふつう、1920年前後のトルコ民族運動の流れの中で、「ギリシア軍のアナトリア侵入」と「それに対するトルコ側の抵抗戦」として扱われ、ギリシア側からは「ギリシア・トルコ戦争」、トルコ側からは「独立戦争」の一部として位置づけられます。
第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国は、セーヴル条約によって領土の大部分を列強とギリシアに分割されようとしていました。その一環として、1919年にギリシア軍がイズミル(スミルナ)に上陸し、アナトリア西部へと侵攻を開始します。これに対して、イスタンブルの旧オスマン政府とは別に、アンカラを拠点とするムスタファ=ケマル(のちのアタテュルク)らの民族運動勢力が組織され、「祖国を守るための抵抗戦」が展開されました。このギリシア軍との戦いでの勝利が、最終的にローザンヌ条約によるトルコ共和国の国境確定へとつながっていきます。
この戦いは、単なるトルコとギリシアの二国間戦争ではありません。背後には、第一次世界大戦後の列強によるオスマン帝国分割計画、ギリシア側の「大ギリシア主義(メガリ・イデア)」、トルコ側の民族国家形成の動き、そしてムスリム・ギリシア正教徒双方の住民が巻き込まれた暴力と難民化という複雑な要素が絡み合っています。「侵入ギリシア軍との戦い(トルコ)」という用語を学ぶことは、トルコ共和国がどのような歴史体験をもとに成立したのか、またトルコとギリシアの関係がなぜ今日まで難しい問題を抱えているのかを理解する手がかりにもなります。
侵入ギリシア軍との戦いとは何か:第一次世界大戦後の対立
第一次世界大戦(1914〜1918年)で、オスマン帝国はドイツ・オーストリア側に立って参戦し、最終的に敗北しました。戦後処理の過程で、連合国側の列強は、オスマン領を自国の勢力圏に分割する構想を進め、1918年以降、イスタンブルやアナトリア各地には英・仏・伊などの軍隊が進駐します。そのなかで、バルカン戦争を勝ち抜いて領土拡大を進めていたギリシアもまた、「小アジア西岸のギリシア人居住地域を自国領に編入する」ことを目指し、列強の支持を取り付けようとしていました。
ギリシア側のこの拡張構想は、「メガリ・イデア(大ギリシア主義)」と呼ばれます。これは、コンスタンティノープル(イスタンブル)や小アジア西岸、さらにはかつてのビザンツ帝国領を再びギリシア国家のもとに統合しようとする、民族主義的なイメージでした。19世紀以来のギリシア独立・領土拡大の流れの延長線上で、「アナトリア西岸+イズミル(スミルナ)はギリシア民族の自然な領土である」という主張が強まっていきます。
一方、オスマン帝国本体は、敗戦と連合国の占領によって政治的にきわめて弱体化していました。スルタン政府は連合国との交渉に追われ、自らの王朝とイスラームの象徴としての地位を守ることで精一杯で、「アナトリアの各地方をどう守るか」という観点からは、ほとんど無力な状態でした。このような状況下で、アナトリアの地方将校や知識人、農民たちの間から、「自らの土地は自ら守る」という民族運動が芽生えます。その中心人物が、第一次世界大戦でのガリポリ戦の英雄として知られていた将軍ムスタファ=ケマルでした。
1919年、ムスタファ=ケマルはアナトリアに渡り、サムスン上陸を契機に各地の抵抗勢力を組織していきます。エルズルム会議・シヴァス会議などを経て、「民族主権にもとづく新たな政治組織」をめざす動きが明確になり、やがてアンカラに大国民議会が開かれて、イスタンブルのスルタン政府とは別の「民族政府」が樹立されました。こうした中、もっとも緊迫した軍事的対立の焦点となったのが、アナトリア西部に侵入したギリシア軍との戦いだったのです。
ギリシア軍のイズミル上陸とアナトリア侵攻
1919年5月、連合国の許可と後押しを受けたギリシア軍は、エーゲ海沿岸の都市イズミル(ギリシア語名スミルナ)に上陸しました。イズミルとその周辺には、当時、ギリシア系住民とトルコ系住民、その他の民族が混在して暮らしていましたが、ギリシア側は「自民族の保護」と「歴史的権利」を主張し、軍事占領を通じてこの地域を自国領として既成事実化しようとしました。
ギリシア軍の進駐は、現地のトルコ系住民にとって大きな衝撃を与えました。占領の過程で暴行や略奪が発生し、トルコ人側から見れば「外国軍による祖国の蹂躙」と映りました。これに対してアナトリア各地では、イズミルでの出来事に抗議する集会やデモが起こり、ムスタファ=ケマルら民族派の呼びかけは、急速に支持を広げていきます。
イズミルを足がかりに、ギリシア軍はアナトリア内陸部へとじわじわ侵攻しました。1920年にはセーヴル条約が結ばれ、オスマン政府は小アジア西部の割譲など、極度に不利な条件を受け入れさせられます。この条約は、イスタンブル政府の名のもとに結ばれたものでしたが、アンカラの民族政府側はそれを認めず、「セーヴル条約粉砕」をスローガンに掲げて抵抗を続けました。
ギリシア軍は、アナトリア西部の重要都市ブルサなどを次々と占領し、最終的にはアンカラ方面へ向けて進撃を試みます。これは、アンカラの民族政府そのものを軍事的に打倒し、アナトリア全域に対するギリシアと列強の優位を確立することを狙ったものでした。1921年には、ギリシア軍とトルコ民族軍とのあいだで大規模な戦闘が相次ぎ、戦局の行方は不透明でした。
トルコ民族運動の反攻:イノニュ・サカリヤ・大攻勢
ギリシア軍の侵攻に対し、ムスタファ=ケマル率いるトルコ民族運動は、各地の民兵や旧オスマン軍の残存部隊を統合し、正規軍として再編します。アンカラの大国民議会は、ケマルに「総司令官」としての権限を与え、議会と軍が一体となって「祖国防衛戦」を展開する体制を整えました。
1921年、アナトリア西部のイノニュ周辺で、第一次・第二次イノニュの戦いが行われました。ここでトルコ軍は、防衛線を固めつつギリシア軍の進撃を食い止め、「もはやトルコ民族軍は敗北ばかりではない」という自信を得ることに成功します。イノニュでの防衛戦は、国内外に向けて「トルコ民族運動が単なるゲリラや反乱ではなく、正規の軍事力を持つ勢力である」ことを示す象徴的勝利となりました。
しかし、ギリシア軍の最大の攻勢はその後に訪れます。1921年夏、ギリシア軍はアンカラを目指してアナトリア内陸部深くまで進撃し、ポロス河畔(トルコ語名サカリヤ川)近くの高地でトルコ軍と決戦状態に入りました。これが「サカリヤの戦い」です。ケマルは「地は一尺も譲ってはならない」と将兵を鼓舞し、持久戦と巧みな防御戦術によってギリシア軍の攻勢をしのぎます。
サカリヤの戦いは数週間に及ぶ消耗戦でしたが、最終的にはトルコ軍が持ちこたえ、補給線の伸び切ったギリシア軍は撤退を余儀なくされました。この勝利は、民族運動側にとって決定的な転機となり、アンカラ政府の国際的な評価も高まります。ケマルはこの功績により「ガーズィ(聖戦の英雄)」の称号を授けられました。
その後、トルコ側は軍備と兵站の整備に時間をかけ、1922年夏、満を持して「大攻勢(ビュユク・タールーズ)」を開始します。トルコ軍は西部戦線全体で一斉に攻勢に出て、アナトリア西部で分散していたギリシア軍を各個撃破していきました。特にドゥムルプナルの戦いでは、トルコ軍が決定的な勝利を収め、ギリシア軍は総崩れとなって海岸方面へ退却を開始します。
トルコ軍はその勢いのままイズミルへ進撃し、1922年9月、ついにギリシア軍の拠点であったイズミルを奪還しました。この過程で、都市では火災や虐殺など悲惨な事件も起こり、多くのギリシア系住民が命を落とし、あるいは避難民として海を渡ってギリシア本土へ逃れました。こうしてアナトリア西部での「侵入ギリシア軍との戦い」は、トルコ民族運動の軍事的勝利という形で幕を閉じます。
戦いの結果とその後:ローザンヌ条約、人口交換、記憶の対立
ギリシア軍がアナトリアから撤退したのち、列強はトルコ民族運動を無視できなくなり、スルタン政府ではなくアンカラ政府との講和交渉に踏み切りました。1923年、スイスのローザンヌでローザンヌ条約が結ばれ、セーヴル条約は実質的に破棄されます。この条約によって、トルコの主権と国境(アナトリアとイスタンブルを中心とする領域)が国際的に承認され、トルコ共和国成立への道が開かれました。
ローザンヌ条約と関連する取り決めの中で、トルコとギリシアのあいだには、「住民の強制的な相互移住(人口交換)」が行われました。原則として、トルコ領内のギリシア正教徒と、ギリシア領内のムスリムが、それぞれの宗教に基づいて相手国へ移住させられたのです(ただし、イスタンブルのギリシア人など一部は例外)。この人口交換によって、何十万人もの人びとが故郷を追われ、新しい土地での生活を余儀なくされました。
トルコ側から見れば、「侵入ギリシア軍との戦い」での勝利とローザンヌ条約は、「帝国崩壊の危機の中から民族国家として立ち上がった成功体験」として語られます。ムスタファ=ケマル(アタテュルク)を中心とする民族運動は、領土の大部分を守り抜き、「西洋列強の分割計画に抵抗して勝利した唯一の敗戦国」としての誇りを強調します。この記憶は、トルコ共和国のナショナル・アイデンティティに深く刻み込まれ、教科書や記念行事でも繰り返し強調されてきました。
一方、ギリシア側から見ると、この戦争とその結末は「小アジア・カタストロフィ(小アジアの大惨事)」と呼ばれるトラウマとして記憶されています。アナトリア西部に長く暮らしてきたギリシア系住民は、多くが暴力と火災の中で命を落とし、生き残った人びとも難民としてギリシア本土に移住させられました。ギリシアの文学や音楽、歴史記述の中には、「失われた故郷」としてのスミルナ(イズミル)やアナトリアへの郷愁と悲しみが、強い感情を込めて表現されています。
こうした記憶のズレは、今日に至るまでトルコとギリシアの関係に影を落としています。両国はNATOの加盟国として軍事同盟を組みながらも、エーゲ海の領有権やキプロス問題などをめぐって対立を抱え続けています。それぞれの国で「侵入ギリシア軍との戦い」や「小アジアの大惨事」がどう語られているかを比べてみると、同じ歴史的出来事が、語り手の立場によってどれほど違った意味を持ちうるかがよくわかります。
世界史を学ぶうえで、この「侵入ギリシア軍との戦い(トルコ)」という用語を目にしたときには、単に「ギリシア軍を撃退した戦争」という一行の説明にとどめず、第一次世界大戦後の国際秩序の再編、民族主義の高まり、難民・人口移動の問題、記憶とナショナリズムの関係といった広い文脈をあわせて思い浮かべてみてください。そうすることで、トルコ共和国の成立や東地中海世界の現在が、単なる地図上の境界だけでなく、多くの人びとの経験と感情が積み重なってできあがったものであることが、より立体的に見えてくるはずです。

