「韓国併合(かんこくへいごう)」とは、1910年に日本が大韓帝国(当時の公称で「韓国」)を自国領へ編入し、朝鮮半島の主権を消滅させた出来事を指します。形式上は日本と韓国のあいだで結ばれた条約(韓国併合条約)に基づくとされましたが、現実には長年にわたる圧力と支配の累積の上に強行された政治的・軍事的措置でした。1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で外交権が奪われ、1907年の第三次日韓協約で内政への監督が制度化され、軍隊解散と警察・司法・財政の掌握が進んだのち、その延長線上で併合が断行されました。併合は、行政組織の再編(統監府→朝鮮総督府)、土地・税・警察の全面的改造、言論・結社の統制強化を伴い、社会の隅々まで深い影響を与えました。本稿では、併合に至る背景、条約の仕組みと手続の問題、統治体制と社会経済への影響、国際法・歴史認識の論点、そして戦後まで続く記憶の問題を、できるだけ分かりやすく整理して解説します。
背景と経緯―保護国化から直接統治へ
韓国併合は突発的な出来事ではありません。19世紀末の東アジアは「勢力圏」の時代で、列強は軍事力と条約を通じて弱体国家の主権を切り崩しました。朝鮮半島では、甲午戦争(日清戦争)後に日本の影響が拡大し、日露戦争(1904–05)のさなかに日韓議定書と第一次日韓協約が結ばれて、日本人顧問の配置と「勧告尊重」が制度化されます。
1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で韓国は外交権を喪失し、京城に統監府が設置されました。統監は各国公使との交渉を掌握し、韓国政府の対外主体性はほぼ失われます。さらに1907年の第三次日韓協約で内政への監督権が拡張され、法令の事前承認、官吏人事への同意権、警察制度の直接指揮、そして韓国軍隊の解散が実施されました。この過程で義兵運動が全国的に高まり、検挙・討伐が繰り返されます。
1909年、初代統監の伊藤博文がハルビンで暗殺されると、政策は一段と強圧化し、翌1910年、韓国併合条約の締結・公布によって保護国体制は名実ともに終わり、直接統治へと移行しました。併合は、日本国内では「合意に基づく平和的手続」と装われましたが、韓国側では皇帝の実質的な自由意思や民意の反映を欠き、戒厳的状況の下で進められたという点が強く問題視されています。
併合条約の内容と手続―法の言葉と現実の乖離
1910年8月の韓国併合条約(日本側は勅令で公布)は、概略として次の点を定めました。第一に、韓国皇帝が韓国に関する一切の統治権を日本天皇に譲与すること。第二に、日本が朝鮮半島の統治権を包括的に行使し、韓国の臣民は日本の臣民に編入されること。第三に、これに伴い既存の条約や機関を改編することです。条文は簡潔で、実務上の細目は後続の法令(朝鮮総督府官制、諸令達)で整備されました。
しかし、手続には重大な問題が横たわります。乙巳条約以来続く威圧の下で、韓国側の「同意の自由」は著しく制約されていました。併合条約の署名は、憲兵・軍隊に囲まれた戒厳的空間で、反対派を排除して進められたと伝えられます。皇帝の譲与という形式はとられたものの、外交権喪失後の国家首長に真正な条約締結能力がどこまで認められるのか、批准・公布のプロセスが国内法・国際法の要件を満たしていたかは、今日まで続く法学上の論点です。
国際環境も併合を後押ししました。日露戦争後、米英露など列強は、日本の韓国における優越的地位を事実上承認・黙認しており、韓国側が国際司法の場で救済を得る見通しはほとんどありませんでした。1907年のハーグ密使事件で韓国が訴えた際も、会議は代表権自体を認めませんでした。こうして、法の形式と力の政治が交差する地点で、併合は「合法」の外観をまとわされながら実施されたのです。
統治体制の再編―統監府から朝鮮総督府へ
併合とともに統監府は廃され、朝鮮総督府が発足しました。総督には大将級の現役軍人が任命され(制度上、親任官・陸海軍現役に限定)、立法(府令・布告)、行政、人事、警察、財政、司法の広範な権限を集中して握りました。議会や自治機構は置かれず、中央から地方末端まで官治が貫かれます。
行政・警察では、道・郡・面の区画が整理され、憲兵警察と常備警察が網の目のように配置されました。保安・検束・思想取締の権限は強大で、集会・結社・言論の自由は厳しく制限されます。官吏登用は日本人が上位を占め、朝鮮人は下級職に限定されがちでした。警察学校や教育制度は拡充されたものの、運用は統制と同化の方向に偏りました。
司法では、裁判所組織が再編され、法典編纂と手続の近代化が進められましたが、政治犯・治安事件では行政警察の裁量が大きく、法の独立は限定的でした。監獄や特別高等警察の運用は、社会の抑圧構造と直結しました。
財政・経済では、総督府が予算と税制を握り、関税・専売・鉄道・通信など基幹部門を統制しました。土地制度の改編(1910年代の土地調査事業)は、登記・測量を通じて所有権を一本化し、形式上の「近代化」をもたらしましたが、慣習的権利の切り捨てや小作化の固定化を招き、多くの農民にとっては負担と没落の要因となりました。鉄道・港湾・電力の整備は産業化の基盤をつくる一方、資源と利潤配分は日本側の戦略と企業に有利に設計されました。
教育・文化では、学校網の整備と識字率の上昇という側面がある一方、国語(日本語)の強制・歴史教育の歪曲・宗教や結社への監督など、文化的同化が進められました。新聞・出版には検閲が課され、反体制的表現は繰り返し弾圧されます。
社会経済への影響と抵抗―都市化・産業化・農村の変容、独立運動の高揚
併合後、都市や鉱工業は一定の成長を示しました。鉄道網の拡充、鉱山開発、軽工業から重工業への展開、港湾インフラの整備は、雇用と人口の都市集中を促進しました。銀行・企業・商社が進出し、市場経済の浸透は加速します。しかし、産業構造の中核は日本本土の補完として位置づけられ、賃金・地位・資本アクセスの面で朝鮮人と日本人の間に大きな格差が固定化されました。
農村では、土地調査事業の影響が深刻でした。所有権の確定は大土地所有の形成や外部資本の進出を容易にし、小作料負担が高止まりして農民の生活は圧迫されます。税負担や市場変動に脆弱な層は流出し、国内外への移住(満洲・日本本土等)を選ぶ人びとも増えました。農業技術の改良・用水事業・品種導入など、近代的施策が一定の収量増をもたらした側面はあるものの、利益配分の不均衡は構造的に解消されませんでした。
抑圧に対する抵抗は継続的に続きます。1919年の三・一独立運動は、その最大の噴出でした。各地で独立宣言とデモが行われ、総督府は武力で鎮圧しましたが、この事件は国際社会に韓国の独立要求を可視化させ、総督府は「文化政治」と呼ばれる外観の緩和策へと舵を切ります。以後も、地下結社・宗教団体・労働運動・学生運動・農民運動・文化運動が複合的に展開し、思想統制と弾圧はそれに追随して強化されました。
国際法・歴史認識の論点―適法性、同意の自由、記憶の政治
韓国併合の適法性をめぐっては、以下の論点が重要です。第一に、条約締結の主体・代表権限です。外交権を喪失した状態の韓国政府に、主権移転条約を締結する能力を認めるかという問題があります。第二に、同意の自由です。軍事・警察による威圧、反対派の排除が常態化した状況で、自由意思に基づく合意といえるかが問われます。第三に、手続の適法性です。批准・公布の国内法的要件、国際慣習法上の正統性が満たされたかという問題です。
当時の列強は力の均衡を優先し、併合に異議を唱えることはほとんどありませんでした。そのため、国際司法の場での争いは生じませんでしたが、戦後の国際法(自決・植民地の非合法化の原則)の観点では、植民地化と同化を伴う併合は正当化しがたいとされます。韓国では解放後、条約無効論が強く主張され、被害・抵抗の記憶は国家形成と歴史教育の中核となりました。日本でも、1990年代以降、反省と謝罪の表明が政府・議会・市民社会のレベルで示され、歴史認識をめぐる対話と軋轢が続いています。
記憶の政治という観点では、併合期の経験は現在の外交・社会意識にまで影響を及ぼしています。追悼・記念・教科書・文化財返還・人権問題など、多くの論点が交差し、歴史研究と市民対話の継続が不可欠です。
併合をどう捉えるか―制度と経験の二重の視点
総じて韓国併合は、条約文言という制度の表層と、人びとの生活に刻まれた経験という深層を併せて見る必要があります。制度面では、総督府の集権、法令・警察・財政の再設計、土地と資源の再配分が行われました。経験の側面では、抑圧と抵抗、移動と適応、文化とアイデンティティの変容が折り重なりました。成長やインフラ整備の一部の成果があったとしても、それが主権喪失・自由の制約・格差の固定化と不可分であったことを忘れてはなりません。併合という語の柔らかな響きの裏側で、何が起き、何が失われ、何が今も影を落としているのか――具体的な制度と当事者の声を往復しながら捉えることが、歴史を学ぶ上での要点となります。

