エフタル – 世界史用語集

エフタル(Hephthalites, 嚈噠〈えつたつ/イエダ〉、通称「白いフン」)は、中央ユーラシアの5~6世紀にかけて興隆した遊牧—オアシス複合の連合政権で、ササン朝イランと北インド、トカラ地(バクトリア)・ガンダーラをまたいで勢力を張った諸部族の総称です。彼らは騎馬と弓を主武器に、カタフラクト風の重装騎兵も用い、コインと称号の模倣を通じて支配の正統性を演出しました。西ではササン朝ペーローズ1世を討ち取り(484年)、カワード1世を一時庇護するほどの影響力を及ぼし、東南ではグプタ朝後期を圧迫して北インドの政治秩序を崩しました。しかし6世紀半ば、突厥(トゥルク)とササン朝ホスロー1世の共同戦役によって連合の中核は瓦解し、トハーリスタンやカブール盆地にはネーザク系など後継的小政権が残るにとどまりました。エフタルを理解するうえでは、(1)出自と名称の混乱(キダリテ/アルチュン/「フン」名称の射程)を整理すること、(2)ササン朝・グプタ朝への軍事的衝撃と従属—共存の位相を押さえること、(3)貨幣・美術・宗教に見える文化的混淆を追うこと、(4)突厥とササン朝の「対エフタル協奏」による終焉とその後の断片化を位置づけることが鍵になります。

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名称・出自・領域――「白いフン」の正体と連合の地理

史料上のエフタルは、ギリシア語・ラテン語系ではHephthalitae/Hephtalitae、イラン語世界では「ハイタラ(Haital)」、漢文史料では嚈噠(えつたつ、イエダ)、インド史料ではHūṇa(フーナ)と多様に呼ばれます。しばしば「白いフン(White Huns)」と総称されますが、古典期の「アッティラのフン」と同一ではなく、中央アジアの在地遊牧・オアシス勢力(チョニーテス=匈奴/キオニテ、キダリテ、アルチュン=アルホンなど)と重なり合う連合体でした。言語は東イラン系(バクトリア語文書の固有名や称号)を示す資料が多い一方、トルコ語・モンゴル系の語彙・称号の影響も認められ、均質な「民族国家」ではなく、移動と同盟の層を重ねた複合体だと理解するのが適切です。

拠点はアム川(オクサス)上流のトハーリスタン(バクトリア)からヒンドゥークシュ北麓、さらにシスタン・ガズニ・カブール盆地、ガンダーラ(ペシャーワル盆地)へと広がりました。サカ(スキタイ)系・ソグド人商人・バクトリア人農耕民・仏教僧団といったオアシス社会と、草原の遊牧民の利害が交錯する地帯であり、エフタルの「国家」は固定の首都を持つというより、諸拠点の連結と通行税の掌握、婚姻同盟・人質・徴発による支配の網として運用されました。中国北朝との外交は北魏・東魏・北斉と続き、絹馬交易や婚姻が記録されます。

ササン朝との対峙と共存――484年の衝撃からホスロー1世の反攻まで

5世紀後半、ササン朝イランは東方国境でエフタルの圧迫に直面しました。皇帝ペーローズ1世(在位459~484)は東征を繰り返し、最終的に484年の戦で討死します。以後、エフタルはホラーサーン方面に優越し、捕虜・人質・賠償を通じてイラン宮廷に影響力を及ぼしました。カワード1世(在位488~496, 498~531)は一時、王位争いで失脚するとエフタルのもとに亡命し、彼らの支援で復位します。この時期、ササン朝は実質的にエフタルと「対等または従属的な関係」を結び、王室婚姻や賠償銀の支払いが続きました。

しかし6世紀半ば、ホスロー1世(在位531~579)は勢力回復に成功します。彼は北方で勃興した突厥(トゥルク)と外交同盟を結び、挟撃体制を整えて対エフタル戦を開始しました。557年頃から563年頃にかけての一連の戦役で、エフタルの中核連合は分断・壊滅し、トハーリスタンではササン朝の影響下に置かれた小政権群と、突厥の宗主権を仰ぐ勢力が並立する構図となります。アム川上流の鉱山・交易路・灌漑網を押さえる者が優位を得るこの地域において、対エフタル協奏は東西両大国の利害一致の産物でした。

インド世界への波及――フーナ来寇、グプタ後期の動揺と北インド再編

南東方面では、エフタル系(広義のフーナ)の侵入が北インドの政治地図を大きく塗り替えました。5世紀末から6世紀初頭にかけ、トラマーナ(Toramāṇa)やその子ミヒラクラ(Mihirakula)といった王の名が碑文・貨幣に現れ、パンジャーブからマルワー、ガンジス中流域にまで出兵したことが確認されます。バーネーラス近郊の碑文やガンダーラの仏教遺跡では、フーナ勢の破壊や課税の痕跡が伝わり、グプタ朝の権威は急速に低下しました。ミヒラクラは仏教弾圧の逸話で知られますが、同時代記録の吟味では地域差の大きい複合的実像が見えてきます。

フーナの圧迫に対し、インド在地の諸王は連合して反攻しました。特にアーリヤヴァルタのヤショーダルマン(ヤショヴァルマン)や後期グプタの勢力が決定打を与え、6世紀中葉にはガンジス平原からフーナ勢力が後退します。ただし、北西インドとカブール盆地にはネーザク・ハルシャ系など後継の小王国が残り、ササン—突厥—インドの三角関係の間で自立と従属を揺れ動かせました。結果として、北インドは分裂と再編の時代に入り、ハルシャ王による一時的な再統合(7世紀)へと接続します。

政治構造・軍事・貨幣――連合王権の作法と可視化の技術

エフタルの統治は、単一の中央官僚制ではなく、諸部族・在地勢力の連合王権でした。盟主は「シャー」系の称号やトルコ系の称号を併用し、婚姻・人質・貢納で支配を繋いだと見られます。徴税は交易路・橋・灌漑施設に集中し、通行税と輸送保護が重要な収入源でした。軍事面では、機動力の高い騎馬弓兵が広域機動を担い、決戦では甲冑と槍を備えた重装騎兵(カタフラクト)で突撃を図る戦法が多用されました。投石器や工兵を用いた城砦攻略も記録され、オアシス都市の包囲技術を備えていたことがうかがえます。

貨幣は政治的コミュニケーションの核でした。エフタル期のコインには、ササン朝の火壇・王冠意匠やクシャーン朝以来の図像が模倣・継承され、バクトリア語・ペフレヴィー文字・ブラーフミー文字など複数の文字体系が併存します。王名を表すためにギリシア文字化した転写や、バクトリア語での称号(οοζορκο/ηβοδαλο等と読まれる諸形)が見られ、異なる言語共同体に向けて支配者像を発信した工夫が読み取れます。金貨・銀貨・銅貨の三層構造は、国際交易と在地経済の両方を意識した発行政策を反映しています。

宗教・文化・美術――仏教とイラン系信仰、ソグド人の媒介

宗教面では、仏教・ゾロアスター教・土着信仰が共存し、支配層は実利的に後援を配分したと考えられます。ガンダーラ—トハーリスタンの仏教僧院には、エフタル期の施入銘や再建記録が残り、いっぽうで火壇を描くコインやイラン系の王冠意匠はゾロアスター教的儀礼の継続を示唆します。ソグド商人は経済と文化の橋渡し役で、ソグド語文書や壁画(ペンジケント周辺)にはエフタル風の装束・騎馬図が表現され、婚儀・宴会・狩猟などの宮廷文化の断片がうかがえます。バラライク・テペやアフラシアブの壁画群に見られる衣装・冠・紋章は、イラン—インド—中央アジアの混淆を象徴します。

また、エフタルの政治支配は仏教地理にも影響を及ぼしました。僧侶・巡礼の移動安全が左右され、資金・寄進の流れが変化した結果、ガンダーラの一部僧院は衰退し、代わってヒンドゥークシュを越えたバーミヤーンやアモダリヤ流域で仏教文化が新たな隆盛を見せます。バーミヤーン大仏群の巨大造像は時期的に幅がありますが、エフタルから突厥・唐にかけての統治者が保護者として関与した可能性が論じられています。

終焉と後継――突厥・ササンの分割支配、ネーザクなど小王国の残存

突厥とササン朝の連携攻勢で、エフタル連合の中枢は6世紀後半に崩壊しました。とはいえ、勢力は即座に消えたわけではなく、トハーリスタンやガズニ—カブールには、ネーザク(Nezak)と呼ばれる王冠意匠を持つ小王国群、ゾーブル(Zabul)・ガルジスタンの豪族、トカラ系の地方政権が存続しました。これらは時に突厥可汗、時にササン朝、のちには西突厥・唐・吐火羅諸国と関係を結び、8世紀初頭まで断続的に史料に現れます。唐代の安西四鎮体制や高仙芝の遠征記録にも、エフタル系の地名・族名が残響として現れ、完全な断絶ではなく漸進的な吸収・同化が進んだことを示しています。

史料・研究と用語の注意――「フン」「エフタル」「ヒューナ」をどう区別するか

エフタル研究の難しさは、同時代史料の地域差と用語の混乱にあります。ギリシア語史家はしばしば彼らを「フン」と総称し、インドの碑文ではフーナが広義の北方侵入者を指すことが多く、漢文の嚈噠は外交関係に基づく表記で相互参照が必要です。先行・併存勢力としてのキダリテ(Kidarites)、アルチュン/アルホン(Alchon Huns)、チョニーテス(Chionites)などとの系譜関係は単純ではなく、貨幣学(コイン図像・伝説)と考古学(居館跡・壁画・副葬品)、言語史(バクトリア語・ソグド語・ペフレヴィー)を突き合わせて、地域ごとの「どの勢力を指しているか」を慎重に特定する必要があります。試験対策や学習上は、①ササン朝を打ち負かした「エフタル(嚈噠)」、②北インドに侵入した「フーナ(トラマーナ/ミヒラクラ)」、③6世紀半ばの「突厥・ササンの挟撃による崩壊」、という三点をまず押さえたうえで、コインと地理名で細部を肉付けすると理解が安定します。

また、「白いフン」という表現は外部からの色分け(黒・白・青・赤などの方角色彩観)に由来する場合があり、民族的な皮膚色を意味しないこと、同名の「フン」がユーラシア各地に複数現れるため、アッティラのフンと機械的に同一視しないことにも注意が必要です。最新研究では、エフタルを単一民族国家ではなく、遊牧エリートとオアシス官僚・商人の「連合政体(コンフェデレーション)」として捉える見方が一般的です。

総括――草原とオアシスの結節としてのエフタル

エフタルの歴史は、草原の軍事力とオアシスの行政・交易・宗教インフラが結びついて、地域秩序を短期に作り変える典型例でした。西ではササン朝の王権に楔を打ち、東南ではグプタ後期の均衡を崩し、貨幣・美術・宗教のレイヤーに濃い混淆を刻印しました。終焉は突厥とササン朝の協奏という外的要因によるところが大きかったものの、内部の連合構造の脆さ(盟主継承の不安定、在地豪族との緊張)も解体を早めました。エフタルの足跡は、トハーリスタンのコインと壁画、インドの碑文、イランの年代記、中国の正史に断片的に散らばっており、それらを繋ぎ合わせることで、ユーラシア規模の動態が見えてきます。エフタルという語は、単に「白いフン」の異名ではなく、5~6世紀のユーラシアが草原とオアシスをどう結び、どう分かれていったかを読み解く鍵なのです。