コンバウン(アラウンバヤー)朝は、18世紀半ばから19世紀末にかけてミャンマー(ビルマ)を支配した最後の王朝で、1752年に上ビルマの村長出身アラウンパヤー(アラウンバヤー)が蜂起して建国し、1885年の英領化まで約130年続いた政権です。分裂状態にあった諸地域を再統一し、シャム(アユタヤ)や清朝との連戦、アラカン・シャン諸邦の併合を通じて最大版図を実現しました。他方で、19世紀には英領インドと衝突して三度の英緬戦争に敗れ、王都マンダレーの陥落とともに滅亡しました。宮廷仏教と王権の緊密な関係、移住・強制移住による人口編成、米・チーク材・宝石に依拠した外向き経済、アマラプラ・マンダレーに代表される王都建設と都市文化など、前近代東南アジア国家の特徴を凝縮した王朝でもあります。本稿では、成立と拡張、対外戦争と版図、統治と社会、19世紀の改革と崩壊、文化と遺産の観点から、コンバウン朝の全体像をわかりやすく解説します。
成立と拡張—アラウンパヤーの蜂起から再統一へ
18世紀前半、トゥングー朝末期の衰退でビルマは上・下に分裂し、下ビルマのモン系ハンタワディー政権が勢力を強めていました。1752年、上ビルマのシュエボー地方モーカンマの村長であったアラウンパヤーが蜂起し、迅速な遊撃と同盟形成で上ビルマ一帯を掌握します。彼はアヴァ奪回後、下ビルマへ進撃してペグー(ハンタワディー)を陥とし、モン勢力を服属させました。アラウンパヤーは王権の象徴として仏教を篤く保護し、僧団(サンガ)の規律回復と寺院修復を進めます。行政面では、軍事動員と徴税を兼ねた家父長的編成(切地制)を再整備し、王直轄の軍団と地方長の勢力を均衡させる政治技術を用いました。
彼の治世は短く、シャム遠征の途上で病没(1760)しますが、後継者たちは拡張路線を継承しました。息子のナウンダウジー、さらに兄のシンビュシン(興仏王)は強力な軍事指導者で、下ビルマの拠点を固めつつ周辺に圧力をかけました。コンバウン朝の軍事は、象兵・歩兵・騎兵に加え、火器・砲兵・水軍を組み合わせる複合戦力が特徴で、戦役ごとに編成・補給・徴発の仕組みが洗練されていきます。
対外戦争と版図—アユタヤ陥落、清との戦い、アラカン併合
コンバウン朝を語る上で避けられないのが、シャム(タイ)との連続戦争です。1760年代、シンビュシンは下ビルマを安定させるとアユタヤ王朝に対して大規模な遠征を敢行し、1767年にアユタヤを攻略・陥落させました。都市の破壊と住民の連行は地域秩序に大きな衝撃を与え、タイ側はトンブリー政権を経てチャクリー朝(バンコク王朝)へ再建していきます。ビルマ側はトラートからタヴォイ(ダウェー)、メルギ(メーイ)に至る半島部の要地を巡って攻防を繰り返しましたが、長駆の補給難と疫病、地元勢力の抵抗で恒久的支配は困難でした。
北東では清朝との衝突が起こります。1765年から1769年にかけ、雲南方面から四次にわたる清軍の侵入(清緬戦争)があり、国境山岳地帯で激しい戦闘が展開されました。ビルマ側は地の利と機動力を活かして撃退し、結果として両国は通商と朝貢・儀礼をめぐる妥協に達します。この戦争はコンバウン朝の軍事的自信を深める一方、人的・財政的負担を増大させ、のちの対外対応に影響を残しました。
西方では、1784年にボードーパヤーがアラカン(現ラカイン州)へ侵攻し、ミャウー王国を併合しました。ここで仏教聖遺物マハームニ像がマンダレー近郊へ移座され、王権の正統性が演出されます。しかし併合は大量の移住・強制移住を伴い、ベンガル方面への難民流出、西境の不安定化を招きました。シャン諸邦に対しては間接統治を基本としつつ、反抗に対して懲罰遠征と人員移動で対応し、王朝中心地への資源・人材の集中を図りました。
統治と社会—徴発と移住、サンガ統制、都市と農村の再編
コンバウン朝の国家運営は、軍事動員と生産力の回復・拡大を両立させることにありました。戦争に伴う捕虜・移住民の再配置(「口数」移動)は、宮廷工房・軍需・農業開発に人手を供給する手段であり、技術者や職人、学僧を王都周辺に集める文化政策でもありました。アユタヤやモン地域から連行された人々は、宮廷芸能・工芸・料理・衣装に影響を与え、「ヨーダヤ(シャム風)」と呼ばれる美術・演劇様式が宮廷文化に取り入れられます。
財政は米とチーク材、宝石(ルビー・サファイア)、象牙などの産品に依拠し、王領地や徴税請負、関税・通行税によって収入を確保しました。下ビルマのデルタ地帯では新田開発と運河・堤の整備が進み、米の外向き流通が地域経済を活性化させます。他方、地方長や徴税人の横領、労役負担の過重、移住による村落の断片化は、逃散や小規模反乱の温床となりました。
宗教統治では、王は仏教の守護者として僧団を統制し、僧正(タタナバイン)を頂点とするヒエラルキーを整備しました。僧籍の監督、戒律違反の取り締まり、寺院財産の確認、「正統」な学統の保護などが行われ、王権の道徳的正当化に用いられます。法律面では慣習法とダンマタット(法典)の編纂・注釈が進み、裁判実務が整えられました。王都はたびたび移転され、アヴァ(インワ)、アマラプラ、サガイン、最終段階ではマンダレーが宮廷と行政の中心となります。宮城と仏教施設、職人街、市場が配置された格子状都市計画は、王権象徴と実務の双方を満たすものでした。
19世紀の改革と英緬戦争—ミンドン王の近代化、三次の敗北と滅亡
19世紀に入ると、英領インドの拡張とインド洋交易の再編がビルマに影を落とします。第一次英緬戦争(1824–26)は、アッサム・マニプルなど国境地帯をめぐる小競り合いから全面戦争に発展し、ビルマはイラワジ河口のデルタと沿岸の諸港で連敗、ヤンダボ条約でアッサム・マニプル・アラカン・テナセリムを失い、高額の賠償金を課されました。第二次戦争(1852)では商館事件などを口実に英海軍が下ビルマを占領、最大の穀倉・外港を喪失します。
こうした危機の最中に即位したのがミンドン王(在位1853–78)です。彼は戦争回避と内政刷新に努め、1857年にマンダレーを創建、貨幣鋳造・度量衡の統一・関税改革・税制整理を進めました。国内手工業の保護、機械の導入、印刷・新聞の育成も試みられ、僧団統制の再編と第五結集(ビルマ仏教経典の校訂・石刻化、1871)を主催して王権の宗教的権威を再確認しました。対外的にはフランスやイタリアの技術者招聘、条約による関税自主権の確保など、均衡外交で英領インドの圧迫を緩和しようとしました。
しかし、王権継承争いと宮廷派閥の抗争、地方財政の逼迫、近代軍備の遅れは致命的でした。ミンドンの没後、ティーボー王(在位1878–85)が擁立されると、宮廷粛清や王妃一族の専権が国内支持を損ね、英側はボンベー=ビルマ会社との租鉱契約や通商紛争を口実に圧力を強めます。1885年、第三次英緬戦争で英国軍はイラワジ川を遡ってマンダレーを急襲し、ティーボー王は無血に近い形で降伏、王族はインドへ流されました。コンバウン朝はここに滅亡し、ビルマは英領インドに編入されます。
文化と遺産—王都建設、文学・演劇、言語と知の継承
コンバウン期は文化の面でも豊穣でした。王都アマラプラとマンダレーは、城郭・宮殿・仏塔・塔門・僧院が整然と配置された儀礼空間で、木造建築の彫刻、金箔、漆工、宝飾が宮廷美術の粋を示します。マハームニ仏の礼拝、シュエナンドー僧院に代表される柿葺・透彫の美は、今日の観光文化財としても知られます。文学では王命による年代記(ヤザウィン)の整理、パーリ語経典と注釈の校訂、ビルマ語の韻文・散文の洗練が進み、泰風(ヨーダヤ)演劇の受容と土着化、仮面劇・歌舞の発展が宮廷と都市に広がりました。石碑・銅版・写本の大量制作は、王権の記録政策と僧団の学問実践を支えます。
言語政策としては、ビルマ語(バマー語)が行政・軍事・文学の中心言語として地位を固めた一方、モン語・シャン語・アラカン語(ラカイン)、カレン諸語など多言語が共存し、宮廷では翻訳・通訳の官が活躍しました。捕虜・移住民の集住は異文化の接触を生み、料理・衣装・音楽に多層的な混淆をもたらします。教育では寺子屋的な僧院教育が識字の基盤を形成し、19世紀後半には宣教師学校や印刷所が新しい知の回路となりました。近代的行政への移行期に、古来の文書行政・度量衡・貨幣制度が再設計され、植民地期の統治装置の基屎ともなります。
他方で、戦争捕虜の強制移住や労役、地方社会の負担、辺境の反乱と鎮圧は、国家形成の陰影として記憶されます。王権の保護と収奪の両義性は、仏教守護者としてのイメージと現実の政治のギャップを内包し、19世紀の外圧の前に制度疲労が露呈しました。英領化後、王都は行政・経済の重心を失いますが、マンダレーは文化の都として機能し続け、工芸・仏教儀礼・都市景観が今日のミャンマー社会に不可欠の遺産を残しました。
総じて、コンバウン(アラウンバヤー)朝は、分裂の収拾と拡張、宗教国家としての統治、外圧との対峙、近代化の模索、そして植民地化という劇的な弧を描いた王朝でした。王都の遺構や文献、演劇と儀礼に刻まれた記憶を手掛かりに、そのダイナミクスをたどることは、東南アジアの地域秩序と近代の出会いを理解する上で有益です。

