荘園(中国) – 世界史用語集

「荘園(しょうえん)」という言葉は、日本史でもよく登場しますが、中国でも唐代以降の土地制度や農村社会を語るときに重要な用語です。ここでいう「荘園(中国)」とは、本来は国家が農民に割り当てるはずだった土地や、公的な屯田・皇帝直轄地などが次第に崩れ、皇族・貴族・地方豪族・寺院・官僚・富商などが私的に所有・支配するようになった大規模な農地・農場を指します。名目上はさまざまな呼び名(荘・園・莊田・広田・義荘・寺荘など)がありますが、まとめて「荘園」と呼ぶことで、「支配者層が自前の経済基盤として持つ私的な大土地所有」という性格を押さえることができます。

中国の荘園は、隋・唐期に整備された均田制などの公的土地制度がゆらぎ始める中で、皇族・官僚・寺院などが合法・半合法・違法な形で土地を囲い込み、租税や労役を免れた私有地として拡大していったものです。唐末の混乱や五代十国時代を経て、宋代には地方の大土地所有者(士大夫・豪族)が多数の小作農・雇用農民を従える荘園を経営するようになり、国家財政や農民生活に大きな影響を与えました。これに対して、宋代の改革派は荘園による土地集中を問題視し、税制改革や土地処分に乗り出しますが、完全に解消することはできませんでした。

この解説では、まず隋・唐期の均田制と荘園の萌芽を整理し、次に唐末・五代から宋代にかけて荘園がどのように拡大し、どのような経営形態・社会的性格を持ったのかを説明します。そのうえで、国家による規制や改革(特に宋代の富弼・王安石らの政策)を取り上げ、さらに元・明以降の大土地所有とのつながり、そして日本の荘園との共通点・相違点にも軽く触れます。概要だけでも、「中国の荘園=唐末〜宋代を中心に、支配層が形成した私的大土地所有の形態」とイメージできるようにしつつ、詳しい内容は各見出しで理解できるようにしていきます。

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均田制の動揺と荘園の萌芽

中国の荘園を理解するには、まず隋・唐期に整えられた「均田制」との関係を押さえる必要があります。均田制とは、国家が土地の基本的な所有権を握り、戸籍にもとづいて農民(良民)に一定の口分田・永業田を分配し、代わりに租税と兵役・労役を負担させるという制度です。これは、北魏の均田制に始まり、隋・唐で整備され、律令体制の経済的基盤となりました。均田制がしっかり機能しているうちは、大規模な私有荘園は原則として抑えられていたと考えられます。

しかし、唐代の中頃から、均田制は徐々に崩れ始めます。人口増加や戦乱、官僚・豪族による土地の買収・兼併、戸籍の逃れ(逃戸・浮浪)などが重なり、国家がすべての土地と農民を細かく把握・再分配することが難しくなっていきました。特に安史の乱(8世紀後半)以後、中央政府の支配力が弱まり、節度使など地方軍閥の力が強まる中で、土地制度の統制は大きく揺らぎます。

このような状況で、皇族・貴族・地方豪族・寺院・道観などが、租税免除や特権的な保護を背景に、周辺の農地を買い集めたり、荒地を開墾したりして、自前の大土地を形成していきました。この私的な大土地所有は、唐代の法制上は必ずしも全面的に公認されていたわけではなく、「永業田としての所有」「開墾地の私有」「特権的な恩賜地」など、さまざまな形態が入り混じっていましたが、実質的には「国家の直接課税や再分配の枠外にある土地」として機能し始めます。これが、後に「荘園」と呼ばれるようになる大土地所有の萌芽でした。

唐後期には、こうした私的大土地所有を指す言葉として「荘」「園」「義荘」などの用語が現れます。「義荘」は、法律上は慈善目的の土地(貧民救済・先祖供養)として税の軽減や免除を認められた土地ですが、実際には名目を利用して豪族・寺院が利益を得る手段となることもありました。国家はたびたび土地兼併禁止令や荘宅整理令などを出して制限しようとしますが、地方の実情や支配層の抵抗もあり、完全には抑えきれませんでした。

唐末・五代〜宋代の荘園の発展

唐末の混乱と五代十国時代を経て、10〜11世紀に入ると、中国は宋王朝のもとで再統一されますが、この頃にはすでに均田制は実質的に崩壊しており、土地制度の中心は課税対象としての「課税田」の把握へと移っていました。国家が戸籍と土地台帳にもとづいて税を徴収する一方で、実際の土地所有は、皇室・貴族・官僚・寺院・地方豪族・富商などの大土地所有と、無数の自作農・小作農の組み合わせという姿をとるようになります。

宋代の荘園は、この大土地所有の典型的な形です。宋代には、「荘」「田荘」「荘田」「園戸」などさまざまな呼称が用いられ、所有者は皇帝一族(内蔵の荘園)、高級官僚や士大夫、地方豪族、仏教寺院、道教の道観など多岐にわたりました。彼らは、自らが所有すると主張する土地に農民を住まわせ、小作料や賦役を課すことで収入を得ました。

荘園で働く農民には、大きく分けて二つのタイプがあります。一つは、土地の一部を貸し与えられ、収穫の一定割合や一定量を小作料として荘園主に納める「佃戸(でんこ)」と呼ばれる小作農です。もう一つは、荘園主に雇われて賃金や口分の食糧を受け取りつつ、耕作・収穫・運搬に従事する雇用労働者的な人びとです。実際には両者の境界は必ずしも明確ではなく、家族構成や季節によって働き方が変わる場合もありました。

宋代の特徴として、商業や貨幣経済の発展に伴い、荘園と市場との結びつきが強くなった点が挙げられます。従来の自給的な農業だけでなく、茶・綿・桑・薬草などの商品作物を栽培したり、都市に近い荘園では野菜や果物を供給したりする例も増えました。荘園主は、都市での官僚生活や文化的活動を支える経済基盤として荘園収入を利用し、また一部の富商は荘園経営を投資対象として拡大しました。

一方で、荘園の拡大は農民層の分解を促し、自作地を失った農民が佃戸や雇用労働者に転落する要因となりました。国家から見れば、荘園の土地や農民が公的な課税体系から外れ、荘園主に保護・支配されることで、税収の減少や兵役回避(荘園主の被保護者として軍役を逃れる)を招く問題もありました。このため、宋代を通じて、荘園の拡大は社会問題・財政問題として繰り返し議論されることになります。

国家の規制と改革――宋代の荘園対策

宋代の政府は、荘園による土地集中と税収減を重大な問題と認識し、さまざまな対策を試みました。北宋中期の欧陽脩(おうようしゅう)や富弼(ふひつ)などの官僚は、財政再建の一環として「公田の回復」や「免役法」の導入を提案し、荘園主が免れている負担を是正しようとしました。免役法は、労役の代わりに金銭を納めさせて兵や役夫の費用を賄う制度で、荘園主や富裕層にも応分の負担を求める性格を持っていました。

北宋後期の王安石(おうあんせき)による新法(新法改革)も、荘園や大土地所有に対する対策を含んでいました。王安石は、青苗法・均輸法・市易法などを通じて、農民や中小商人に対する国家の金融支援と物資調整を強め、大商人・大土地所有者による搾取を抑えようとしました。また、保甲法・募役法などの軍事・労役制度の改革によって、従来荘園主の庇護下で軍役を逃れていた層にも、一定の負担を課すことを試みました。

しかし、これらの改革は、荘園主である士大夫層の利害に直接触れるものであったため、激しい反発を招きます。王安石の新法は、一時期は強力に推進されたものの、後には旧法党と新法党の対立が深まり、政治的混乱の中で部分的に撤回・修正されました。結果として、荘園そのものを全面的に解体することはできず、規模の縮小や税制の調整にとどまった面が強いと言えます。

南宋期には、北方の金・元との戦争や財政難が続き、政府はますます富裕層の財力に依存せざるをえなくなりました。これにより、荘園主は軍事費や赈済に協力する見返りとして自らの地位や特権を維持し、荘園は形を変えながらも存続します。国家と荘園主との関係は、「抑制と依存」が混ざり合った複雑なものとなりました。

元・明以降の大土地所有と荘園

元代になると、モンゴル支配層や色目人官僚、寺院などによる大土地所有が拡大し、土地は「荘園」と呼ばれることもあれば、「営田」「牧地」など別の形で管理されることもありました。元代の土地制度は、征服王朝としての性格が強く、モンゴル貴族や軍団への分封・恩賜地が重要な役割を担いましたが、その実態はやはり「大土地所有と農民支配」の一形態とみなせます。

明朝の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)は、元末の混乱と土地兼併を反省して、「ほどよい自作農」を理想とする政策を打ち出し、大土地所有や荘園の解体を目指しました。洪武帝は大規模な土地調査(魚鱗図冊)を行い、豪族や寺院が不法に占有していた土地を没収したり、皇帝直轄地(皇庄)として再編したりしました。また、豪族の私兵を禁止し、郷里の自治・治安維持を里甲制を通じて国家が掌握しようとしました。

しかし、明代を通じて、経済の発展と貨幣経済の浸透が進むにつれて、再び大土地所有の傾向が強まります。特に中後期には、官僚や富商が大量の土地を買収し、小作農を使って荘園的な経営を行う例が増えました。形式上の名称は荘園に限らず、多種多様ですが、「大土地所有者が小作農を支配する」という構造は、唐末〜宋代の荘園と共通しています。

清代にもこの傾向は続き、地域によっては大土地所有と小作農の関係が支配的な農村構造となりました。したがって、厳密な意味での「荘園」という語が使われるのは主に唐末〜宋代についてですが、中国史全体を通じてみれば、「国家の公的土地制度が揺らぐと、支配層による私的大土地所有(広義の荘園)が拡大しやすい」というパターンが繰り返し現れていると言えます。

日本の荘園との比較と世界史の中の位置づけ

最後に、日本史で学ぶ「荘園」と、中国の荘園との共通点と相違点を簡単に整理しておきます。共通点としては、どちらも「本来は公的な土地・年貢体系が崩れ、貴族・武士・寺社などの支配層が私的な大土地所有を形成し、その上で農民が耕作する」という構造を持つ点が挙げられます。また、荘園の存在が、中央政府の税収低下と軍事力・支配力の弱体化を招いたり、逆に地方の有力者が独自の権力基盤を築く土台となったりした点も似ています。

一方で、相違点としては、中国では律令制の均田制が比較的短期間で崩れた後も、強力な官僚制と科挙を通じた中央集権体制が維持され、荘園主の多くが国家官僚でもあったことが重要です。つまり、支配層が「地方の領主」と「中央官僚」という二重の顔を持ちながら荘園を所有していたため、中国の荘園は、日本のように「中央権力と地方領主の分裂・対立」がそのまま封建制度へと移行する構造にはなりませんでした。

また、日本の荘園は「不輸不入権(ふゆふにゅうけん)」によって公的課税や官人の立ち入りが免除され、「領主層の独立性」が強い形で発達しましたが、中国の荘園は、形式上は依然として国家の課税体系や法律の枠内にあり、完全な治外法権ではありませんでした。もちろん、実際には地元官僚と豪族が癒着し、荘園が半ば独立的にふるまうこともありましたが、制度上は「国家=皇帝権」が常に最終的な正統性を主張していました。

世界史の中で「荘園(中国)」という用語に出会ったときには、唐末〜宋代を中心に、均田制の崩壊とともに広がった支配層の大土地所有の形態であり、農民層の分解・国家財政の変化・地方権力の台頭といったテーマと密接に関わる概念だと理解しておくとよいです。そのうえで、日本の荘園やヨーロッパの封建的荘園(マナ―)と比較しながら、「土地と権力」の関係が地域ごとにどのように異なっていたのかを見ると、各文明の政治・社会構造の特徴がよりはっきりと浮かび上がってきます。