郷紳(イギリスのジェントリ、landed gentry)は、中世末から近代にかけて、貴族(ピアレッジ)ではないものの、相当規模の土地と家産、教育と名望を備え、地方社会と国家運営に大きな影響力を持った層を指します。伯爵や男爵のように世襲の貴族院議員資格を持つピアではありませんが、治安判事(Justice of the Peace)や郡の陪審、地方行政、下院(庶民院)議員などの役割を通じて公的領域に深く関与しました。彼らは荘園経営や小作地の賃貸で収入を得て、カントリーハウスを拠点に地域の慈善・教育・道路整備を支え、社交においては紳士文化と礼節を体現しました。イングランド・ウェールズを中心とし、スコットランドではラード(laird)が近い概念です。歴史の長い射程で見ると、ジェントリは中世騎士身分の後裔から台頭し、囲い込みや農業改良、議会政治の発展、産業革命、帝国の拡大と縮小をくぐり抜け、20世紀には相続税・農業不況・戦争動員を経て形を変えつつも文化的影響を残しました。
概念・身分構造・語の使い方
ジェントリは「郡社会の上層」を広く指す呼称で、厳密な法的身分ではありません。構成は多層的で、爵位を持たない大地主(squire、country gentleman)、準貴族的な称号であるバロネット(baronet)やナイト(knight)、法曹・聖職などの専門職で土地を取得して郷紳化した家も含まれます。戸籍や戸主税ではなく、社会的実態と名望の総体が彼らを区分しました。称号では「Esq.(エスクワイア)」が書簡の宛名や名簿に付され、ジェントルマン(gentleman)は礼節と自立収入を持つ紳士の一般称として広く用いられました。
貴族(ピア)との違いは、上院(貴族院)に世襲で座る権利の有無、家格、宮廷儀礼での序列にあります。ジェントリは政治的にも社会的にも貴族と近接し、縁組や後援を通じてピラミッドをなしましたが、原則としてピアではありません。一方で、農民・小作層や独立自営農のヨーマン(yeoman)より上位に立ち、領地の運営と地域秩序の維持を担いました。スコットランドではラードが類似層で、氏族と判事権限の伝統が重なります。
女性もジェントリの一員として重要な役を果たしました。女相続人(heiress)は家名と土地を他家にもたらし、持参金と縁組は家の戦略でした。未亡人は荘園管理や慈善を取り仕切り、書簡・家計簿・料理書・庭園台帳などの記録に、家政と地域関係の中枢を担った姿が残ります。教育は家庭教師や寄宿学校を通じて受けられ、音楽・刺繍・語学が教養の指標となりました。
歴史的形成:中世後期から近世へ
ジェントリの源流は、中世の騎士身分と下級貴族にあります。14~15世紀、長弓戦術と貨幣経済の進展、黒死病後の労働市場の変動により、封建的奉仕のあり方が変質しました。軍事奉仕は金銭補償(スカテージ)へと置き換わり、王権は治安と徴税において地方の名望家に依拠するようになります。これが治安判事制度と郡行政の整備につながり、土地を基盤とするジェントリが制度的役割を得ました。
16世紀、チューダー朝の宗教改革と修道院解散は、大量の教会財産を市場に放出し、新興の郷紳層が台頭する契機となりました。囲い込み(エンクロージャー)によって牧羊と羊毛生産、後には輪作・改良品種の導入が進み、荘園の収益性が増します。これらの改革により、ジェントリは地代・畜産・副業(粉ひき、醸造、木材など)を組み合わせる複合経営へと歩み、現金収入と投資能力を高めました。
17世紀には、ジェントリが議会政治の中心的人材供給源となります。清教徒革命(イングランド内戦)では、郡ごとにジェントリが軍事・財政を組織し、議会派・王党派へ分かれて指導層を形成しました。革命後の共和政と王政復古、1688年の名誉革命を通じて、課税と軍事の同意原則が確立し、議会主権の基盤が固まります。その過程で、ジェントリは郡選挙区で影響力を強め、選挙運動・利益誘導・後援(patronage)の技法を洗練させました。
郷紳の経済:土地経営と改良、産業との接続
ジェントリの経済的柱は土地です。収入の多くは小作からの地代で、長期契約の改訂や評価替え(リバリュエーション)を通じて収益を維持しました。18世紀の「農業革命」では、ノーフォーク四圃式輪作、カブ(飼料ビートに先立つ飼料根菜)・クローバーの導入、囲い込みの法制化(議会囲い込み)によって地力が増し、家畜肥育が高度化しました。ジェントリは農事会合・品評会・農事書の刊行を後援し、品種改良や排水工事、道路(ターンパイク)の整備に投資しました。
一部の家は鉱山・製鉄・石炭・運河運営へ資本を拡げ、産業革命の初期段階で利潤を得ました。収益の分散は、穀物価格の変動や天候リスクへの保険でもあります。他方、19世紀後半の世界市場統合と穀物の輸入自由化は、地代に打撃を与え、農業不況(Agricultural Depression)を招きました。ジェントリは狩猟権・厳格な賃貸契約・債務の再編で対応しましたが、長期的には都市不動産・株式・鉄道社債・商業投資へ移行する家が増えました。
財産保全の法的仕組みとして、長子相続(プリモジェニチャー)とアントレール(entail:不動産の分割・売却制限)が機能しました。これにより家産の分散が抑えられ、家の連続性が担保されましたが、次男以下の生活基盤として軍務・聖職・植民地行政・法曹などが定番化し、帝国内の職位がジェントリ子弟の就職口となりました。
政治・行政:郡社会と国家をつなぐ
ジェントリは、郡治安判事(JPs)として四季裁判所(Quarter Sessions)を運営し、治安・道路・橋・酒場免許・救貧政策などを所管しました。1834年の新救貧法以前、救貧税(poor rate)の課税・配分はジェントリの裁量に大きく依存し、救貧院の設置や監督にも関与しました。郡副督(Lord Lieutenantの下で民兵指揮)や郡書記、治水委員など、半官半民の職が郷紳の公益活動の舞台でした。
庶民院(House of Commons)では、18世紀のいわゆる「スクワイアラキ―(squirearchy)」が地域選挙区を掌握し、選挙費用の肩代わり、酒宴や交通の提供、地元利権の斡旋で支持を固めました。腐敗選挙区(rotten boroughs)やポケット・ボローを通じて議席が売買される一方で、反対党派の動員と政治クラブも広がり、政党政治の胎動を促しました。1832年・1867年・1884年の選挙法改正で有権者が拡大すると、ジェントリは政党組織や地方新聞、集会の説得術へ適応し、名望家政治から動員政治への転換を経験しました。
地方制度の面では、1888年の郡自治法・1894年の教区評議会法で、民選の郡評議会・地区評議会が成立し、治安判事の行政権限は縮小しました。これにより、郷紳の「無給の公職者」モデルは再定義され、慈善・教育・保存運動(歴史建造物や景観の保護)へ軸足を移す家も多くなりました。
生活文化:カントリーハウス、礼節、社交
ジェントリの象徴は、郊外・田園に構えるカントリーハウスです。煉瓦や石造の堂々たる邸宅に、鹿公園、庭園(フォーマルガーデンからランドスケープへ)、温室、馬小屋、狩猟小屋が付属しました。屋敷は経済・政治・文化のハブであり、年中行事として収穫祭、狩猟期の社交、慈善バザーが開かれました。家政は執事・家令・料理長・メイド・庭師などの使用人によって支えられ、来客の饗応と礼節が家の格を示しました。
紳士の気風は、礼儀・スポーツマンシップ・慈善・自制を重んじました。乗馬、猟(フォックス・ハンティング、ハンティング・シューティング・フィッシングの三点セット)、クリケット、アーチェリー、音楽室での演奏や読書が余暇の中心でした。クラブ(ロンドンのジェントルメンズ・クラブ)への所属は、人脈形成と情報交換の場であり、議会や官庁と結びつく上流社会の回路でした。教育はパブリックスクールと呼ばれる寄宿学校、オックスブリッジ進学が理想とされ、古典学と人格形成が紳士教育の核心に据えられました。
家の自己表象として、家系図・紋章・記念碑・家訓が整えられ、旅行記や日記、書簡集が多数残りました。カントリーハウスの建築様式は、エリザベス朝からジョージアン、ヴィクトリア朝へと変化し、内部のギャラリーは肖像画や祖先の記憶、帝国各地からの収集品で満たされました。料理書・家政書は、倹約と慈善、季節の食材利用を説き、家政の合理化が18~19世紀に進みます。
19~20世紀:変容と持続
19世紀後半、穀物の輸入自由化と農業不況、都市化と産業資本の台頭は、地主収入を圧迫しました。1870年代以降、北米やロシアから安価な穀物が流入し、小作地からの地代が低下します。これに対して、狩猟権収入の活用、賃貸条件の緩和、屋敷を社交・観光に開く動きが現れました。地方鉄道の発達は、都市ブルジョワが田園に別荘を求める潮流を生み、古い家と新興富裕層の結婚(いわゆるドル・プリンセスとの縁組)も家計の再建に寄与しました。
第一次世界大戦は決定的な転機でした。相続税(death duties)の引き上げ、戦時の穀物統制、労働力の流出、戦死による跡継ぎ喪失は、家産維持を困難にしました。多くのカントリーハウスが売却・解体され、土地は分割・開発されました。戦後、ナショナル・トラストや各地の保存団体が、歴史的屋敷と景観の保護に乗り出し、観光・文化資産としての再生が試みられます。第二次大戦期には屋敷が病院・学校・軍施設として転用され、戦後の福祉国家化と地方行政の専門職化が、郷紳の「無給名誉職」的役割をさらに縮小させました。
それでも、ジェントリの文化は形を変えて残りました。田園紳士のライフスタイル、狩猟と庭園文化、慈善とボランティア、公的奉仕の倫理は、現代の地方名望家や慈善財団、文化保存運動に受け継がれています。法律上の身分としての特権は薄れましたが、学校歴・社交資本・家産管理の技能は、企業経営や公職、国際機関で活躍するエリート文化へと接続されました。
比較視角と用語上の注意
「ジェントリ」は国や時代で含意が変わります。フランスの「ノブレス・ド・ローブ(法服貴族)」やドイツのユンカーは、国家官僚制や軍役に強く結びついており、イングランドのジェントリよりも法的身分色が濃い傾向があります。中国史の郷紳は、科挙資格と宗族・村落統治を担う名望家層であり、イギリスのジェントリに機能面で通じる点(地方統治の担い手・公益の支援・名望政治)はあるものの、選抜制度・法秩序・所有形態が異なります。
イギリス内部でも、イングランドとスコットランド、アイルランドでは制度や慣行に差があり、ラードやアングロ・アイリッシュ地主は、家臣団や地代体系、宗教・民族問題と密接に絡みました。用語上は、peer(貴族)とgentry(郷紳)を混用しないこと、baronetやknightがピアではなくジェントリ側に属する点、esquireやgentlemanが礼節と身分指標として柔らかく用いられる点に注意が必要です。
社会移動の回路としては、法律家・医師・商人・工場主が土地を購入してジェントリ化する上昇経路と、古い家が財政難で土地を売却し、都市資本に吸収される下降経路が併存しました。帝国期には植民地での行政・プランテーション経営・軍歴が名誉と財産をもたらし、帰国後のジェントリ化を促しました。逆に、20世紀には専門職・企業幹部・メディア文化資本が新たな上層を形成し、土地中心の上層という意味でのジェントリは縮小していきます。
以上のように、イギリスの郷紳(ジェントリ)は、土地所有と公的奉仕、礼節と社交を柱に、地方社会を束ねて国家政治へ接続する役割を長く担ってきました。その実像は時代ごとに変容しながらも、家産の管理術、人脈運用、公共性へのコミットメントという核を保ち続け、今日のイギリス社会の文化的景観にも影を落としています。

