クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah, 1909–1972)は、英領ゴールド・コーストを独立国家ガーナへ導いた指導者であり、アフリカ統一をめざすパン・アフリカ主義の象徴的人物です。植民地体制の民族運動家から首相・大統領へ、そして一党支配と権威主義への傾斜、軍事クーデタによる失脚、亡命ののち早すぎる死へ――その軌跡は、脱植民地化の高揚と冷戦の圧力、経済構造の制約と国家建設の試行錯誤が交錯する20世紀アフリカの典型例として読まれてきました。アコソンボ・ダムに象徴される工業化・電化の国家プロジェクト、ココア依存からの脱却をねらった計画経済、非同盟・第三世界連帯の外交、そして『新植民地主義(The Last Stage of Imperialism)』『コンシェンシズム』などの著作に示された思想は、賛否を超えて強い影響力を残しています。本稿では、独立運動の形成と政権掌握、国家建設の政策と挫折、パン・アフリカ主義と外交、失脚後の亡命と遺産という四つの視角から、エンクルマの全体像を整理します。
生涯と独立運動――植民地教育から大衆政治へ、CPPの台頭
1909年南部西部州ンクロフルに生まれたエンクルマは、カトリック学校・アチモタ校で学び、1930年代後半に渡米しました。リンカーン大学・ペンシルベニア大学で哲学・教育学を学び、米国内の黒人知識人ネットワーク(ダブボイスら)と接触、さらにロンドンでは汎アフリカ会議の組織に関わります。第二次世界大戦後、アフリカ各地で民族運動が高揚するなか、彼は1947年にゴールド・コースト統一会議(UGCC)の書記長として帰国しますが、指導部の穏健路線に不満を抱き、49年に人民会議党(CPP)を結成しました。
CPPは従来の都市名望家中心の運動と異なり、農村・市場の女性商人(ママミー)・若年労働者・失業者にまで組織を拡げ、シンボルカラーや歌、新聞『アクラー・エヴニング・ニュース』で大衆政治を展開しました。1950年の「ポジティブ・アクション」(非暴力的不服従)を呼びかけた結果、彼自身は投獄されますが、51年の議会選挙でCPPが圧勝、収監中のエンクルマは釈放され、自治政府のリーダーとして首相に就任します。以後、段階的自治拡大を通じて、1957年3月6日に英連邦内の独立国家「ガーナ」が成立しました。独立式典には世界中の反植民地運動やアメリカからも来賓が集まり、エンクルマは「我々の独立はアフリカの完全解放なしには意味を持たない」と語って、国内外に明確なビジョンを示しました。
国家建設と経済政策――計画・工業化・アコソンボ・ダム、そして統治の硬化
独立後の最優先は、一次産品(ココア)依存からの脱却と工業化でした。エンクルマ政権は国家計画委員会のもとで第一次・第二次開発計画を策定し、道路・港湾・教育・保健の拡充、国営企業(繊維・加工・機械組立)創設を推進します。象徴的事業がヴォルタ川のアコソンボ・ダム(1961着工、1965運転開始)で、巨大な人造湖(ヴォルタ湖)と水力発電により、アルミ精錬(テマのヴァルコ社)や都市電化、灌漑の拠点をつくる構想でした。テマ新港の建設と合わせ、内陸—外洋の物流体系が再編され、ガーナは西アフリカの拠点を目指します。
しかし、ココア国際価格の下落と天候不順、公共投資の急拡大、国営企業の非効率、外貨不足が同時進行し、財政・国際収支は逼迫します。エンクルマはソ連・東欧・中国からの資金・技術協力を取り込み、西側とも天秤をかける現実外交を試みますが、冷戦下の資金調達は政治的条件を伴いがちでした。国内では、1958年の「予防拘禁法(PDA)」で反体制派の拘束を可能にし、61年の労働争議・テマ暴動を機に抑圧色が強まります。1960年に共和制へ移行すると大統領となり、64年には憲法改正で一党制(CPPの単独合法)と終身大統領制に踏み込み、治安機構(情報部)と青年組織(ヤング・パイオニア)が動員を担いました。選挙は形式化し、報道統制が強まるにつれて、初期の「大衆参加」は次第に「動員と監視」へと性格を変えていきます。
社会政策では、初等教育の拡大、技術学校・大学(クワメ・エンクルマ科学技術大学)整備、保健・母子福祉の拡充、伝統権威(酋長制)との折衝などで前進もありました。女性の政治参加や市場女性の地位承認は、ガーナ政治の独自性として注目されます。一方で、地方分権と民族間バランスの調整、公共部門の腐敗抑止など、運用の難題は残りました。
パン・アフリカ主義と外交――OAU創設、第三世界連帯、思想としての“ンクルマ主義”
エンクルマは国内政治家であると同時に、国際舞台での理論家・運動家でした。1958年アクラで全アフリカ人民会議(AAPC)を主宰し、独立前後の民族運動を横断的に結びました。1963年のアディスアベバ会談では、アフリカ統一機構(OAU、のちAUの前身)創設に尽力し、独立支援・反アパルトヘイト・国境紛争の調停に関与します。アルジェリア・コンゴ・ギニア・マリなどとの連携は、アフリカ大陸の「即時統合派」と「漸進主義」の対立をはらみましたが、彼はしばしば前者に立ち、大陸政府構想まで唱えました。
思想面では、『新植民地主義(1965)』で、政治独立後に経済・金融・軍事の依存が続く構造を「新たな帝国主義」と断じ、資源ナショナリズム・南南協力・多国籍企業への規制を訴えました。『コンシェンシズム(1964)』では、西欧的社会主義・伝統的共同体倫理・反植民地ナショナリズムの統合として「アフリカ的社会主義」を理論化し、世俗的・人間中心の価値に基づく国家建設を説きました。これらは“ンクルマ主義(Nkrumaism)”と総称され、教育・青年運動・党のイデオロギー訓練に組み込まれます。
外交では、非同盟運動(NAM)に参加し、ユーゴ・エジプト・インドネシア・インドなどと第三世界連帯を形成する一方、英米・西独・日本の資本とも取引し、ソ連・中国とも関係を築く多角外交を展開しました。だが、急進的な大陸統合路線や、周辺諸国の反政府勢力支援疑惑は、域内の緊張を招く場面もあり、冷戦の分断の中で「周到さ」と「前のめり」の間を揺れ動きました。
失脚と亡命、遺産――1966年クーデタから死後の再評価まで
1966年2月、エンクルマが対ベトナム「平和使節」として外遊中、ガーナ軍・警察の一部がクーデタ(コトカ准将ら)を起こし、CPP政権は崩壊しました。背景には、経済困難、物価上昇、治安機関への不満、エリート層の反感、冷戦下の外的関与の可能性などが重なっていました。彼は帰国できず、ギニアのセク・トゥーレ大統領に迎えられて名誉共同大統領の地位を得てコナクリに居住し、著述とアフリカ統合の提唱を続けました。体調を崩して1972年にルーマニアで死去、遺骸はのちにガーナへ戻され、アクラの霊廟(Kwame Nkrumah Mausoleum)に眠ります。
その後のガーナは軍政と文民政を往還しつつ、1980年代以降に構造調整と民主化を経て、比較的安定した選挙民主主義へ移行しました。エンクルマの評価は時代とともに揺れ、冷戦末期には「権威主義と浪費」の象徴として批判されましたが、21世紀には独立の父・地域統合の先駆・教育とインフラ整備の功績が再評価され、誕生日(9月21日)は「創設者の日」として祝われています。政党スペクトラムでは、彼の路線を継ぐCPP系は小勢力にとどまるものの、主要二大政党(NDCとNPP)もインフラ・教育・地域統合の議題ではエンクルマ期の遺産を参照します。
文化的記憶の面でも、アクラの独立広場、ブラック・スターの象徴、テマ港、アコソンボ・ダム、青年組織の歌やスローガンは、国家の「始原神話」を構成しています。批判的視点からは、PDAによる市民的自由の侵害、報道統制、反対派弾圧、国家企業の非効率、地域介入の拙速さが指摘されます。すなわち、エンクルマの遺産は「大胆な構想と動員の力」と「統治の収れん不足」が併存する両義的なものとして受け止められているのです。
総じて、エンクルマは、独立の瞬間に大地を震わせた建設者であり、同時に、国家と大陸を急がせすぎた理想主義者でもありました。彼の政治は、植民地支配の構造的負債と冷戦の力学、一次産品依存経済の制約のなかで、どこまで国家が主導し、どこで社会の自発性に委ねるかをめぐる終わらない問いでした。アフリカ統合と南南連帯の議題がいまなお現代性を保つのは、エンクルマが提示した課題が未完であるからにほかなりません。彼の名を学ぶとき、英雄譚と失敗譚のどちらにも寄りかからず、制度設計・経済計画・文化動員・国際戦略の相互作用として、具体的に読み解くことが肝要です。

