東ローマ帝国は、レオン3世による聖像破壊運動が起こったことで深刻な宗教的混乱に直面しましたが、彼の死後にはさらに激しい対立と政治的変動が続いていきました。皇帝たちは国内の宗教問題の収拾に苦しむ一方で、ブルガール人やイスラム勢力との戦いに奔走し、帝国の防衛と安定に尽力しました。やがて9世紀後半になると、マケドニア朝の台頭により、東ローマ帝国は軍事・政治のみならず文化的にも大きな発展を遂げることになります。
本記事では、聖像破壊運動後の混乱と再建、さらにビザンティン・ルネサンスと呼ばれる文化的隆盛に至るまでの歴史を詳しく解説していきます。
レオン3世の死後と聖像破壊運動の再燃
レオン3世の死後、その息子であるコンスタンティノス5世が帝位を継承し、彼の治世は東ローマ帝国において聖像破壊運動がより一層激化した時期として知られています。コンスタンティノス5世は聖像破壊運動を強力に推進し、各地の修道院を弾圧するなど、宗教的対立を一層深める政策を展開しましたが、その一方で軍事的手腕に優れた皇帝でもあり、特にイスラム勢力やブルガール人との戦いで成果を挙げることに成功しました。彼の治世は、帝国内においては聖像破壊を巡る混乱が続く一方で、帝国の防衛体制を強化し、対外戦争では一定の安定をもたらす重要な時期となりました。
イレーネ女帝と第2ニカイア公会議の開催
その後、コンスタンティノス5世の後を継いだレオン4世は短期間の治世であり、彼の死後には幼少のコンスタンティノス6世が皇帝となり、実権は皇后であるイレーネが掌握しました。イレーネはキリスト教内における聖像破壊運動の収束に尽力し、787年には第2ニカイア公会議を招集して聖像崇拝の正統性を確認し、聖像破壊運動に終止符を打つことに成功しました。
カール大帝の戴冠と東西の対立
イレーネの治世は内政面では一定の安定をもたらしましたが、西方ではカール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠されるという事件が発生し、東ローマ帝国の伝統的な「ローマ帝国唯一の後継者」としての地位が揺らぐことになり、カール大帝の戴冠は両者の関係に深刻な緊張をもたらしました。
ニケフォロス1世の改革とブルガール人との戦い
イレーネの失脚後、東ローマ帝国はしばらくの間、不安定な政局が続きましたが、802年に即位したニケフォロス1世は、イスラム勢力やブルガール人に対する防衛を強化するとともに、財政の再建に努めました。ニケフォロス1世は中央集権体制を強化し、税制改革を通じて帝国の経済的立て直しに成功しましたが、811年のプルスクの戦いでブルガール人のハーン・クルムに大敗し、ニケフォロス1世自身も戦死するという大事件が発生しました。
その後、ミカエル1世ランガベが即位するも短期間で退位し、次いで即位したレオン5世は聖像破壊運動を再び強化する政策を展開しました。彼は宗教的に厳格な政策をとり、聖像を再び禁止することで教会内に混乱を引き起こしましたが、同時に軍事的な改革を行い、帝国内の防衛体制の再整備に努めました。レオン5世の死後にはミカエル2世が即位し、彼は聖像破壊に対して一定の寛容策を取りつつ、帝国の防衛と安定に尽力しました。
ビザンティン・ルネサンスの萌芽とミカエル3世の治世
9世紀中盤にはミカエル3世が即位し、彼の治世は「ビザンティン・ルネサンス」とも呼ばれる文化的な隆盛期の始まりとして知られています。ミカエル3世の宮廷では、フォティオスがコンスタンティノープル総主教として活躍し、スラヴ人へのキリスト教布教や、ギリシア古典の研究が進められ、東ローマ帝国の文化的復興が本格化しました。
マケドニア朝の成立とバシレイオス1世の統治
ミカエル3世の死後、バシレイオス1世が即位し、彼の治世によりマケドニア朝が創始されました。バシレイオス1世は内政改革や軍制強化に取り組み、帝国の基盤を整えました。彼の治世中、キリスト教世界ではローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深まり、「フォティオス分裂」と呼ばれる教会分裂が発生しましたが、バシレイオス1世の巧みな外交により帝国の権威は維持され、文化的にも発展を遂げることとなりました。
法制度の整備と『バシリカ法典』の編纂
さらに、バシレイオス1世の後を継いだレオン6世は「賢帝」とも称される知識人皇帝であり、彼の治世中には『バシリカ法典』が編纂され、東ローマ帝国の法体系が整備されるなど、法制面での重要な成果が得られました。レオン6世の死後にはコンスタンティノス7世が即位し、彼の治世は学問と文化の振興が著しく、特に『ディアティポセス』といった文献の編纂が行われ、帝国の知的遺産が充実する時期となりました。
このように、東ローマ帝国は8世紀から9世紀にかけて、内政や軍事、宗教政策において数多くの変化を経験しながらも、ビザンティン・ルネサンスと呼ばれる文化的隆盛期を迎え、帝国の復興と安定が徐々に進んでいったのです。
文化的黄金期の到来とビザンティン世界の影響拡大
9世紀後半から10世紀にかけての東ローマ帝国は、マケドニア朝の皇帝たちが統治する中で、内政の安定と文化的発展が進展し、帝国の繁栄が顕著になった時期とされています。レオン6世の死後、コンスタンティノス7世が即位し、彼は学問と文化の振興に力を入れた知識人皇帝として名を残しています。コンスタンティノス7世は『ディアティポセス』や『デ・アドミニストランド・インペリオ(帝国統治論)』といった著作を通じて、帝国内の政治や行政に関する詳細な記録を残し、後世の統治者にとっての重要な指針を提示しました。彼の治世では、ギリシア古典の研究が盛んに行われ、帝国の知的水準が飛躍的に向上しました。
この時期、東ローマ帝国は対外的にはバルカン半島や小アジアの防衛に努めるとともに、東方のアッバース朝や西方の神聖ローマ帝国との外交関係においても重要な動きを見せました。特に、バシレイオス1世以降の皇帝たちはブルガール人やセルビア人との交渉を行い、これらの地域においてビザンティン文化とキリスト教を広めることで、東ローマ帝国の影響力を拡大させることに成功しました。
また、スラヴ人への布教活動では、キュリロスとメトディオスの兄弟が活躍し、彼らはスラヴ文字(キリル文字)を考案し、東方正教会の信仰をスラヴ世界に広める上で重要な役割を果たしました。この布教活動は、ビザンティン文化の普及とともに、後の東ヨーロッパ諸国の正教会信仰の基盤を築く要因となりました。
10世紀の後半には、ニケフォロス2世フォカスやヨハネス1世ツィミスケスといった軍人皇帝が相次いで即位し、彼らは東方においてイスラム勢力に対する攻勢を強めるとともに、帝国の防衛体制をより一層強化しました。特にニケフォロス2世は「白き死」とも呼ばれる勇猛な将軍であり、アレッポの攻略やキプロス島の再征服といった戦果を挙げ、帝国の領土回復に貢献しました。ヨハネス1世ツィミスケスはさらに遠征を展開し、イスラム勢力に対して勝利を収めることで、東ローマ帝国の国力を示すことに成功しました。
このように、9世紀から10世紀にかけての東ローマ帝国は、法制度の整備や文化の隆盛、さらには対外戦争における勝利などを通じて、帝国の権威を再び確立することに成功し、ビザンティン世界の黄金時代とも呼ばれる時期を迎えていったのです。