【東ローマ皇帝】バシリスクス

【東ローマ皇帝】バシリスクス東ローマ皇帝
【東ローマ皇帝】バシリスクス

生い立ちと家系

バシリスクスは5世紀の東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国において生まれた人物であり、彼の生涯は混乱と権力闘争に満ちたものでした。彼の生年については正確な記録が残っていないものの、彼はレオ1世の皇后であったウェリナの弟として生まれ、皇族に近い立場にありながらも、一時は軍人としての経歴を積んでいくことになります。当時の東ローマ帝国は、西ローマ帝国の衰退が顕著となり、ゲルマン民族の侵入やヴァンダル族との戦争などの外的な脅威にさらされながらも、内部では権力争いが絶えない時代でした。バシリスクスの家系は、宮廷内で一定の影響力を持っており、特に彼の姉であるウェリナの存在は、後に彼の政治的な運命に大きな影響を与えることになります。

軍人としての台頭とヴァンダル遠征

バシリスクスは軍人としての才能を認められ、東ローマ帝国の将軍として活動するようになります。特に彼の名が歴史に刻まれるのは、レオ1世の治世においてヴァンダル族への遠征を指揮したことによります。ヴァンダル族は北アフリカのカルタゴを拠点とし、西地中海の海上支配を握っており、455年には西ローマ帝国の首都ローマを略奪するなど、その脅威は東ローマにとっても無視できないものでした。レオ1世はヴァンダル族の王ガイセリックを討つために大規模な遠征を計画し、その指揮をバシリスクスに委ねます。

この遠征は468年に実行され、東ローマ帝国史上最大規模の軍事作戦の一つとして知られています。バシリスクス率いる艦隊は1,000隻を超え、兵力も10万を超えると推定されるほどの大遠征でした。しかし、この遠征は無残な失敗に終わります。彼の指揮の未熟さや、ヴァンダル族の巧妙な策略、さらには賄賂を受け取ったとされる宮廷内の不正が重なり、バシリスクスの艦隊はガイセリックの火船攻撃によって壊滅的な打撃を受け、多くの艦船と兵士が失われました。彼自身は命からがら逃げ延びましたが、この大敗北によって彼の名声は地に落ちることとなります。

宮廷への復帰と権力の掌握

ヴァンダル遠征の失敗によりバシリスクスは一時的に失脚し、宮廷から追放されるかのように隠棲を余儀なくされます。しかし、彼の姉であるウェリナの影響力によって彼は再び宮廷に復帰する機会を得ることとなります。レオ1世の死後、その後継者としてゼノンが帝位につきますが、ゼノンはイサウリア人であり、コンスタンティノープルの貴族層や軍部の支持を十分に得られないままでした。ウェリナはこの状況を利用し、貴族たちと手を組んでゼノンを追放する計画を立てます。

この計画は成功し、バシリスクスは475年に皇帝として即位することになります。彼の即位は元老院や軍部の支持を得たものではあったものの、完全な安定を保証するものではありませんでした。ゼノンは完全に排除されたわけではなく、一時的に退位しただけであり、再び帝位を奪還する機会を狙っていました。バシリスクスは即位後、自らの地位を強固なものとするために、宗教政策を含むさまざまな改革を行います。

宗教政策と反発

バシリスクスは、当時の東ローマ帝国において大きな論争となっていたキリスト教の宗派問題に深く関与することとなります。当時の教会は、カルケドン公会議の教義を受け入れるカルケドン派と、それに反対する単性論派(ミアフィシス派)の間で激しい対立が続いていました。バシリスクスは即位後、単性論派に接近し、カルケドン公会議の決定を否定する勅令を発布しました。これにより、一部の宗教勢力や地方の支持を得ることには成功しましたが、逆にコンスタンティノープル総主教アカキウスや、カルケドン派を支持する強力な層からの反発を招くことになります。

バシリスクスは、この反発を抑えるために更なる譲歩を試みますが、一度動揺した宮廷や貴族層の支持を取り戻すことは容易ではありませんでした。特に元老院や軍部の間では、ゼノンの復帰を望む動きが強まりつつあり、バシリスクスの立場は次第に危うくなっていきます。こうした宗教問題の混乱は、彼の政権の安定を大きく損なう要因となり、最終的には彼の失脚へとつながることとなるのです。

権力の動揺とゼノンの反撃

バシリスクスが帝位についた当初は、彼を支持した元老院や軍部、そして宗教勢力の一部を味方につけていたものの、その支配体制は決して盤石ではありませんでした。彼の即位はゼノンが帝位から追放されたことによるものであり、ゼノン自身は完全に排除されたわけではなく、小アジアのイサウリア地方へと逃れることで身の安全を確保し、反撃の機会をうかがっていました。一方で、バシリスクスは皇帝としての威厳を保つためにさまざまな施策を講じましたが、そのうちのいくつかが彼の統治を不安定にする要因となっていきます。

最大の問題は宗教政策でした。バシリスクスは単性論派(ミアフィシス派)を支持する勅令を発布し、カルケドン公会議の決定を否定したことで、キリスト教会の主流派であるカルケドン派からの強い反発を受けました。特にコンスタンティノープル総主教アカキウスはこの政策に激しく反対し、彼の支持者たちはバシリスクスの宗教政策を公然と批判しました。宮廷内部でも、彼の政策が帝国の安定を脅かすものと見なされるようになり、次第に不満の声が高まっていきます。

また、バシリスクスの統治の下で財政問題も深刻化しました。彼はヴァンダル遠征の失敗により失った莫大な資金を補うために、新たな税を課し、さらに富裕層や教会からの資金徴収を強化しました。この政策は当然ながら多くの貴族や有力者の反感を買い、特に元老院の支持を失う大きな要因となりました。加えて、彼の宮廷運営において姉のウェリナや側近たちが大きな権力を握るようになり、これがさらなる不満を生む結果となります。

こうした中、ゼノンは着実に復帰の機会をうかがい、小アジアにおいて軍を再編成し、支持者を増やしていきました。彼は特に、バシリスクスの政策に不満を抱く貴族や軍部の一部と密かに連携し、コンスタンティノープル奪還の準備を進めていきます。そして476年、ゼノンはついに大軍を率いてコンスタンティノープルへ進軍を開始しました。

帝位奪還とバシリスクスの失脚

ゼノンの進軍が本格化すると、バシリスクスの側近たちの中には彼を見限る者が現れ始めます。特に、彼の軍司令官の中には、ゼノンの勢力が優勢であると判断し、戦わずして降伏する者も出てきました。バシリスクスはこれに対抗するために軍を動員しようとしましたが、既に彼の指導力に対する信頼は失われており、決定的な戦いを前にして多くの将軍が彼を裏切りました。

ゼノンの軍がコンスタンティノープルに迫ると、バシリスクスは事態の深刻さを認識し、和平を模索するために交渉を試みます。しかしゼノンはこれを拒否し、完全な勝利を求めて進軍を続けます。追い詰められたバシリスクスは最後の手段として、宮廷内での籠城を試みましたが、元老院や市民の多くがゼノンを支持する姿勢を見せたため、これも実質的には不可能となります。

最終的に、バシリスクスは家族とともにコンスタンティノープルを脱出し、小アジアのキュジコスへと逃れました。しかし、ゼノンはすぐさま追跡軍を送り、バシリスクスの逃亡を許しませんでした。やがて彼はゼノンの軍に捕えられ、家族とともに投獄されることになります。

バシリスクスの悲劇的な最期

ゼノンはバシリスクスを即座に処刑することはせず、彼を家族とともにカッパドキアの一角にある要塞へと幽閉しました。この幽閉生活は極めて過酷なものであり、彼らにはほとんど食料や水が与えられず、最終的に餓死させられるという悲惨な最期を迎えることになります。この方法は当時の東ローマ帝国において失脚した皇帝に対してしばしば用いられるものであり、公開処刑よりも穏便な処置とされていましたが、その実態は極めて残酷なものでした。

バシリスクスの死により、彼の短い治世は終焉を迎え、ゼノンは再び帝位を掌握することになります。ゼノンの復帰後、彼はバシリスクスの政策を全て覆し、カルケドン派を再び支持する立場を明確にし、国内の混乱を収拾していきました。一方で、バシリスクスの名は歴史の中で「短命な簒奪者」として記録されることになり、彼の治世は失敗の象徴として語り継がれることとなります。

まとめ

バシリスクスの生涯は、野心と権力闘争に翻弄されたものでした。彼は姉の影響力を背景に帝位を奪取しましたが、ヴァンダル遠征での大失敗、宗教政策の失策、財政問題、貴族層の離反といった要因が重なり、わずか2年足らずで権力の座を追われることになりました。そして彼の最期は、かつての敵であるゼノンによって非業の死を遂げるという、東ローマ帝国の権力闘争における典型的な結末を迎えました。

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