ヴォルムス帝国議会 – 世界史用語集

「ヴォルムス帝国議会」とは、神聖ローマ帝国の都市ヴォルムスで開かれた帝国等族(皇帝・諸侯・司教・都市代表など)の公式会合を指す総称です。とくに歴史教科書で頻出するのは二つで、第一が1495年、マクシミリアン1世の下で帝国改革(永久平和令・帝国最高法院の創設・共同税制の導入など)を決めた議会、第二が1521年、若き皇帝カール5世の下でマルティン・ルターが召喚・弁明され、のちに「ヴォルムス勅令」で宗教改革のゆくえに決定的影響を与えた議会です。前者は帝国という多元国家の「ルール作り」を前進させ、後者は信仰と権力の関係をめぐる「境界線」を可視化しました。いずれも、単なる一都市の出来事ではなく、法、宗教、政治、情報が絡み合う中世末〜近世初頭のヨーロッパの縮図でした。本稿では、1495年と1521年の二つを中心に、背景・参加者・決定内容・影響・誤解されがちな点を整理して、要点が概要だけでも理解できるよう丁寧に解説します。

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帝国議会とは何か——構成・権限・開会都市としてのヴォルムス

神聖ローマ帝国の「帝国議会(ライヒスターク)」は、皇帝が召集し、諸侯・聖界領主・自由帝国都市の代表(帝国等族)が出席して協議・決定する場でした。立法・課税・軍役動員・帝国裁判所の整備・対外政策などが議題となり、決定は「結語(レゾリューション)」として文書化され、帝国全体の規範として流通しました。ヴォルムスはライン中流域の交通要衝・司教座都市として、皇帝の行幸・会議開催の舞台に選ばれやすく、宿泊・儀礼・記録のインフラを備えていました。会場は一般に司教宮殿や市庁舎などで、大聖堂そのものではない点に注意が必要です。

議会は現代の常設議会と違い、皇帝の政治課題や欧州情勢に応じて不定期に開かれ、場所も変わりました。したがって、同じ都市名でも複数回の「ヴォルムス帝国議会」が存在します。本稿は、改革の基礎構築を行った1495年と、宗教改革の劇的な場面を生んだ1521年に焦点を当てます。

1495年のヴォルムス帝国議会——帝国改革の三本柱

背景には、皇帝権の限界と領邦の自立、紛争の頻発、財政・軍事の手当てという慢性的な課題がありました。マクシミリアン1世はイタリア政策や対フランス関係のための資金・兵力を求め、諸侯・都市側は内部秩序の安定化と公正な裁判制度を要求しました。この相互依存のもとで、1495年のヴォルムスではいわゆる「帝国改革(ライヒスレーフォルム)」が合意されます。

第一の柱は「永久平和令(Ewiger Landfriede)」です。これは私闘(領邦間・諸侯間の武力紛争)を全面的に禁じ、紛争は法廷・仲裁で解決せよ、と定める画期的な規範でした。中世以来の「平和令」は期間限定が普通でしたが、ここでは恒久化され、暴力から法への移行が帝国レベルで宣言されました。もちろん現実には違反や抜け道も多く、直ちに戦が消えたわけではありませんが、理念としての「武力の私用の違法化」は、その後の秩序形成に長い影響を与えます。

第二の柱は「帝国最高法院(Reichskammergericht)」の常設化です。この法廷は、皇帝個人の審判権に依存しない帝国司法の中枢として設計され、陪席する判事は領邦や都市からの選出・推薦を含む構成をとりました。土地紛争や身分・領主権に関する訴訟、永久平和令違反の訴追などを扱い、帝国内部の法秩序を担う存在となります。のちに皇帝直属の評議会法廷(Reichshofrat)と機能分担・競合もしつつ、複線的司法体制が整えられました。

第三の柱は「共同税(Gemeiner Pfennig)」の導入です。帝国全体で均一な課税を行い、軍費・行政費の財源を確保しようとする試みで、人口や財産に基づく賦課が構想されました。徴税の実施は容易ではなく、地域差・免税特権・徴収コストの問題に悩まされましたが、「帝国レベルの恒常収入」という考え方は、後の課税・賦課決定手続の礎となりました。

この三本柱は、皇帝の求心力と領邦の自律、都市の利害を「制度」で接続する装置として構想されました。ヴォルムスでの合意は、帝国を単なる称号の共同体から、緩やかながらも法と裁判と財政で結びつく「規範共同体」へ近づける大きな一歩だったのです。

1521年のヴォルムス帝国議会——ルター召喚・弁明・勅令

一転して16世紀初頭の情勢。1517年の「九十五箇条」で火がついた免償状批判は、教会改革を求める各地の不満と結びつき、ドイツ語圏の出版・説教ネットワークを通じて急速に広まりました。ローマ教皇庁は異端審問手続きを進め、1520年にはルターの著作の破棄を命じる教書を公布します。これに対し、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公など領邦君主の一部は、拙速な処断を避けるべく、帝国の公式の場での審理・弁明を望みました。新帝カール5世(即位1519)は、スペイン・ブルゴーニュ・イタリア・神聖ローマと多重の領域を抱える中、帝国の結束維持と対外(フランス・オスマン)対処を優先し、議会をヴォルムスに召集します。

ルターは1521年4月、身の安全の保障(通行証)を得てヴォルムスに到着します。審問の場は司教宮殿で、皇帝と諸侯、都市代表、教皇使節が見守る中、ルターの著作の撤回が求められました。初日は時間を求め、翌日の答弁で彼は、おおむね次の骨子を述べます。すなわち(1)自著は聖書解釈・信仰・教会腐敗の批判など性格が異なる部分を含む、(2)聖書と明証な理性によって誤りが示されない限り撤回はできない、(3)良心は神の言葉に囚われており、良心に反することは安全でも正しくもない、という内容です。伝えられる名句「ここに私は立つ(Hier stehe ich)」は、後世の修辞が混じる可能性が指摘されますが、趣旨はこの答弁に尽きます。

審理は直ちに結論を出さず、政治的駆け引きが続きました。会期の後半、皇帝はカトリック諸侯と歩調を合わせ、ルターの捜索・著作の禁止・援助の禁圧を命じる「ヴォルムス勅令(Edict of Worms)」を公布します(1521年5月)。これは帝国法上の追放宣言であり、彼を匿う者・著作を印刷・頒布する者にも罰を科すものでした。他方、ザクセン選帝侯は直後にルターを「保護」目的でヴァルトブルク城に匿い、そこでルターは新約聖書のドイツ語訳に着手します。勅令は帝国全域で一様に執行されたわけではなく、地域の政治力学・宗教状況によって運用に差が生じました。

1521年のヴォルムス議会は、宗教改革を国家・法秩序の問題として可視化した転機でした。皇帝は帝国の単一性を守ろうとし、諸侯は領邦教会化の萌芽を育て、市民・印刷業者・大学は新しい「言論空間」の担い手となりました。以後、帝国はアウクスブルクの和議(1555年)で「領邦君主の宗教が領邦の宗教(cuius regio, eius religio)」という妥協に至るまで、長い調停と対立を繰り返します。

二つのヴォルムスの意義——法秩序の骨組みと信仰の自由の線引き

1495年の意義は、「暴力の私用を違法化」し、「裁判の場を帝国レベルで常設化」し、「賦課の共通ルール」を芽生えさせたことにあります。これは、国家の集権化とは異なる、合議制と多元主義に基づく秩序づくりでした。帝国は多くの失敗と遅延を抱えましたが、だからこそ暴力を法に置き換える理念は重要でした。

1521年の意義は、信仰・良心・聖書解釈をめぐる論争を、権力の強制だけで整理できないことを帝国の公式舞台で露わにした点にあります。勅令は厳格でしたが、実施の不均一性は「領邦—皇帝—教皇—市民」という多主体社会の現実を示し、のちの宗教的多元主義への通路にもなりました。ルターの弁明は近代的良心論の原点の一つとして記憶されますが、それは個人のヒロイズムのみならず、印刷術・大学・諸侯保護の相互作用に支えられていました。

よくある誤解と補足——会場・名言・即時の影響

第一に、会場について。ヴォルムスの象徴である大聖堂は宗教・都市の中心ですが、1521年の審問は司教宮殿(司教座の館)で行われました。行列や礼拝が聖堂に関わったことはあり得ますが、議論の場そのものは宮殿や市庁舎が担いました。

第二に、名言「ここに私は立つ」について。伝承は広く流布していますが、最古層の記録では文言が異なる可能性が指摘され、後代の版で加筆・修辞の調整がなされたと考える研究もあります。重要なのは、趣旨(聖書と明証な理性による論駁なしに撤回しない)であり、名句そのものの真偽に拘泥する必要はありません。

第三に、影響の時間差。ヴォルムス勅令が出たからといって、直ちにルター派が地下化したわけではなく、地域によっては保護・容認され、議会・都市参事会・大学が改革派の受け皿となりました。帝国の多層構造が、命令の一枚岩的な執行を妨げたのです。

その後の展開——帝国政治の持久戦と宗教和議への道

1521年以後、帝国議会はニュルンベルク、シュパイアー、アウクスブルクなど各地で断続的に開かれ、宗教問題・対外戦争・税制・司法の課題が交錯しました。1526年・1529年のシュパイアー帝国議会は宗教運用をめぐって対立を先鋭化させ、プロテスタント側の「抗議(プロテスタティオ)」が広く知られる契機となります。1547–48年のアウクスブルク臨時宗教和議を経て、1555年のアウクスブルクの和議は、帝国の多元性を前提にした制度的妥協に到達しました。すなわち、諸侯は自領の宗教(カトリックかアウクスブルク信条派)を選べるが、臣民の移住権が一定程度保障され、聖界の領地には「司教の仮説(Reservatum)」が適用される、という折衷です。

法制度面では、1495年に始動した帝国最高法院は、17〜18世紀まで継続し、土地紛争・身分・商取引に関わる多数の判例・文書を残しました。帝国の統治は遅く重いと嘲られることもありますが、その「遅さ」は諸利害を調整し、暴力を回避するためのコストでもありました。

ヴォルムスという場所の意味——叙任権の妥協から宗教改革へ

ヴォルムスは1122年に叙任権闘争を終結させた「ヴォルムス協約」の地でもあります。そこで確立した「聖職の霊的叙任は教会、世俗権の授与は皇帝」という分担原則は、のちに宗教改革の時代に再検討される「聖俗の境界」の前史でした。1495年の制度改革、1521年の宗教政治の衝突は、いずれもこの長い文脈の中に置くと立体的に見えてきます。大聖堂・司教宮殿・市庁舎が近接する都市空間は、祈り・法・政治が絡み合う中世・近世ドイツの典型的な「舞台装置」だったのです。

総じて、ヴォルムス帝国議会は、法と暴力、信仰と権力、中央と地方、紙の言葉と肉声がせめぎ合う場でした。1495年は帝国を「法が通じる共同体」に近づけ、1521年は「良心が発言する政治」を可視化しました。いずれも、誰かの全面勝利ではなく、妥協・遅延・多元性という帝国の性格をあぶり出す出来事です。ヴォルムスという都市を通してこの二つを学ぶことは、国家を一枚岩と思いがちな現代の私たちに、異なる主体と価値が共存する秩序設計の難しさと可能性を教えてくれます。