「オイラト(瓦刺=がらつ/ワラット)」は、モンゴル高原西部からジュンガル盆地(天山北麓)・アルタイ山脈・イリ河流域にかけて展開した遊牧諸部族の総称です。14〜17世紀にかけて、東モンゴル(ハルハ・チャハルなど)と並ぶ大勢力として内陸アジアの政治・交易・宗教に大きな影響を与えました。語としての「オイラト」は本来「連合・同盟」を意味するとも言われ、コロス(チョーロス)・ドルベト(デルベト)・ホショート・トルグトなど複数部族の連合体を指します。中国史料では「瓦剌」と表記され、明・清との関係、チベット仏教(ゲルク派)との結びつき、そして17〜18世紀のジュンガル・ハン国(ジュンガリアのオイラト国家)への発展で知られます。最もよく知られた事件は、1449年、オイラトの執政エセン・タイシが明の英宗を土木堡で捕縛した「土木の変」で、当時の東アジア国際秩序に衝撃を与えました。本項では、名称と起源、政治構造と主要指導者、対外関係と拡張、宗教・文化・社会の特色、そしてジュンガル政権への継承という観点から、学習に必要な要点を分かりやすく整理します。
起源・名称・地理的広がり――「四オイラト」と西モンゴルの舞台
オイラトの中心は、モンゴル高原西縁からアルタイ山脈・ジュンガル盆地(天山山脈の北側=現在の中国・新疆ウイグル自治区北部)に広がる草原・半砂漠地帯でした。ここはステップ・山地・オアシスが交わる「界面」で、遊牧・交易・農耕の混合経済が成立しやすい環境でした。オイラトは複数の部族連合で、古くから「四オイラト(ドルベン・オイラド:四部オイラト)」と総称されます。主要部族として、チョーロス(コロス)、デルベト(ドルベト)、ホショート、トルグトが挙げられ、時代によりオルドスやバスケトなど周辺諸部族が同盟に加わることもありました。
モンゴル帝国期、チンギス・ハーンの統一(13世紀)以後、東西モンゴルの間で人員・家畜・婚姻の交流が進みましたが、元朝の崩壊(1368)後は「北元(北朝)」と呼ばれるモンゴル諸政権が再編され、その内部で東側(ハルハ・チャハル・トメト等)と西側(オイラト)の勢力均衡が政治課題になりました。中国史料では、東側の「タタール(韃靼)」に対する呼称として西側の「瓦剌(オイラト)」が対置される場面が多く、両者の抗争・同盟・婚姻は15〜16世紀のモンゴル政治を特徴づけます。
地理的に見れば、オイラトの牧地は東のハルハ草原と接しつつ、西はイリ河・上エニセイ・上イルティシュの流域へと広がり、南は天山北麓のオアシス帯(ウルムチ・イーニン・マナス)に触れます。オイラトはこの広い帯域で、遊牧移動の季節的循環(夏の高地、冬の低地)を行いながら、毛皮・馬・家畜製品、そして中央アジア産品と中国の絹・茶との交換を仲介していました。この「位置の強み」は、明との朝貢・互市の交渉、チベット・中央アジア・ロシアとの交易において決定的でした。
政治構造と主要指導者――エセン・タイシからコンドロイチン法まで
オイラトの政治は、チンギス家の「ハーン」位をもつ王統と、実務を担う有力部族長(タイシ=太師)の二層構造が交錯する形で展開しました。14〜15世紀、オイラトはしばしば東モンゴルのハーン位に強い影響力を及ぼし、擁立・廃立を通じて全モンゴル政治を主導しました。最も著名なのがエセン・タイシ(在位的権勢:1430年代〜1450年代)です。彼はチョーロス系の出身で、周辺部族を糾合し、タリム盆地北縁からオルドス方面に至る広域支配を確立しました。
エセンは対明関係でも主導権を握り、互市と朝貢の利を拡大すべく軍事と外交を併用しました。1449年、オルドス方面での戦役に際し、明の英宗(正統帝)自らが出陣すると、エセンは巧みに退路を断ち、土木堡で主力を包囲・撃破、英宗を捕虜とする「土木の変」を引き起こしました。明朝は国本を揺るがされ、景泰帝を擁立して事態収拾を図りますが、英宗の身柄はのちに返還されます。エセンは1453年には自ら「ハーン」を称して即位し、チンギス家以外のハーンを出すという禁忌を破りましたが、これが諸部族の反発を招き、1455年に内紛で殺害されます。以後、オイラトの連合は分裂・再結集を繰り返し、東モンゴル(ハルハ)との均衡の中で勢力を保ちました。
16世紀末〜17世紀初頭、オイラトは内部統治の再整備を進め、部族横断の法典が整備されます。しばしば「モンゴル=オイラト法(ハルハ・オイラト法、1640年)」と総称される一連の合意(大規模会盟の制定法)は、遊牧社会の紛争解決・婚姻・財産・軍役・仏教寺院の保護などを規定しました。これにより、連合全体の行動規範が共有され、のちのジュンガル国家形成の制度的土台となります。組織面では、各部族が自立性を保ちながらも、戦時には合議で軍を編成し、交易交渉は有力タイシが代表して行うなど、緩やかな連合国家の性格を持っていました。
対外関係と拡張――チベット・中央アジア・ロシア、そしてジュンガルへ
オイラトの対外関係の一大特徴は、チベット仏教(ゲルク派)との緊密な結合です。17世紀、ホショート部のグーシ・ハーン(グシ・ハン)はチベット高原に進出し、ゲルク派を軍事的に支援して1642年にラサで政権(ガンデン・ポタン=ダライ・ラマ政権)の樹立を助けました。これにより、ホショートはチベットに宗主権的地位を確立し、チベット仏教はオイラト世界に深く浸透します。宗教文化面では、オイラト僧ザヤ・パンディタ(ザーヤーパンディータ)が1648年頃にモンゴル語の新文字「明晰文字(トド文字)」を創案し、チベット仏典の翻訳・教化・法令の頒布に用いられました。これは遊牧社会における識字と行政の効率化に大きく寄与しました。
トルグト部の一部は17世紀前半に西進し、ヴォルガ川下流域でカルムイク汗国を形成します。彼らはロシア帝国と複雑な関係を結び、軍事同盟・防衛・移住政策の中で自治を維持しましたが、18世紀にはロシアの統合圧力が強まり、1771年には大規模な東還(「大帰還」)を試みてジュンガル方面へ帰還しようとして多大な犠牲を出しました。この出来事は、オイラト諸部がユーラシア西端にまで達していたこと、そして近代国家の国境・軍事・移住管理が遊牧の移動自由を制約していく過程を示しています。
ジュンガル(ゾンガル)は、本来「左翼」を意味する語で、チョーロスを中心とする西モンゴル諸部から発展した国家です。17世紀中葉、バートル・ホンタイジ、ガルダン・ボショクト・ハーン、ツェワン・ラブタン、ガルダン・ツェレンらのもとで中央アジアに覇を唱え、天山南北・アルタイ・イリ・セミレチエに広域支配を確立しました。ジュンガルは交易と軍事の双方に長け、清朝・ハルハ・ロシア・中央アジア諸政権と縦横に関係を結び、ガルダン時代にはハルハを圧迫して康熙帝の親征を招くなど、清朝の北西戦略を規定しました。18世紀に入ると、清の雍正・乾隆期の連続遠征によりジュンガルは壊滅(1755〜1757)し、ジュンガリアには清の八旗・緑営・屯田・回部オアシス社会の再編が進みます。この破局は、オイラト系政治の終焉と同時に、内陸アジアの地政学が清とロシアの二大勢力に再編されていく転点でした。
社会・文化・経済の特色――遊牧の秩序、仏教の保護、交易の回路
オイラト社会の基盤は遊牧生業でした。季節移動に応じた牧地の共有・割当、家畜(馬・羊・山羊・牛・ラクダ)の多様化、移動経路に沿った井戸・河川の管理は、慣習法と合議で運用されました。家族・氏族の連帯が強く、婚姻・同盟は政治秩序の核でもありました。戦時には騎射に長じ、弓・槍に加え火器の導入にも敏感で、ジュンガル期には大砲・火縄銃の配備と工房の整備が進みました。
宗教はチベット仏教(ゲルク派)を守護し、僧院(ゴンパ)が学習と祈祷の拠点となりました。オイラトの諸ハーンは寺院・僧侶を保護し、税免除や牧地の寄進を行い、法典でも寺院と僧侶の地位を規定しました。ザヤ・パンディタの明晰文字は、仏典・戒律・行政文書の標準化を後押しし、口承中心の社会に文字文化の基盤を与えます。美術・工芸では、タングカ(仏画)、仏具、装飾馬具が発達し、テント(ゲル/ユルト)の内部装飾にも象徴的文様が広がりました。
経済面では、遊牧生産に加えて交易が不可欠でした。茶葉・絹・綿布・金属器・穀物は中国側から、毛皮・馬・塩・羊毛・革はオイラト側から供給され、イリ・タリム盆地北縁・ハミ・トルファン・オルドスなどの互市・市場が結節点でした。中央アジアでは、ヒヴァ・ブハラ・サマルカンドを通じて金属製品・綿織物・香料が流入し、オイラトは中継と保護を担いました。こうした交易構造は、相手国の政治・関税・許可制度に左右されやすく、外交と軍事が経済の前提を規定するという内陸アジア特有の性格を帯びていました。
言語・文字の面では、モンゴル語のオイラト方言が用いられ、既述の明晰文字(トド文字)が17世紀以降の行政・宗教・文芸に広く使用されました。これはウイグル=モンゴル文字の改良形で、母音標示の明確化など可読性を高めた点が特徴です。オイラト語文献には、法典、史書、仏典翻訳、祈祷文などがあり、遊牧社会の知の形式化を物語ります。
用語整理と歴史的位置づけ――「瓦剌」「ジュンガル」「タタール」の関係
学習上の要点として、いくつかの用語の関係に注意が必要です。第一に、「オイラト(瓦剌)」は西モンゴル系諸部の広い総称で、17〜18世紀の「ジュンガル」はその中核(特にチョーロス系)から発展した国家名です。すべてのオイラト=ジュンガルではなく、トルグトのカルムイク汗国、ホショートのチベット支配など、分岐的展開が存在します。第二に、東モンゴル側を中国史料で「韃靼(タタール)」と総称する時期が長く、瓦剌=オイラトとの対置で語られますが、両者は固定的な民族名ではなく、時代・文脈により幅を持つ政治的呼称でした。第三に、オイラト世界の宗教はチベット仏教(ゲルク派)で、イスラームを主とする中央アジア・トルコ系世界とは宗教面で一線を画しつつ、交易・軍事で密接に接触しました。第四に、オイラトの歴史は、モンゴル帝国の遺産(チンギス・ハーンの統合モデル)と、近世国家の制度化(法典・文字・常備軍)の両面を体現し、遊牧と国家の関係を考えるうえで格好のケースです。
日本語史教材では、しばしば「土木の変」「エセン・タイシ」「ジュンガルの清征服」「カルムイク」「トド文字」などが点在して登場しますが、これらは一連の歴史の流れの中に置き直すと理解が深まります。すなわち、15世紀のオイラト台頭(エセン)、17世紀の宗教・制度整備(法典・明晰文字)、ジュンガル国家の形成と清・ロシア・中央アジアとの三角関係、18世紀の清による征服と西遷・東還の動き、という時間線です。この線の上で、東モンゴル(ハルハ・チャハル)や明・清、チベット、中央アジア諸政権の動きが交錯していきます。
総じて言えば、オイラト(瓦剌)は、単なる「遊牧の異民族」の枠を超え、宗教・法・文字を備えた近世的秩序を内陸アジアに打ち立てようとした主体でした。その試みはジュンガルの挫折によって政治的には終幕しますが、カルムイクやチベットのホショート支配、オイラト語文献や明晰文字の伝統など、文化的・宗教的な足跡は今日まで続いています。オイラトを学ぶことは、ユーラシア内陸部のダイナミズムを、海洋世界と並ぶもう一つの「世界体系」として捉える手がかりになります。

