金(きん、1115–1234年)は、女真(じょしん)を主体として満洲から華北を支配した王朝です。東北アジアの騎馬世界に根を持ちながら、中国的な官僚制度や文教を受け入れ、北宋を滅ぼして中原を統治し、のちにモンゴル帝国の圧迫の中で滅亡しました。遼(契丹)と宋という二大勢力の間に割って入って台頭したこと、女真の伝統的軍制と漢地の行政・財政を二重に運用したこと、印刷・都市・商業が発達した華北社会を受け継ぎつつも戦時体制に翻弄されたことが、大きな特徴です。金は、北方諸民族と漢地王朝の間をつなぐ存在として、東アジア秩序のダイナミズムを体現しました。以下では、起源と建国、宋との戦争と華北統治、社会・文化・制度の実像、モンゴルの侵攻と滅亡という観点から、わかりやすく整理して解説します。
起源と建国:女真の連合から王朝へ
金の基層は、満洲(黒龍江・松花江流域)に生活した女真諸部です。彼らは狩猟・漁撈・牧畜・雑穀農耕を組み合わせ、部族連合の首長が季節的移動と交易を取り仕切りました。11世紀末、完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アグダ)が女真諸部を糾合し、契丹の遼に従属していた構造からの離脱を目指します。1114年の蜂起は連戦連勝となり、1115年に「金」建国を宣言しました。国号の「金」は、女真語の本拠地に流れる阿什河の上流域・按出虎水(按春=金)にちなむ、あるいは遼の「鉄」に対して金を掲げたなど諸説があります。
金はまず遼を主敵と定め、南の宋と提携します。1120年、宋との間に「海上の盟」を結び、遼を南北から挟撃する構えを整えました。金軍は騎射と機動力に優れ、遼の首都上京臨潢府や南京(燕京)を攻略し、契丹の主力を解体します。遼の残余(いわゆる天祚帝政権)は西へ逃れて西遼(カラ・キタイ)を樹立しますが、華北の覇権は金に移りました。
この時期の金は、女真固有の軍制・社会組織を保ちました。基本単位は「猛安・謀克」と呼ばれる軍事行政区で、猛安が千戸、謀克が百戸に相当します。これは兵農未分の共同体を単位に兵役・租税・裁判を統合管理する仕組みで、遊動と定住が重なった生活に適応していました。一方で、華北支配に進むにつれ、漢地官僚制・法令・租税体制を導入する必要が高まり、二元的な統治構造が形作られていきます。
宋との戦争と華北統治:北宋滅亡から南宋との和戦
遼を滅ぼした金は、提携していた北宋に対しても攻勢を強めます。宋側の軍事的脆弱と内政の混乱、盟約履行をめぐる不信が重なり、1125年に金は宋への本格侵攻を開始しました。1126〜27年、金軍は黄河を越えて宋の都・汴京(開封)を包囲・陥落させ、徽宗・欽宗の両皇帝ほか多数の皇族・官僚・工芸工人を北へ連行しました(靖康の変)。北宋は滅亡し、江南へ退いた高宗が臨安(杭州)に南宋を立てます。
金は華北に対して直接支配を敷き、首都を上京会寧府(現黒竜江省哈爾浜近郊)からまず燕京(中都、大都=北京の前身)へと南下させ、さらにモンゴルの圧迫後には汴京へ遷都します。華北の行政は、既存の州県制・科挙・律令の枠組みを活用しつつ、女真・契丹・漢人の複合社会として再編されました。漢地の行政・財政には、戸口調査(戸籍)と土地台帳、田租・丁税の徴収、塩鉄や茶の専売、関市の管理など、宋以来の制度が引き継がれ、貨幣経済や市場ネットワークの維持が重視されました。
南宋との関係は、戦争と講和の往還でした。金の侵攻に対して、南宋は岳飛・韓世忠らの抵抗で長江防衛線を固め、長江下流の水軍力・火器(火槍・霹靂砲)の運用で優位を確保します。1161年、海陵王(完顔亮)の大規模南侵は、長江の采石・蕪湖付近の水上戦で南宋に敗れ、金の南進は座礁しました。のちに高宗—孝宗期、両者は淮河を境とする講和(紹興和議→隆興和議→嘉泰和議)を重ね、戦線は安定します。南北の対峙は、互いの経済復興・文化発展を促す一方、辺境の民生と治安に重い負担を残しました。
金の華北統治では、反乱・再編・同化が同時進行しました。契丹人の残存勢力や宋の旧軍による抵抗は断続的に続き、金は軍事移住(屯田)・堡塁建設・交通路の整備で対処します。他方、華北の大都市(中都、汴京、洛陽、鄭州など)は、手工業・商業・印刷の拠点として再生し、陶磁・染織・鉄器の供給と穀物流通を担いました。市舶・漕運・驛伝のネットワークは、戦時の兵站と平時の流通を両立させる生命線でした。
社会・文化・制度:二重国家の設計と「中国化」
金の政治は、女真の伝統と漢地の制度を重ねる「二重国家」の設計でした。上層は女真貴族・部族首長が占め、猛安謀克を通じて軍事・徴発・司法を掌握します。漢地の民政では、州県官・転運使・提刑司など宋由来の官僚機構を整え、十数世紀以来の律令・令式の運用を継承しました。皇帝の側近には女真・契丹・漢人の参謀が併置され、言語・法・慣習の差を調停する合議が必要でした。
文教面では、女真文字の創製(12世紀前半)が進められ、契丹文字や漢字の影響を受けた表音・表意の折衷体系が整えられました。女真語の公文書・詔令・碑刻が残り、王朝の自意識を示します。並行して、漢文文化の受容は急速に進み、科挙(進士科など)の実施、学校(州県学・太学)の整備、史書・律令の編纂、仏教・道教の保護が行われました。とりわけ世宗(在位1161–1189)・章宗(在位1190–1208)の時期は、穏健な内政と文治の時代とされ、政治犯の寛宥、税制の調整、屯田と水利の整備が進みました。
経済・金融では、銅銭不足への対応として鉄銭や紙札の発行、銀の計価(重量貨幣)利用が併用され、塩・茶・酒の専売と関税が財政の柱でした。印刷業は宋代の遺産の上にさらに発達し、医書・類書・文集の刊行、寺院版の出版などが盛んでした。北方窯(磁州窯、定窯系)の陶磁、絹・麻の織物、冶金・鍛冶の技術は、戦争需要と都市需要の双方に応えました。市舶・商税の記録には、契丹・女真・漢人に加え、回鶻・党項・高麗・西域商人の名も見え、北アジア—中原—オアシスの多彩な流通が実態として存在していたことがわかります。
社会構成は多民族的でした。女真・契丹・漢人(北人系)・渤海系・高麗人などが都市・農村に混住し、婚姻・官職任用・軍役において身分的区分が設けられつつも、世代を重ねるごとに相互浸透が進みます。狩猟祭祀やシャーマン的儀礼と、儒仏道の礼法が並存し、宮廷文化には北方の宴飲・弓馬・鷹狩と、漢地の詩文・書画・礼楽が接続されました。法律は女真の慣習刑と漢地の律令刑の調整が課題で、盗賊・軍律・戸婚・土地争論など、境界領域の紛争解決が官僚実務の核心でした。
モンゴルの侵攻と滅亡:中都陥落から蔡州終焉へ
13世紀初頭、モンゴル帝国が草原を統一し、1211年から金への攻撃を開始します。金内部では、南宋との講和・同盟を模索する動きと、対宋強硬・北方軽視の路線が交錯し、戦略は迷走しました。1214年、モンゴル軍が中都(燕京)を圧迫すると、金廷は講和ののち、首都を汴京(開封)へ遷す決断を下します。これは政治・象徴面では漢地支配の正統化を狙った一手でしたが、北方の失地と士気低下を招きました。1215年、中都は陥落し、華北の広範がモンゴルの支配下に置かれます。
以後、金は黄河—淮河—山東の間で持久戦を強いられ、飢饉・疫病・反乱が頻発しました。モンゴル勢は屡々大軍で侵入し、堡塁・城塞を連鎖的に破壊しつつ、投降者を編入して兵站を維持しました。南宋は当初中立や静観を保ちますが、1233年にはモンゴルと連携して黄河南岸の拠点を攻略します。1234年、金の哀宗は蔡州(河南南部)で包囲され、城の陥落直前に自殺して王朝は滅亡しました。これにより、華北—黄河流域はモンゴルの支配下に入り、つづく元朝の統一事業へ道が開かれます。
金滅亡の要因は、(1)北方機動戦に不向きな定住財政の重み、(2)猛安謀克と州県制の二重構造が長期戦で摩耗したこと、(3)対宋・対モンゴルの二正面対応の失敗、(4)気候・疫病・飢饉による社会疲弊、などが挙げられます。他方、金が築いた都市・水利・文教の基盤は、のちの元・明に継承され、女真社会の経験は、後の建州女真(満洲族)による清の興起にも間接的な遺産を残しました。
総じて、金は北方遊動社会の軍事エネルギーと、漢地文明の制度合理性を接合した「複合国家」でした。遼の衰退と宋の脆弱を衝いて中原を掌握し、南宋との対峙のなかで戦争と行政の両立を試み、最後はモンゴルの草原型帝国の前に屈しました。にもかかわらず、女真文字の創製、科挙の復活、都市・商業の再編、文治政治の試みなど、その歴史的意義は小さくありません。金の歩みを追うことは、東アジアの国際秩序が〈草原—農耕—海洋〉の三世界のせめぎ合いで動いてきたことを理解する近道になります。戦争の陰にある行政実務・経済ネットワーク・文化翻訳の営みまで視野を広げることで、金という王朝の立体像が見えてきます。

