「イズミル回復」とは、1922年9月9日にトルコ民族運動の軍が西アナトリアの港湾都市イズミル(古称スミルナ)へ進入し、1919年以来のギリシア軍占領を終わらせた出来事を指します。第一次世界大戦後の講和秩序に反発して始まったトルコ独立戦争の転機であり、以後の休戦交渉と最終講和(ローザンヌ条約)を加速させました。トルコ側では「イズミル解放(İzmir’in kurtuluşu)」として建国神話の重要な場面に位置づけられ、ギリシア側では「小アジアの大災厄(ミクラシアティキ・カタストロフィ)」の起点として記憶されます。軍事的勝利と同時に、都市の大火と住民の大量避難が生じ、広域の人口移動と国民国家化を決定づけた出来事でした。
背景と定義――占領都市スミルナから「解放都市」イズミルへ
第一次世界大戦の敗戦を受け、オスマン帝国は1919年以降、連合国の干渉下に置かれました。連合国はギリシアの参戦貢献を見込み、1919年5月15日にギリシア軍のスミルナ上陸を認めます。以後、西アナトリアの広い範囲がギリシア軍政下に入り、ギリシア政府は「大ギリシア主義(メガリ・イデア)」の実現を掲げて領有化を進めました。これに対し、ムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク)を中心とするアナトリアの民族運動は、1919年のエルズルム・スィヴァス会議を経て独自の議会・政府(アンカラ政権)を樹立し、セーヴル条約(1920)の実施に抗して武装抵抗を展開します。イズミル回復は、この独立戦争の最終局面で行われた西線の決定打でした。
都市スミルナは、19世紀以来の多民族商業都市として、ギリシア人・アルメニア人・ユダヤ人・ムスリムなどが共存し、地中海交易の要地として繁栄していました。占領期には軍政・治安・宣伝が絡み合い、各共同体間の緊張が増幅します。独立戦争の進行とともに、都市の帰趨は単なる軍事目標を超え、両国のナショナル・イメージの象徴へと膨らみました。「スミルナ(ギリシア語起源の呼称)」と「イズミル(トルコ語形)」という名称の選択自体が、政治的立場の表明を伴う局面が多かったのです。
経過――大攻勢から9月9日の進入、占領終了まで
1922年8月、アンカラ政権は西部戦線で総反攻「大攻勢(Büyük Taarruz)」を開始しました。決定的会戦となったのが8月26日から30日のドゥムルプナル会戦で、トルコ軍はギリシア軍主力を撃破します。ムスタファ・ケマルは「諸軍よ、汝らの第一目標は地中海である、前進せよ」と軍を鼓舞し、西方への追撃戦が一気に進みました。敗走するギリシア軍は補給線を失い、退路確保のために各地で放火・破壊を行ったとされ、住民の避難と混乱が拡大しました。
9月9日、トルコ軍先遣部隊がイズミルに進入し、行政・軍事の実権がトルコ側へ移ります。市内中心の政府機関・港湾施設は次々と掌握され、ギリシア軍は海路で撤退しました。占領終了は国内外に大きな衝撃を与え、帝国崩壊後の再統合が現実味を帯びます。トルコ側では、翌10日に国旗が公的施設に掲げられ、軍司令部と臨時行政が設置されました。街頭では民族運動の勝利を祝う集会が開かれる一方、緊張下の検束や私的報復も発生し、治安の統制は難題となりました。
9月9日の軍事的掌握自体は短時間で成立しましたが、都市統治の安定化は容易ではありませんでした。港湾には避難民が殺到し、外国艦船は本国民の保護と退避に追われます。風聞と恐怖が連鎖し、商店の閉鎖や物価の急騰が起こりました。直後に起きる大火は、この緊張の極限状況のなかで発生します。
スミルナ大火と難民――9月13〜17日の火災、暴力、人口移動
1922年9月13日から17日にかけて、都市の広域で大火が発生し、居住区や商店街が焼失しました。火元や意図をめぐっては諸説があり、ギリシア人・アルメニア人地区からの出火とする証言、トルコ軍や暴徒の放火を指摘する証言、複数の火点がほぼ同時に生じたとする報告など、立場によって語りが分かれます。いずれにせよ、避難経路が遮断され、港へ押し寄せた人びとが桟橋や船で救助を待つ光景は、多くの外交官・宣教師・記者によって記録されました。火災は、軍事占領の終結と新たな行政権の確立という政治的転換の最中に、住民の生命・財産を直撃した人道的危機となりました。
大火と前後して、ギリシア系住民・アルメニア系住民の大量脱出が進みます。港湾には連合国艦艇・民間船が集まり、女性・子ども・高齢者を優先して乗船させる救出活動が展開されました。他方、市内外では拘束・処刑・私的暴力の発生が伝えられ、宗派・国籍・軍歴によって扱いが分かれた例も多く、統制の困難さが露呈します。ムスリム住民もまた、前線の移動や報復の恐怖、物資不足に苦しみました。
この危機は、のちの人口交換(1923年以降のトルコとギリシアの強制的な相互移住)の予兆でした。イズミル回復と大火は、混住都市の終焉を象徴し、民族的に均質な国民国家へ向かう暴力的な節目として記憶されます。
国際交渉と帰結――ムダニヤ休戦、ローザンヌ条約、人口交換
イズミル回復の直後、トルコ側は海峡地域と東トラキアの非軍事化・引き渡しを含む停戦を求め、連合国との交渉に入りました。1922年10月11日、ムダニヤ休戦協定が締結され、西線の戦闘は停止します。これにより、連合国はギリシア軍の東トラキア撤退を認め、アナトリアでのトルコ主権回復が現実化しました。続く本格講和の場が、1922年末から1923年半ばにかけてのローザンヌ会議です。
1923年7月24日に調印されたローザンヌ条約は、トルコ共和国の国境(エーゲ海諸島・東部国境など)と主権を国際的に承認し、 capitulations(治外法権)など旧来の不平等条項を撤廃しました。これと並行して取り決められたのが、トルコとギリシア間の人口交換(1923年のローザンヌ条約付属の公約)で、宗教を基準にギリシア正教徒の大多数(イスタンブル居住者など一部例外を除く)とトルコ在住ムスリムの多く(西トラキア居住者など一部例外を除く)が強制的に移住させられました。イズミル回復後に発生した大量避難は、この制度化された移住の先駆け・触媒となり、両国の社会構成と都市文化を大きく変えました。
政治制度上は、アンカラに拠点を置く大国民議会が1922年にスルタン制を廃止し、1923年10月13日にアンカラを正式な首都と定め、同年10月29日にトルコ共和国の樹立を宣言します。イズミル回復は、帝国の終焉と共和国の成立をつなぐ象徴的な橋渡しとして機能しました。
記憶と評価――解放と災厄の二重の語り、都市の再編と現在
トルコの記憶文化では、9月9日は毎年「イズミル解放の日」として祝われ、凱旋の場面や国旗掲揚、ムスタファ・ケマルの檄が繰り返し再現されます。都市空間でも、記念碑や通り名、博物館展示が解放の物語を可視化します。他方、ギリシア社会では、イズミル回復と大火、そしてその後の人口交換は「小アジアの大災厄」と総称され、故郷喪失と難民の受け入れが国家アイデンティティの重要な層を形作りました。難民子孫のコミュニティは音楽・食文化・方言などの文化要素を伝え、ギリシア都市の社会構造に長期的影響を与えています。
歴史研究では、軍事史・外交史だけでなく、都市社会史・人道史の視点からの再検討が進み、スミルナ大火の原因、各共同体の行動、外国勢力の役割、報道のバイアスなどが比較検証されています。加害・被害の線引きは単純ではなく、占領期から戦争末期に至るまでの暴力の連鎖と恐怖の記憶が、相互にエスカレートを生んだことが指摘されます。こうした検討は、ナショナルな記憶に閉じず、複数の立場を重ねて理解するための枠組みを提供します。
イズミルは回復後、再建と再編を経て、共和期トルコの重要な工業・商業都市として成長しました。港湾の近代化、繊維などの軽工業、見本市・観光の整備は、都市経済の再生を支えます。他方、戦前の多民族的な都市文化は大きく変容し、宗教・言語の多様性は縮減しました。近年は歴史地区の保存と再開発をめぐる議論が続き、火災で失われた街区の記憶をどのように継承するかが課題となっています。
総じて「イズミル回復」は、勝利の瞬間と人道の危機が併存する、20世紀初頭の国民国家形成の縮図でした。軍事・外交の成功が、同時に人口移動と都市文化の断絶を伴ったこと、そしてその記憶が現在の政治・社会にまで影を落としていることを理解することが大切です。できごとは一日で終わっても、その余波は世代を越えて続いているのです。

