「ウォード」とは、一般に太平天国の乱の最末期に上海・寧波周辺で活躍した米国人傭兵指揮官フレデリック・タウンゼント・ウォード(Frederick Townsend Ward, 1831–1862)を指します。彼は中国人兵と外国人将校を組み合わせた近代式常備部隊を私募し、「常勝軍(Ever Victorious Army)」の原型を作って清朝側の反攻を後押ししました。太平天国と列強の思惑が錯綜する条約港世界で、ウォードの部隊は西式装備・規律・小部隊運用を導入し、やがてゴードンに引き継がれて蘇州・常州方面の攻略に貢献します。ウォード自身は1862年に戦死しますが、彼の手法は李鴻章の淮軍や洋務運動の軍事近代化と共鳴し、列強と清朝、商人資本と地方官僚、私兵と官軍が混ざり合う「近代中国の戦争の実験室」を象徴する存在として記憶されています。本稿では、ウォードの出自と上海着眼、常勝軍の編成と戦術、列強・清朝・商人の利害、死とその後の継承という流れで、用語の背景と意味をわかりやすく解説します。
出自と上海到着――海の民から傭兵指揮官へ
ウォードは米国マサチューセッツの海運都市セーラム近郊に生まれ、若くして航海・海事の実地経験を積んだ人物です。中南米や太平洋を転々とし、傭船や船員募集、時に小規模な軍事行動に関わる中で、迅速な判断と現地適応力を身につけました。1850年代末、中国沿岸の条約港が開かれると、上海は交易と金融の新たな中心として急成長し、同時に治安と安全保障の不安を抱えます。太平天国の勢力や土匪、小刀会などの武装集団が長江下流域で活動し、都市の周辺農村は略奪と徴発にさらされました。
こうした混乱は、条約港の外国人居留地と中国人商人にとって死活問題でした。列強は基本的には「厳格中立」を掲げつつも、租界と商権の防衛のために限られた自衛措置を講じます。上海の有力商人・買弁・外国商社は私的な防衛隊の組織に資金を出し、地方官僚も都市防衛の即効薬を求めていました。ここに、海の民としての実務感覚と冒険心を備えたウォードが接続し、のちに「常勝軍」と呼ばれる混成部隊の私募へと踏み出します。
常勝軍の編成と戦術――私募・商資本・西式訓練の三位一体
ウォードの発想は単純で実務的でした。すなわち、現地の農民・船頭・町人から志願兵を募り、給与の安定支給と家族への保障で兵の定着を図り、少数の欧米人下士官・教官を混ぜて西式の分隊・中隊単位の訓練を施すことです。装備はミニエー銃や近代的火砲などの最新兵器を可能な限り整え、火力と小隊行動で太平天国軍の密集突撃や城攻めの定型を崩すことを狙いました。訓練では、射撃精度、隊列転換、塹壕・胸壁の即席構築、夜営の規律、斥候・先遣の運用を徹底し、同時に兵站を軽量化して素早い機動を可能としました。
資金面では、上海の中国人・外国人商人の出資と、地方官(とくに蘇松太道・江蘇巡撫の系統)からの支給が組み合わさりました。ウォードは契約に基づく「請負軍事業者」として、都市・運河・倉庫・市鎮の防衛や奪回を請け負い、成功報酬や軍需の調達で収支を回しました。ここには、官軍と私兵、国家と市場が交錯する条約港特有の軍事経済が見えます。彼の部隊は制服・軍楽・旗章を整え、士気と一体感の演出にも気を配りました。
戦術の中核は、迅速な偵察と火力集中、そして局地での「縦深」を作ることでした。砲兵と歩兵の同期を重視し、敵が城外に展開する前に斜行で翼を叩く、土手と水路を利用して死角から接近する、といった柔らかな運用を実地で磨きました。上海周辺は水郷が多く、堤防と運河・水門の制圧が生命線です。ウォードは小型蒸気船や武装ジャンクを使った河運・沿岸機動も取り入れ、内陸の市鎮急襲と補給線遮断で相手の士気を崩しました。こうした「水陸一体」の小戦術は、のちのゴードン指揮下でも踏襲されます。
列強・清朝・商人の利害――中立と介入のあいだ
ウォードの活動は、常に微妙な国際政治の上に立っていました。列強外交は原則として内戦不介入でしたが、租界の安全と通商路の確保という限定目的での武力行使は容認される余地がありました。英国・仏国の現地司令官や領事は、清朝官僚の要請や商人団体の圧力を受けつつ、ウォードのような「私募の西式部隊」を半公認の形で見逃し、時に武器供与・教官派遣に黙認的でした。他方、露骨な「太平軍殲滅」を旗印に掲げれば内政干渉の非難を浴び、国際条約の理念に反するため、あくまで租界防衛と治安回復の名目が必要でした。
清朝側では、曾国藩・李鴻章ら地方官僚が湘軍・淮軍を組織して反乱鎮圧の主役に躍り出ますが、長江下流の都市戦では機動力・砲兵・洋式戦法の不足を痛感していました。李鴻章は上海・蘇州方面の作戦でウォードの部隊を活用し、のちにゴードンと密接に協働します。この協働は、洋務運動の「師夷長技以制夷」の具体例となり、軍事技術の輸入と国産化、外国人教官の採用、造船・製鉄・兵工の整備へと思想的な橋をかけました。
商人資本の動きも見逃せません。上海の行商・金融業は、戦乱で物流が止まれば即座に損失を被ります。常勝軍の即応性と「市鎮を一つずつ開けていく」実務は、商人の利害に合致し、軍費の一部を支えました。反面、私募軍の存在は地域権力の多元化を招き、統制・責任の所在を曖昧にもします。ウォードは契約遵守と迅速な実績で信頼をつなぎましたが、後任のバーギヴンでは賃金や規律をめぐる紛糾が噴出し、この仕組みの脆さも露呈しました。
死と継承――1862年の戦死、ゴードンへの引継ぎ、制度化の行方
1862年、寧波・慈溪方面の戦闘でウォードは重傷を負い、まもなく戦死しました。享年31歳前後と若く、指揮官としての名声が頂点に達した矢先の死でした。彼の死後、米人のバーギヴン(Henry A. Burgevine)がいったん指揮を継ぎますが、給与問題や清朝官僚との対立、規律の弛緩で部隊は混乱します。最終的に英軍出身のチャールズ・ジョージ・ゴードンが指揮官に就任し、隊の再編と規律の回復に成功して蘇州攻略などで成果を上げました。これが「常勝軍」という名で広く知られるゆえんです。
ゴードンの下で常勝軍は、李鴻章の淮軍と連携して太平天国の拠点を各個撃破し、1864年の天京(南京)陥落へ至る広域の反攻網の一環を担いました。勝利の後、常勝軍は列強の懸念(外国人傭兵部隊が恒久化することへの警戒)と清朝内部の均衡から解散され、多くの中国人兵は他の部隊へ吸収されます。しかし、彼らが体得した訓練・射撃・兵站の実務、将校団の指揮手法、近代兵器の取り扱いは洋務運動期の軍制改革に「経験知」として残りました。
ウォード個人の評価は二面性を持ちます。一方では、冒険主義的な傭兵・利潤追求の戦争請負人という批判があり、他方では、現地社会に根ざした兵の登用と実務的訓練で都市防衛に具体的成果を出した実務家としての評価があります。彼は戦場にあって自ら前線に立つ気質で、迅速な工兵作業と小規模火力の集中で劇的な戦果を上げることを好みました。規模としては帝国的遠征軍に比べ小さいながら、近代中国の軍事文化に与えたインパクトは小さくありません。
総じて、ウォードは太平天国の乱という巨大内戦の中で、条約港・商人資本・地方官僚・列強の思惑が織りなす空間に生まれた「私募の近代軍事」の体現者でした。彼の名は、常勝軍の創始者としてだけでなく、外部技術の選択的移植と地方自助の連結、そして戦争の民営化が孕む可能性と危うさを示すキーワードとして理解されます。ウォードを学ぶことは、19世紀東アジアの国際秩序の隙間で、誰がどのように暴力と制度を操作したのかを具体的に知ることに直結します。華やかな勝利の陰で、契約と給与、補給と橋梁、運河の水位と銃油、士気と規律といった地味な要素が積み木のように積み上がっていたことを思い返すとき、ウォードという名は、歴史の現場感覚を取り戻させてくれる重要な用語として立ち上がってくるのです。

