「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」は、五代十国時代の936/938年に後晋の石敬瑭(しけいたん)が契丹(遼)の援助と引き換えに割譲した華北北縁の要地群を指す語で、幽州(ゆうしゅう・北京周辺)と雲州(うんしゅう・大同周辺)の両ブロックを中核とする地域を意味します。ここが遼→金→元と続く北方王朝の南下拠点となったことで、宋朝は長城南北の戦略的関門(居庸関・雁門関など)を永く失い、華北奪回が構造的に困難になりました。燕雲十六州は単なる地名リストではなく、(1)割譲の経緯と国際秩序の変調、(2)関隘と台地が織りなす軍事地理、(3)多民族支配の制度と社会の混淆、(4)宋—遼—金—元—明に連なる政治地理の“原型”という四つの論点を束ねるキーワードです。本稿では、歴史的背景、地理と戦略、支配と社会、後世への影響の順に整理して解説します。
成立の経緯――石敬瑭の割譲と「遼」の南下
五代十国時代、中国本土では後梁→後唐→後晋→後漢→後周と短命王朝が交替しました。このうち沙陀突厥系の軍人であった石敬瑭は、後唐に叛旗を翻して後晋を建てるに際し、契丹(のちの遼)に軍事支援を求めました。936年、彼は謝礼として「幽雲十六州」の割譲と臣属的地位を約束し、938年までに移管が進みます。これにより、遼は長城線の南側に橋頭堡(きょうとうほ)を得て、華北平原の北縁・山西高原北端・渤海湾岸への軍政展開が可能になりました。
歴史叙述ではしばしば石敬瑭を「売国」の代名詞のように描きますが、当時の視点から見ると、五代の内戦構造と北方遊牧政権の圧力が絡み合う中での現実主義的取引でした。とはいえ、この割譲が宋朝(960創業)の対外戦略を長期に縛ったのは確かで、宋太宗の幽薊攻略失敗、1004/1005年の澶淵(せんえん)之盟に至る緊張と妥協は、燕雲の帰属が背景にありました。宋は経済力と文化力で卓越しながらも、軍事・地理の弱点から北方政権に歳幣(歳賜)を支払って国境の安定を買うという体制を選ばざるを得なかったのです。
どこを指すのか――地域範囲と軍事地理の要
「十六州」は固定不変ではなく、史料によってわずかな揺れがあります。代表的な列挙は次のとおりです。幽州(幽)・薊州(薊)・涿州(涿)・檀州(檀)・順州(順)・瀛州(瀛)・莫州(莫)・易州(易)・媯州(媯)・新州(新)――以上が「燕」(幽州=旧燕国地域)側、および雲州(雲)・朔州(朔)・代州(代)・応州(応)・忻州(忻)――以上が「雲」(雲中=大同)側、と整理されることが多いです(武州・寧州などを含める異伝もあります)。現代地名でいえば、北京・天津・河北北部~中部・山西北部(大同~忻州)にまたがる帯状の地域です。
軍事地理の核心は、三つのラインに集約できます。第一は、太行山系北端から燕山山脈にかけての関隘列、すなわち雁門関(山西北部)・居庸関(北京北西)・古北口(北京北東)などです。これらは草原側の騎兵が南下する際の必経点であり、逆に中原側が北進する際の隘路でもありました。第二は、渤海湾岸の回廊で、遼西走廊から薊・檀・順の沿岸諸州へ連なる海陸交通の結節です。第三は、黄土高原北縁の台地と河谷(桑乾河・永定河上流など)で、補給と冬営を可能にする内陸の“背骨”でした。十六州を保持すれば、遼(のち金)は山地の南斜面と平原の接点を押さえ、騎兵の展開・越冬・耕作による補給を一体に運用できます。逆に宋が失うと、北上するには高い関門を一つひとつ奪還する必要が生じ、防御側に地利があり続けました。
都市の位相も重要です。幽州(別称:燕京・薊)は遼の南京(陪都)として整備され、のち金の中都、元の大都、明清の北京へと連続する首都形成の核となりました。雲州(大同)は塞上の軍府として城壁・堡塁・屯田が整えられ、雁門関—太原—中原への扉として重きをなしました。つまり燕雲の空間は、北京—大同—張家口—承徳—山海関という近世の軍事・流通ネットワークのプロトタイプでもあったのです。
支配・社会・制度――遼・金・元の「南面」統治と混淆する文化
遼は、遊牧—農耕複合の二重統治(北面官・南面官体制)を採用し、十六州の漢人社会には唐以来の州県・科挙系人材を活かす「南面」行政を敷きました。租税・里甲・徭役は在来制度を基盤に調整され、軍事面では漢軍(歩兵・弩兵)と契丹騎兵の組み合わせが常態化します。城郭は修築され、道路・関隘の維持、仏教・道教寺観の庇護が続き、商業・手工業はむしろ安定的に推移しました。薊・幽を中心に、契丹・漢人・渤海人・突厥系・ソグド系商人など多様な集団が混居し、言語・服飾・法慣習の相互浸透が進みます。
12世紀に入ると、女真(金)が遼を圧迫・併合し、燕雲は金の版図に組み込まれます。金は遼の二元統治の経験を踏まえつつ、漢人官僚を広く登用し、燕京(中都)を都城として整備しました。都市計画・宮城・市坊・運河の整備は、のち元の大都建設の雛形となります。社会的には、宋・遼・金の戦乱に伴う移住・俘虜化・再定住が重なり、戸籍・軍戸・匠戸の再編成が行われました。文化面では、詩文・碑刻・仏教彫刻・青磁・白磁などの美術に遼金的折衷が現れ、北方的量感と漢地の技法が結びつきます。
元代には、大都(燕京)が帝都となり、燕雲空間はユーラシア規模の交通網に接続されます。色目人商人・手工業者の進出、パクス・モンゴリカ下の物流の安定、運河網の拡充は、十六州の商工都市化を促しました。明初に至り、朱元璋は華北防衛のために北辺の軍府整備を進め、燕王朱棣(のち永楽帝)が北平(北京)を根拠に即位したのちは、北方への睨みを利かせる首都としての体制が固まります。すなわち、燕雲十六州の「北の都」化は、遼—金—元—明を貫く線として定着したのです。
宋の戦略と「澶淵の盟」――奪回不能の構造
宋は建国早々から燕雲奪回を掲げ、太宗の北伐(幽薊攻略)を繰り返しましたが、戦略・兵站・地理の制約は大きく、居庸関・雁門関の突破に苦戦しました。1004年、遼軍が黄河に迫ると、宋真宗は前線の澶州へ御駕親征し、翌年「澶淵の盟」によって講和します。宋は歳幣(銀・絹)の支払いと遼皇帝の称号承認を約し、遼は国境線の維持と互市の開設を承認しました。以後、両者は一世紀近く大規模戦を避け、経済・外交両面で安定的関係を続けます。これは、宋が経済力で武力劣位を補い、国境に“安定コスト”を支払い続ける体制を制度化したことを意味しました。十六州の喪失は、宋の国家像(文治・経済・都市文化)を強く方向づけたといえます。
12世紀初頭、宋は女真(金)と対遼同盟(海上の盟)を結んで遼を挟撃し、金に頼って燕雲を回復しようと試みました。しかし金は遼を滅ぼすや、形勢を一変させて自ら燕雲を掌握し、さらに1127年の靖康の変で開封を陥落させ、北宋を滅ぼします。南宋は淮河・長江以南に退き、以後は金との対峙に戦略の重心を移しました。ここでも燕雲を軸にした軍事地理が、王朝の盛衰の回路を決定づけたのです。
後世への影響――首都北京、長城の再編、近代の国境感覚
燕雲十六州の帰属は、中世以後の北京中心の国家像を準備しました。遼の南京→金の中都→元の大都→明清の北京という系譜は、幽州(薊)を国家の頭脳に据える伝統を固定化し、北方に対する“面”を首都自体が担う体制を生みました。明代には北辺防衛の再編として「内長城」「外長城」と呼ばれる重層的城壁線が整備され、山海関—居庸関—紫荊関などの関城が巨大な軍事—物流拠点となります。これは、燕雲空間の“関門としての地理”が明清期に巨大化した結果でもあります。
文化・社会史的には、燕雲は常に境界であり交差点でした。契丹・女真・漢人・モンゴル・色目の人々が混住し、寺院・祠廟の宗教景観、言語と服飾、食文化、都市空間に折衷性が現れます。たとえば北京語の音韻には北方諸語の影響が指摘され、宮廷儀礼・軍制・法制にも遼金以来の北方要素が沈殿しました。考古・美術の面でも、遼の塔・金の石刻・元の龍泉・景徳鎮系磁器の流通が重なり、ユーラシア的広がりが見て取れます。
近代になると、「十六州」の語はしばらく学術的・歴史叙述上の用語として残り、民族主義的言説では“失地”の象徴として語られることもありました。しかし歴史地理としての意義は、単に喪失の記憶ではなく、国家と周辺、草原と農耕、山地と平原、海と陸が結節する「帯」をどう管理・共有するかという長期の課題を示す点にあります。現代の北京—天津—河北(京津冀)圏の形成や、内モンゴル—河北—遼西の物流回廊の構図は、地形と路網の制約が時代を超えて持続することを物語っています。
総じて、燕雲十六州は、五代の政略結婚のような取引から生まれた“歴史の偶然”でありながら、その後の千年の中国北部の政治地理を規定した“歴史の必然”でもありました。居庸・雁門の関を押さえる者が北京を掌握し、北京を掌握する者が中華帝国の顔となる——この方程式の原型は、まさに十六州の帯に刻まれています。割譲・講和・同盟・征服という政治の手段が、地形の制約を超えられないとき、どのような制度設計と社会調整が可能か。燕雲十六州は、その問いを検証するための歴史的“実験台”であり続けてきたのです。

