朝鮮の科挙(韓: 과거, クァゴ)は、高麗から朝鮮王朝にかけて実施された公的な官吏登用試験で、文(学識)・武(軍事)・雑(専門)の三系統を柱に、首都の成均館と地方学校の教育ネットワーク、王による最終認証(殿試)を組み合わせて運用された制度です。要するに、「家柄だけではなく、学問と技能の試験で官職への道を開く」という原理を、朝鮮社会の現実に合わせて長期にわたり具体化した仕組みです。合格は家の名誉と社会的上昇の切符であり、地方から都まで学びの回路をつなぎました。他方で、受験準備の過熱や党争の影響、身分・出自による受験制限など、理想と現実のあいだの矛盾も抱えました。廃止は19世紀末の改革期(甲午改革)で、以後は近代学校と新式官吏登用へ移行しますが、公開競争・匿名採点・段階試験といった「公平の技法」は、その後の試験制度に受け継がれていきます。
起源と展開:高麗から朝鮮へ、王権と学校が支えた公選
高麗(918–1392)は、中国の科挙制度に学び、文科(しばしば「進士科」と総称)・武科・雑科を整えて、王権のもとで人材登用の公的ルートを開きました。王は最終段階で合格者を親臨して序列を定め(殿試)、仏教が濃厚な社会のなかでも、儒学的な官僚制の骨格を育てました。地方の郷校—中央の国子監や成均館に至る教育の幹線は、この段階で基礎づけられます。
朝鮮王朝(李氏朝鮮, 1392–1897)は、朱子学を国家の正学に据え、科挙を政治と社会統合の中核制度に押し上げました。創業期の太祖・太宗・世宗らは、郷校の整備、漢文・経義教育の標準化、写本・印刷の拡充を進め、定期試験(式年試)と臨時試験(別科)を組み合わせて柔軟に運用します。王は殿試(전시)で名次を最終決定し、首席(壯元, 장원)ほかの序列を与えることで、人事の源泉が王にあることを可視化しました。
制度としての成熟は、15〜16世紀に顕著です。地方選抜—中央の会試—殿試という三段階の骨格が固まり、答案の匿名化(糊名)、誊録(清書による筆跡隠し)、複数採点や監試交替などの運用技法が精緻化しました。17世紀以降、党争(東人・西人、のち南人・北人、さらに老論・少論)や両班社会の再生産と絡み、選抜の公正性をめぐる緊張は高まりますが、制度そのものは19世紀末まで継続します。
制度の枠組みと科目:文科・武科・雑科、小科と大科、殿試の三層
朝鮮の科挙は大きく三系統に分かれました。第一は文科(문과)で、国家政治を担う文官の主幹ルートです。第二は武科(무과)で、弓・騎射・剣・馬術など軍事技能と兵学を試す路線です。第三は雑科(잡과)で、医科・法科(律学)・算学(書算)・陰陽(天文暦算)・訳科(通訳)・測量・絵図・楽学など、専門職の登用を担いました。訳科は中国語(漢語)に加え、時期によって女真・満洲・蒙古・日本・琉球・清語などが扱われ、外交と通商の実務を支えました。
文科はさらに段階構成があり、予備段階としての小科(소과)である生員試(経書の素養)・進士試(文章・作文)に合格すると、成均館に入学する資格と、大科(대과)の受験資格が得られます。大科の本試験は、地方の初試(복시に相当する再試を含む)を経て中央の会試(회시)、最後に王の殿試(전시)へと進みます。殿試では首席の壯元のほか、合格者は甲科・乙科・丙科の三等級に配列され、甲科上位は高位官への抜擢ルートに直結しました。
文科の出題は、朱子学の解釈(四書五経の経義)と政策論述(策問)が中心です。策問のテーマは、田税・軍役・戸籍・刑獄・外交・水利・救荒・学政など時務全般に及び、史例と典拠の運用、論証の筋道が重視されました。形式は中国の伝統を踏まえつつも、朝鮮独自の事情(軍役や均役法、地方の里甲制運用など)に即した問いが多く、答案は行政の現場感覚を映す訓練の場でもありました。
武科は、射礼・馬上射・歩射・剣技・体技などの実技と、兵書理解の筆答で評価しました。武官は中央の五衛・訓錬都監や地方の兵営・水軍に配置され、対外防衛(女真・倭寇対策、のち清・日本との関係)や治安・工事に従事しました。雑科は、医学(太医院系)や法曹(刑曹・司憲府)、算学(戸曹・兵曹の会計)、陰陽(暦局)、訳官(司譯院)など、近世国家の専門官僚を供給する要にあたりました。
運用技法として、答案の匿名化と多重審査が徹底されました。受験者は「巻」に氏名を記さず、監試官が番号で管理し、書記官が誊録して筆跡・紙質による推測を防ぎます。採点は複数の考官が独立採点し、乖離が大きい場合は合議で調整しました。不正対策として、監房・試場の封鎖、持込検査、密告・連座の規定が整備され、違反には重罰が科されました。
教育と地域社会:成均館・郷校・書院、出版と受験市場
科挙は、教育と地域の文化を牽引しました。中央の成均館は最高学府として、国子生に官学の注疏と作文法を教え、礼楽・射御などの儒教的教養を授けました。地方の郷校は士族子弟の基礎教育を担い、講書・科挙準備・郷里社会の公共事業の拠点となりました。16世紀以降、私学の書院が各地に興り、学派(栄川学派・湖西学派など)の講学活動が活発化します。書院は学問の純化と人脈形成の場であると同時に、受験の支援機関でもあり、地方の士人が都に出なくても高度な学問に触れられる回路を提供しました。
出版文化も大きく伸びました。木版本の普及で、朱子学の注疏、類書、策例集、模範答案集、字書・韻書、史書の抄出などが広く出回ります。漢城(ソウル)や地方都市の書肆は、受験季節に合わせて新刻を出し、紙・筆墨・硯・巻物の需要が市場を支えました。受験者向けの下宿・旅店・文会(詩文の会)も生まれ、都市は科挙を中心に独自のリズムで脈打ちました。合格者名の榜掲は祝祭となり、壯元の行列は地域の誇りを象徴しました。
こうした教育・出版の活況は、社会流動の可能性を広げる一方、受験の長期化と家計負担の増大、教育資源の地域格差を伴いました。豊かな宗族は学田・書庫を整え、有能な子弟を集中的に支援できましたが、辺地の小農や中人層には参入障壁が高く、受験の平等は理念と現実の間で揺れ動きました。
理想と現実:両班社会、出自制限、党争と合格操作の影
科挙の理念は「才能と学識に基づく公選」でしたが、朝鮮社会では身分と出自の制約が色濃く残りました。両班(ヤンバン)は儒学的教養と官途の独占を正統化し、科挙を通じて自身の地位を再生産しました。庶孽(庶子)や中人(訳官・医官・技術系の世襲職)には受験制限が課される時期があり、賤民身分(奴婢など)には原則として官途が閉ざされました。17世紀の身分政策や族譜の整備は、社会の境界をより硬くし、科挙の開放性を狭める方向に作用します。
政治の側からも、党争が選抜の公正を脅かしました。東人・西人、南人・北人、老論・少論といった派閥が、出題・採点・名額で影響力を争い、王権との角逐が激化します。特定派閥が政権を握る時期には、師門や地域のネットワークが合格に有利に働くとの風評が絶えず、制度の正統性はしばしば試されました。王は殿試・再査を通じて均衡を図りますが、党争の長期化は制度の信頼を摩耗させます。
さらに、八股的な文体の規格化は採点の公平を助ける一方で、思考の幅を狭め、実務能力(法務、会計、土木、軍需)の訓練が後景化する問題を生みました。雑科や訳科がこの不足を補いましたが、官界の主流である文科の権威が高いほど、行政の技術的課題への対応は後手に回りがちでした。
近代への転換と廃止:開化政策、甲午改革、その後
19世紀後半、外国勢力との関係と内政の停滞は、統治の知的基盤に再検討を迫りました。開化派は西洋の学問(算学、格致=自然学、兵学、法学、語学)の導入と学校制度の刷新を主張し、育英公院・同文館など新式教育機関が生まれます。科挙でも、策問の時務化や訳科の拡充など部分的な対応が試みられましたが、制度全体の性格を変えるには力不足でした。
決定的な転機は甲午改革(1894–95)です。王政の近代化と官制改革の一環として、朝鮮政府は従来の科挙を廃止し、近代学校出身者や留学生の登用、新式官吏試験へと移行する方針を採りました。これにより、千年規模で続いた「儒学に基づく公選」は終止符を打ち、教育行政の近代化が始まります。大韓帝国期には法学・財政・土木・警察・軍事などの職能教育が整備され、官吏登用は学歴・資格と新式の筆記・口述試験へと置き換えられていきました。
廃止は断絶であると同時に連続でもありました。公開競争、段階試験、匿名採点、誊録・多重採点といった運用技法は、新式試験にも応用され、合格者名の公告や名誉の文化も形を変えて残ります。他方、文科中心主義や派閥的ネットワーク、教育資源の偏在といった影は、制度が変わっても社会に残存しました。科挙の経験は、近代化を進める上で「公平と多様性」「学術と実務」のバランスをどう取るかという課題を、逆説的に照らし出したのです。
総じて、朝鮮の科挙は、王権のもとで「学び」を国家運営の中心に据え、地方—中央—王宮を一本の回路で結んだ大規模な社会装置でした。文・武・雑の三系統、成均館と郷校・書院の教育網、匿名化と多重採点の技法、殿試による統合、そして受験文化を支えた出版・都市経済。これらは、東アジアにおける〈学問で官を選ぶ〉という理念が、如何に地域の現実と折り合い、如何に制度疲労を抱え、如何に近代へ橋渡しされたかを示す具体的な証拠です。理想と現実のあいだで揺れながらも、科挙が育てた公共圏と学習文化は、今日の試験社会と民主的官僚制を理解するための、貴重な歴史的参照枠であり続けます。


