コンスタンツ公会議 – 世界史用語集

コンスタンツ公会議(1414年〜1418年)は、西方教会大分裂(大シスマ)を終結させ、教会と政治の秩序を立て直そうとした一大国際会議です。ローマとアヴィニョン、さらにピサ系の「三重教皇」が並立する異常事態のもとで、会議は教皇の正統を整理し、マルティヌス5世を選出して統一を回復しました。同時に、ウィクリフやヤン・フスの教説を異端として断罪し、フス本人(1415年)と盟友エロニムス(1416年)を火刑に処したことでも知られます。さらに「公会議至上」をうたう勅令(ハエク・サンクタ、1415年)と、公会議の定期開催を定めた(フレクウェンス、1417年)を採択し、教皇権と公会議の力関係をめぐる大論争の出発点となりました。結果として、分裂は収束しつつも、改革は中途半端に終わり、百年後の宗教改革に至る社会宗教的緊張を垣間見せる出来事でもあったのです。本稿では、背景と開催の経緯、審議・決定の内容、フス事件の経過と思想的意義、そして成果と限界・長期的影響を、平易な言葉で整理して解説します。

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背景と開催—三重教皇と帝国の調停、四(のち五)つの「国民」

14世紀末から15世紀初頭にかけて、西欧カトリック教会は深刻な分裂に直面していました。アヴィニョンへの教皇廷移転以後、ローマとアヴィニョンの双方で教皇が選出される二重教皇体制が固定化し、1409年のピサ公会議は両者を廃位して新たにアレクサンデル5世を立てましたが、当事者が従わず、逆に三名の「教皇」が並立する事態となりました。宗教的権威の動揺は、司教任命や教会裁治、十字軍勧告、贖宥の実務まで連鎖し、各王国の政治も巻き込みます。

この危機を収拾すべく、神聖ローマ帝国の王(のち皇帝)ジギスムントが主導し、ドイツ南西部の湖畔都市コンスタンツ(ボーデン湖畔)で普遍公会議を開催する運びとなりました。1414年から1418年までの長丁場で、教皇・枢機卿・司教・神学者・法学者に加え、各王国の使節、都市の代表、商人や職人たちまでが集まり、町は巨大な国際舞台へと変貌します。審議は身分別ではなく、natio(国民)と呼ばれる地域ブロック—ドイツ、フランス、イタリア、イングランド—の四つを単位に票決され、のち1417年の教皇選出局面ではイベリア勢力の台頭を反映して「スペイン国民」が加わり五つの「国民」となりました。これにより、一地域の利害で全体が振り回されるのを避け、広域的合意を形成する工夫がなされたのです。

一方、当時「教皇」を名乗っていたのは、ローマ系のグレゴリウス12世、アヴィニョン系のベネディクトゥス13世、そしてピサ系のヨハネス23世でした。会議は、正統性の判定と辞任・廃位の手続を慎重に進め、政治的面倒を抱えた「三者整理」を最大の優先課題としました。

審議と決定—分裂終結、ハエク・サンクタ/フレクウェンス、マルティヌス5世の選出

会期の早い段階で可決されたのが、いわゆる「ハエク・サンクタ(Haec sancta, 1415年)」です。そこでは、公会議が全教会を代表し、救いに関わる事柄においては、教皇をも含む全ての信者に対して権威を持つと宣言しました。これは、分裂を終えるための一時的非常措置としての意味づけもできる一方、後世「公会議主義(コンシリアリズム)」の根拠文として引用され、教皇権と教会の代表制の均衡をめぐる長い議論の原点となります。続く「フレクウェンス(Frequens, 1417年)」は、公会議を定期的に開催する制度を規定し、非常時のみならず常時の教会統治に代議制を組み込もうとする意志を示しました。

分裂終結に向けては、まずローマ系のグレゴリウス12世が、事前合意に従い自発的に退位を表明するという道を開きました。これは会議の正統性を高める巧みな妥結でした。一方、ピサ系のヨハネス23世は会期途中で逃亡を図りましたが、会議は審理のうえ彼を廃位とし、教会法廷での裁断を明確化します。アヴィニョン系のベネディクトゥス13世は頑強に抵抗し、地中海西岸の要塞に籠もって在位を主張し続けましたが、多くの後援者を失って政治的影響力を喪失しました。

こうして前提を整えたうえで、1417年、枢機卿団に各「国民」代表を加えた拡大選挙団が「コンクラーベ(鍵のかかった部屋)」に入り、新教皇マルティヌス5世(本名オッドーネ・コロンナ)を選出しました。これにより、実務上の分裂は収束し、ローマに統一教皇が再建されます。もっとも、選出直後に全ての改革が進んだわけではなく、教皇庁の財政・官職売買・司教任命の透明性など「頭(トップ)と肢体(末端)を同時に改める」総合改革は先送りとなりました。

フス事件と思想的論点—安全通行証、ウィクリフの影響、ボヘミアの反応

コンスタンツ公会議は、ボヘミアの神学者ヤン・フスの裁判と処刑で、後世に強烈な印象を残しました。フスはオックスフォードのウィクリフの教説に影響を受け、教会の腐敗、聖職者の堕落、聖書の権威の回復、信徒への杯(聖餐両形受)の実践などを説いて大学と都市の支持を得ていました。ジギスムントはフスに「安全通行証(セーフコンダクト)」を与えて出頭を促し、公正な審理を約束しました。しかし実際には、フスは到着後ほどなく身柄を拘束され、長期の尋問・審理に付されます。教会当局は、異端の疑いを理由に世俗の安全保障特権が適用されないと主張し、通行証の効力を事実上無効化しました。

公会議は、ウィクリフの教説の多くを異端として改めて断罪し、フスには撤回を迫りました。フスは良心に基づく撤回を拒み、1415年7月、火刑に処されます。翌1416年には、フスの同志エロニムス・プラハも同様に処刑されました。この処置は、ボヘミア社会に激しい反発を引き起こし、のちのフス戦争(フス派の武装抵抗、1419年以降)へと火を点けます。公会議は、信仰統一と秩序維持の観点から異端根絶を優先しましたが、それは同時に、地方社会の宗教的・民族的緊張を増幅する結果も招いたのです。

思想史的には、コンスタンツの裁断は「権威の所在」を問い直す契機となりました。ハエク・サンクタは教皇をも拘束しうる公会議の権威を宣言しましたが、フス裁判では公会議権威が個人の良心に優越する形で行使され、異端認定が政治秩序の維持装置として働きました。ここには、共同体の統一と個人の信仰・言論の自由の緊張が、すでに表れています。また、ウィクリフとフスの系譜は、聖書主義・清貧・教会批判という線で、のちのルターやツヴィングリらの宗教改革の議論に影響し、フス派の礼拝実践(両形受容)はボヘミア・モラヴィアに独自の伝統を築きました。

成果と限界—分裂の終結、公会議主義の行方、長期的影響

最大の成果は、西方教会大分裂の終結でした。三重教皇の混乱を整理し、統一教皇を選出したことで、司教任命・教会裁治・国際関係は一本化され、ヨーロッパの政治外交も安定へ向かう基礎が整いました。また、ハエク・サンクタとフレクウェンスは、教会統治の理論装置として大きな足跡を残し、教皇権に対する制度的な対抗軸が初めて公的文書に刻まれました。大学と法学の発達、都市の台頭、王権の伸長という社会の変化を背景に、「教会も合議と代表制で運営されるべきだ」という発想が、ここで可視化されたのです。

しかし限界も明瞭でした。第一に、構造改革は先送りされ、聖職売買や兼職、年貢・手数料の過重、司牧の空洞化といった日常的な問題は解消しませんでした。第二に、公会議主義は理論上の前進にもかかわらず、実務では教皇庁の巻き返しを受けます。後続のバーゼル公会議(1431–1449)は教皇庁と対立・分裂し、最終的には教皇側が優位を回復、16世紀の第五ラテラノ公会議(1512–1517)で公会議至上の主張は抑え込まれます。第三に、フス事件の処理は、地域社会の宗教的自尊と政治バランスを損ない、暴力的対立の口火となりました。

長期的には、コンスタンツは「統一の回復」と「改革の未完」という二面性を歴史に刻みました。統一された教皇権は、王権との交渉を通じて国民国家の形成過程に影響し、教皇選出手続の制度化、教会法の精緻化などの技術的進歩を促しました。他方、未解決の改革課題は、印刷術と民族語の普及、都市市民の公共圏拡大と相まって、16世紀の宗教改革で爆発する条件を醸成しました。フス派の遺産はボヘミアの宗教妥協(バーゼルの和議による「ブラン条項」=両形受容の容認)へとつながり、地域主義と宗教の関係を考える上での先例となりました。

最後に、公会議が開かれたコンスタンツという場の意味にも触れておきます。国境地帯の交易都市であったこの町は、通商と交通の結節であり、各国の人々が長期滞在できるインフラを持っていました。多言語・多身分が交わる公共空間は、単なる神学論争にとどまらず、国際政治・経済・法・学問の交流の舞台となり、「中世末のグローバル・フォーラム」とも言える様相を呈しました。公会議は宗教だけでなく、ヨーロッパ社会の制度設計と知の生態系の更新に影響を与えたのです。

総括すると、コンスタンツ公会議は、危機に直面した共同体が「合議と手続」によって統一を再建しようとした試みでした。分裂収束、理論的宣言、そして痛ましい異端裁判—その全てが、教会と社会の複雑な力学を映し出します。ここから見えてくるのは、権威と合議、秩序と改革、信仰と良心の緊張が、近代へと続く長い歴史の中で絶えず組み替えられていくという事実です。公会議の成果と陰影を併せて学ぶことは、現在の制度や公共性を考える上でも大きな示唆を与えてくれるはずです。