韓族 – 世界史用語集

韓族とは、古代の朝鮮半島南部に広く分布した諸集団を指す呼称で、特に紀元前後から4世紀頃にかけて存在した馬韓・辰韓・弁韓という三つの連合体(総称して「三韓」)に関わる人びとを指します。のちに百済・新羅・伽耶(加羅)の形成に深く関係した人びとでもあり、朝鮮半島史の中期へとつながる重要な基層をなしています。現代の「韓国(大韓民国)」の国号に残る「韓」の字は、こうした古称に由来があると理解されることが多いです。ただし、同じ漢字でも中国の「漢族(漢民族)」とは別の概念で、混同しないことが大切です。韓族は、稲作を中心とする農耕と、鉄資源の活用、海陸交通による交流に強みを持った多様な集団の総称でした。中国の史書では「韓」や「三韓」と記され、当時の諸国・邑(むら・くに)のゆるやかな連合体として描かれています。韓族は単一の民族名ではなく、地域ごとの言語や文化をもつ諸グループの集合体で、政治的にも文化的にも一枚岩ではありませんでした。本稿では、呼称の意味と注意点、地理的分布と形成の過程、社会・文化の特徴、中国史書にみえる姿と周辺諸族との関係を順に説明します。

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用語の定義と注意点

「韓族」という語は、日本語の世界史・東アジア史の文脈で便宜的に用いられる学術的な総称です。古代の人びとが自分たちを一様に「韓族」と名乗っていたわけではありません。中国側史料では「馬韓」「辰韓」「弁韓」の三連合(これを合わせて「三韓」)として表現され、各連合の内部には百を超える小国や邑が並立していたと記されます。したがって、韓族とは三韓地域に属した多様な共同体の集合的名称と理解するのが適切です。

また、「韓(かん/はん)」の字形は中国の「漢(かん)」と似ており、日本語でも読みが近いため、漢族(Han Chinese)と混同されがちです。しかし意味はまったく異なります。韓族は朝鮮半島南部の諸集団、漢族は中国の主たる民族集団の総称で、起源・歴史・文化の系譜が異なります。教科書や研究書では、韓族は「朝鮮半島南部の古代諸集団」「三韓の人びと」といった説明が添えられることが多いです。

さらに、「韓」という字は後世の地名や国号に受け継がれています。統一新羅の後、10世紀に「高麗」が起こり、近代に入って「大韓帝国」、現代の「大韓民国」へとつながります。ここでの「韓」は古代の三韓の伝統に由来する国土・人民の観念を反映していると捉えられます。ただし、時代によって「韓」という語の政治的・文化的含意は変化しており、古代の韓族と同一視することはできません。

形成と分布—馬韓・辰韓・弁韓の世界

韓族の活動舞台は、主として朝鮮半島の中南部でした。おおまかにいえば、漢江(ハンガン)流域から錦江(クムガン)・栄山江(ヨンサンガン)流域の西南部にかけてが馬韓、慶尚道の内陸を中心とする東南部が辰韓、洛東江(ナクトンガン)下流から慶尚南道・全羅南道の一部に重なる海岸地域に弁韓が分布したとされます。この三連合は固定的な国境で区切られていたわけではなく、重なりや移動、勢力の伸縮がありました。

形成の背景には、弥生時代と時期を同じくする稲作農耕の拡大があります。朝鮮半島南部では、青銅器文化から鉄器文化への転換が比較的早く進み、これが社会の階層化と小国連合の成立を促しました。特に弁韓の地域は、豊富な鉄資源とそれを加工する技術で知られ、半島内だけでなく日本列島の北部九州や瀬戸内地域、中国山東方面とも交易を行っていたと考えられます。鉄製の武器や農具の普及は、軍事力と生産力の向上をもたらし、首長層の権威を高めました。

馬韓は、大小多くの邑や国が緩やかにまとまった広域連合で、後に百済へと結びつく政治勢力が台頭した地域です。文化的には、加耶系・濊貊系の要素とともに、漢江流域の水系ネットワークを活かした交通・交易の拠点が形成され、土器や装身具、墳墓の様式に多様性が見られます。辰韓は、後の新羅に連なる勢力が発達した地域で、内陸山岳地帯を中心に小国が密集し、祭祀・巫覡(ふげき)的要素が強い文化が伝えられます。弁韓は、のちの伽耶(加羅)諸国の母体で、鉄の産出と海上交通を背景に、半島内外への影響力を持ちました。

こうした分布の理解は、文献史料だけでなく、考古学的成果に支えられています。甕棺墓や木槨墓、積石塚などの墓制、銅鏡・青銅鈴・鉄製武器や農具、装身具の出土、そして住居址や城郭遺構から、社会の階層化と地域間の交流の広がりが読み取れます。とりわけ、洛東江流域の遺跡群は、鉄生産と流通を担った弁韓・伽耶勢力の存在感を示す指標となっています。

社会・文化・経済の特徴

韓族の社会は、複数の邑(集落)とそれを統率する首長層、戦士層、農民層から成る階層社会の性格を帯びていました。邑は川沿いの段丘や丘陵上に築かれ、周囲に環濠や土塁を備える例もみられます。首長層は、祭祀や軍事を統括し、鉄器・玉類・貴金属などの希少品を掌握することで威信を維持しました。葬送儀礼には豊かな副葬が伴い、社会内部の身分差が可視化されます。

宗教・信仰面では、自然崇拝と祖霊祭祀が重視され、巫覡的な儀礼を司る人物が政治に関与したと推測されます。山岳や大樹、巨石などが聖所とされ、季節ごとの祭りが農耕暦と結びついて行われました。辰韓においては、共同体単位の祭祀が政治秩序の基盤となり、のちの新羅王権でも宗教儀礼を王権の正統性に結びつける伝統が継承されました。

経済の基盤は水田稲作であり、灌漑・貯蔵の技術が発達しました。加えて、鉄の生産と交易は韓族の地域的個性を際立たせました。製鉄・鍛冶の技術は、農具・武器・工具の質を高め、軍事・農業の両面で優位性をもたらしました。海上では、南岸から対馬・壱岐を経て北部九州へと至るルート、あるいは西岸から山東半島・遼東方面へ向かうルートが活発に利用され、物資と情報が循環しました。これらのネットワークを通じて、半島内の諸勢力は相互に影響しあい、列島・中国大陸の動向とも連動しました。

文化的には、装身具や土器の意匠に地域差が見られます。楽浪郡など漢(前漢・後漢)文化圏との接触により、中国系の文物や制度の要素が流入し、文字資料や役人制度の断片的な受容が進みました。一方で、在地の伝統的な様式は根強く、共同体の祭祀や首長権の表現に独自性が保たれました。武器・防具の発達は、対外関係と内的統合の双方に影響し、首長の軍事的指導力が連合の結束を左右しました。

史料にみえる韓族—中国史書と周辺諸族との関係

韓族の同時代像を伝える主要な文字資料は、中国の正史に収められた東夷伝です。『三国志』魏志東夷伝、『後漢書』東夷伝、『晋書』などが、三韓の地理・風俗・政治構造を簡潔に記述しています。これらの史料には、馬韓・辰韓・弁韓それぞれの小国数、居住様式、衣食住、祭祀、刑罰、貢納・朝貢のあり方が記され、韓族世界の概観がうかがえます。ただし、記述は中国側からの外部観察であり、情報の偏りや誇張、時期の混在があるため、無批判に受け取ることはできません。近年は考古学・自然科学的分析(炭素年代測定、金属成分分析、古環境復元など)との照合により、記述の妥当性や時代区分が再検討されています。

周辺諸族との関係としては、半島北部や沿海州方面の濊(わい)・貊(はく)系諸集団、遼東・山東方面の諸勢力、そして日本列島の弥生・古墳文化圏との交流が重要です。楽浪郡・帯方郡など漢帝国の郡県支配の影響は、南部にも交易と文化を通じて及びました。北方の高句麗が南下圧力を強め、半島の政治地図が動いたことも、韓族の小国連合に再編を迫る要因になりました。列島側では、北部九州の勢力が弁韓・伽耶と密接に結びつき、鉄資源と先進工芸を介して相互に影響しました。この環境の中で、馬韓から百済、辰韓から新羅、弁韓から伽耶といった政治単位の再編が進み、4〜6世紀の「三国時代」へと接続していきます。

外交・軍事の局面では、朝貢・冊封秩序への参加と、在地的な争覇の双方が並行しました。中国王朝(後漢・魏・晋など)との関係構築は、首長の権威付けに役立つ一方、外圧や宗主権の問題を生みました。韓族の諸国は、地理的条件と経済基盤の違いに応じて、海上航路の掌握や鉄資源の配分をめぐって競合し、ときに同盟・連合を形成して均衡を図りました。

史料学上の注意として、同名異義の混乱があります。「韓」は地名・人名・国名・民族名のいずれにも使われ、時代ごとに指す範囲が変わりうる語です。したがって、文章中の「韓」を読む際は、前後関係と文献の成立年代を確認し、具体的に「どの韓」を意味するかを特定する必要があります。研究者は、文字史料と遺跡分布、出土遺物の系譜を突き合わせ、用語の揺れを補正しながら韓族像を復元しています。