海の民 – 世界史用語集

「海の民」とは、紀元前1200年前後の東地中海世界で、エジプトやアナトリア、シリア・パレスチナ沿岸に連続して出現した海陸混成の移動集団を、後世の研究者が総称して呼ぶ便宜的な名称です。エジプトの碑文やレリーフには異国風の甲冑や武器、家族連れの荷車とともに進む一団が描かれ、戦い・移住・略奪・傭兵化などが入り交じった動きとして記録されています。これらの動きは、ヒッタイト帝国の崩壊、ウガリトやミケーネの都市の破壊、キプロスの混乱といった「後期青銅器時代の危機」と時期を同じくし、東地中海の交易網と王権秩序が大きく揺らぐ引き金のひとつになりました。海の民が単一民族ではなく、複数の出自と目的をもつ集団の連合体であったこと、そして気候変動や地震、内乱や財政難といった複合要因と相互作用したことを押さえると、この語の輪郭がつかみやすくなります。以下では、史料と呼称、時代背景と破局の連鎖、諸集団の素性と考古学、余波と再編の四点から、用語「海の民」の中身を丁寧に解説します。

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史料と呼称――誰が、どのように「海の民」を語ったのか

「海の民」は古代語の自称ではなく、近代学術の便宜的名称です。19世紀後半、エジプト新王国時代の碑文・浮彫を研究した学者たちが、ラムセス2世・ラムセス3世の戦勝記録に見える「海から来た諸民族」の表現を手がかりに、複数の集団をまとめて呼び出したのが出発点です。したがって、この語にはすでに研究史の解釈が折り込まれており、史料そのものが語る固有名と、後世の総称のあいだを区別する姿勢が大切です。

一次史料として最も著名なのは、メディネト・ハブ(テーベ西岸)に残るラムセス3世の大建築群の浮彫と碑文です。そこには、船戦と陸戦の場面が克明に描かれ、「ペレセト(Peleset)」「シェルデン(Sherden)」「シェケレシュ(Shekelesh)」「デニェン(Denyen)」「テジェケル(Tjeker)」「ウェシェシュ(Weshesh)」などの名称が列挙されます。彼らは「その島々から来たり」と記されることが多く、地中海の諸島や沿岸から成る複合集団として捉えられました。また、ラムセス2世期には「シェルデン」のような戦士がエジプト王の親衛兵として従軍した痕跡もあり、敵対と雇用が入り交じる柔軟な関係が推測されます。

エジプト以外にも、ウガリト(現在のラス・シャムラ)の書簡群やヒッタイト文書の断簡、アッシリア初期王碑文などが、交易路の寸断や沿岸襲撃の風聞を伝えます。たとえばウガリト末期の王書簡には、海上の脅威に対する救援要請や武器の不足が述べられ、都市の壊滅が近いことを示す切迫した文言が並びます。ただし、これらの史料は勝利の誇張や責任回避の語りを含む可能性が高く、各王権のプロパガンダ性を念頭に置いた読み解きが必要です。要するに「海の民」は同時代の多視点資料に現れる現象であって、単一の主体を指す確定的名称ではないのです。

時代背景と破局の連鎖――後期青銅器のネットワークが崩れた理由

紀元前13世紀の東地中海は、王権どうしの外交・婚姻・贈与、広域交易(青銅原料の銅と錫、贅沢品の象牙・ガラス・染料)、軍事同盟と情報網が縦横に張り巡らされた「つながる世界」でした。ウルブルン沈没船(前14世紀末頃)の積荷が示すように、レバントの港からキプロス・エーゲ海・アナトリア・エジプトへと、原料と製品が行き交い、宮廷は贈与の儀礼で関係を維持していました。このネットワークの持続条件は、(1)航路の安全、(2)余剰生産の確保、(3)王権の財政と軍事力の均衡、の三点に大きく依存していました。

ところが、前13世紀末から前12世紀初頭にかけて、この均衡が次々と崩れます。第一に、気候の揺らぎと旱魃の連鎖が指摘されます。花粉分析・湖底堆積物・氷床コアなどの古気候データは、東地中海で降水の低下が続いた痕跡を示し、農業生産の不安定化が人口移動と飢饉を誘発した可能性があります。第二に、アナトリアからレバントにかけて連発した大地震の痕跡(いわゆる「地震の嵐」仮説)が、城塞と宮殿の倒壊・再建遅延を通じて、軍事・行政の脆弱化を招いた可能性があります。第三に、戦車騎兵に支えられた青銅器時代の戦争様式に、装備の軽い歩兵と海上奇襲を主体とする戦術が対抗して、守備側のコストを押し上げた点です。銅・錫の供給網が乱れれば、武器・装具の維持も困難になります。

さらに、王権の財政難と内乱、地方勢力の離反、移民・難民の流入が重なり、「複合システムの脆弱性」が一挙に露呈しました。海の民は、この臨界状況の中で、(a)危機から逃れて移住を試みる家族・共同体、(b)機会を捉えて交易・海運を掌握しようとする海上勢力、(c)他勢力に雇われた傭兵団、(d)戦利品を求める略奪集団、のいずれか、あるいはその混合として現れたと考えられます。したがって「因果の一本化」は避けるべきで、環境・技術・政治・経済が絡み合う不連続な変化の中で、海の民の活動が増幅効果をもたらした、と捉えるのが妥当です。

諸集団の素性と考古学――ペレセト、シェルデン、デニェン…名前は何を語るか

碑文に現れる固有名は、諸集団の出自推定の重要な手がかりですが、確定的ではありません。たとえば「ペレセト(Peleset)」は、のちに南レバント沿岸に定住した「ペリシテ人(Philistines)」と結びつけられ、五都市(ガザ、アシュケロン、アシュドド、ガト、エクロン)を中心に、エーゲ海系の土器(いわゆる「フィリスティア二色土器」=Mycenaean IIICに続く系譜)や豚骨の出土比率、家屋式(四室家屋以前の移行型)など、文化層の変化が観察されます。料理用具や飲酒具のセット、紡錘車の型式の変化など、生活技術のレベルでもエーゲ海との親縁性が議論されます。

「シェルデン(Sherden)」は、角状の飾りを有する兜で知られ、エジプト王の親衛兵としての従軍記録もあります。地名との比定ではサルデーニャ島(Sardinia)との連関がしばしば提案されますが、語源の近似だけでは弱く、地中海西部と東部の人的往来の複雑さを直視する必要があります。「シェケレシュ(Shekelesh)」はシチリア(Sicel?)との連想が、「デニェン(Denyen)」はギリシア神話の「ダナオイ(Danaoi)」やアナトリアの「アダナ(Cilicia)」との連関が論じられてきました。「テジェケル(Tjeker)」はドル(Dor)方面の沿岸に定住した痕跡が指摘され、「ウェシェシュ(Weshesh)」は出自が不明瞭です。これらの比定はいずれも仮説の域を出ませんが、地中海の東西を横断する移動が珍しくなかったこと、同名が異なる時代・地域で再利用される可能性があることを示唆します。

アナトリアでは、ヒッタイト帝国の中心ハットゥシャが焼失し、周辺の小王国群(ガシュカ、カルケミシュなど)が一時的に主役へと転じます。レバント北部のウガリトは、書簡群の「敵艦来襲」の報告を残して壊滅し、キプロスのエンコミ、カティオ、パライペフコなどは破壊層と再占拠の層が重なります。これらの遺跡では、エーゲ系土器の新規流入、青銅器から鉄器への過渡的利用、城壁・門の再設計など、戦乱後の再編を物質文化が語ります。各地の破壊が同時ではないこと、地域差が大きいことも重要で、海の民=一斉蜂起という単純図式は成り立ちません。

武器・戦術面でも特徴が見られます。浮彫に描かれた海戦では、反りの少ない短剣・槍、丸盾、羽根飾りや角飾りの兜、帆走とオールを兼ねる中小型船が目立ちます。陸戦では、戦車に対して密集歩兵が組織的に対抗する場面が示され、海上奇襲と上陸戦の連携が推測されます。これは、補給線の長い戦車軍にとって負担が大きく、沿岸部の要衝を点で突く戦術として有効でした。エジプト側は河口での防衛線を敷き、船団を網で絡め取り、弓兵の集中射で制圧する対策を講じています。

余波と再編――鉄の時代の幕開けと地域社会の新しい均衡

後期青銅器の危機ののち、東地中海は鉄器時代の諸社会へと再編されます。レバント南部では、イスラエル高地の村落群、沿岸のペリシテ都市連合、内陸のモアブ・アンモン・エドムなど、複数のポリティが並立し、交易路と農牧資源の支配を競います。フィリスティアの物質文化は、初期にはエーゲ系の要素が濃厚ですが、世代を経るごとに土着化し、フェニキアやユダ王国と相互影響を及ぼし合います。アッシリア・バビロニアの拡張期には、これらの小国が朝貢・同盟・反乱の間を揺れ動き、海の民由来の集団も帝国の軍事・労働力に編入されていきました。

地中海全体では、フェニキア人の海上活動が再び活発化し、西方のカルタゴやイベリア沿岸の拠点形成が進みます。キプロスは銅の供給地として重要性を保ちつつ、ギリシア世界は暗黒時代を経てポリス形成と植民運動(アポイキア)へ向かいます。アナトリア西部ではフリュギア、リュディア、そしてギリシア都市が台頭し、新たな貨幣経済と軍事編成が生まれました。こうした「新しい均衡」は、後期青銅器の王権中心・宮廷贈与中心の秩序とは異なり、都市共同体・地方権力・交易者の分散的ネットワークがより大きな役割を果たします。海の民の移動と破壊は、この転換を加速させた一因として位置づけられます。

研究史の面では、20世紀後半から「海の民万能説」への反省が進み、システム論・環境史・技術史の視点が導入されました。干ばつ・冷涼化の気候指標、地震痕跡、農地の塩害、家畜比率や作物スペクトルの変化、交易路の切替、王権の再分配機能の限界など、複数のデータが重ね合わされ、破局の説明はより多層化しました。名称比定の論争も、言語学・歴史地理・考古学の成果を突き合わせる段階にあり、単純な「○○=××人」式の同定は慎重に扱われます。今後も、沿岸の小規模遺跡や難破船の発見、科学分析(DNA・同位体・古気候)の進展が、諸集団の移動と混成の具体像を明らかにしていくと見込まれます。

総じて、「海の民」は一枚岩の敵役でも、万能の破壊者でもありませんでした。東地中海の複雑な危機の只中で、家族単位の避難、武装移住、傭兵化、交易の乗っ取りといった多様な行動をとった複合体であり、王権の弱体化や環境ショックに反応して姿を変える「柔らかな連合」でした。碑文に刻まれた名は、現代の私たちに断片的な証言を残してくれますが、それをどのようにつないで物語にするかは、最新の資料と方法に開かれた課題として残されています。