クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan、KKK)は、南北戦争後のアメリカで誕生し、白人至上主義・人種主義・排外主義を掲げて暴力と脅迫で政治・社会をゆがめてきた結社の総称です。誕生以降、いくつかの「波(第一・第二・第三…)」として復活と退潮を繰り返し、黒人(アフリカ系アメリカ人)へのテロを中心に、ユダヤ人・カトリック・移民・左派・フェミニスト・LGBTQなど広範な人々を敵視してきました。州法・連邦法によって直接的なテロ行為は処罰の対象であり、現在のクランは細分化・弱体化した小規模団体の集合にすぎませんが、インターネット時代の過激主義の一形態として残存し、憎悪犯罪や政治的暴力の温床となる危険が指摘されています。本稿では、成立と変遷、思想・儀礼・組織、暴力と法的対応、20世紀後半以降の断続的活動と現在までの影響を、分かりやすく整理します。
成立と第一の波:再建期のテロ組織として
KKKは1865年、テネシー州プラスキで南軍退役兵の小グループが結成した秘密結社に端を発します。名称はギリシア語で「輪」を意味するkuklosに由来すると言われ、のちに擬似的な古典・中世風の神秘性を装う言語遊戯が多用されました。南北戦争後の再建(リコンストラクション)期、合衆国憲法修正第13〜15条が奴隷制廃止・市民権・選挙権を保障すると、南部各地では白人至上主義者の抵抗が激化します。第一期クランは、夜襲(ナイト・ライド)・リンチ・放火・鞭打ち・脅迫状・覆面行動などの暴力で、黒人の投票・就学・就労、共和党員や北部出身者(スキャラワグ・カーペットバガー)の政治参加を妨害しました。
連邦政府は1870〜71年の強制法(Enforcement Acts)で、選挙妨害・結社的テロに対する連邦の捜査・訴追権限を強化し、グラント政権下で軍の介入・連邦陪審による起訴が行われました。これにより第一期クランは一時壊滅に近い打撃を受けます。しかし、制度化された人種主義(ジム・クロウ法)と暴力の文化は南部社会に根を下ろし、リンチと差別は20世紀半ばまで続きました。第一期のKKKは中央集権的な全国組織というより、地元の「クラバーン(支部)」の緩い連合で、象徴としての白衣・円錐形フード・馬上行進などが広まった段階でした。
第二の波:1910〜20年代の大衆化と政治浸透
1915年、映画『國民の創生(The Birth of a Nation)』が公開され、クランを南部の秩序回復者として美化するイメージが全米に拡散しました。同年、アトランタ近郊のストーン・マウンテンで復活宣言が行われ、第二期クランが誕生します。第二期は第一期と異なり、全国規模の有料会員制度、広告・PR・勧誘(カイト・システム)を駆使した大衆運動化が特徴です。標的は黒人差別にとどまらず、反移民・反カトリック・反ユダヤ・禁酒支持・「家族の道徳」強調と、プロテスタント系ナティヴィズムの総合パッケージに拡張されました。
第一次世界大戦後の社会不安と移民急増、都市化と価値観の変化は、クランの動員に適した環境でした。会員は推計で数百万人規模に達し、南部だけでなく中西部・西部にも支部が広がります。1925年には首都ワシントンD.C.で大規模行進を実施し、地方政治・州議会・治安機関・教育委員会に影響力を及ぼしました。白衣の儀礼とともに、十字架燃焼(クロス・バーニング)が象徴行為として普及します。これはスコットランドの民俗やロマン主義の誤読を混ぜた新造儀礼で、威嚇の視覚効果が重視されました。
他方で、内紛と腐敗、暴力事件、そしてインディアナ州の指導者D.C.ステファンソンによる女性暴行致死事件(1925年)が世論の反発を招き、会員は急減します。禁酒法の破綻、1920年代末の経済危機も追い打ちとなり、第二期は1930年代には下火となりました。
第三の波:公民権運動への暴力的抵抗と分派化
第二次世界大戦後、公民権運動が進展すると、クランは再び苛烈な暴力へ傾きます。1950〜60年代、学校統合反対・投票権運動の妨害・活動家への暴行・爆破が各地で発生しました。アラバマ州バーミングハムの第16街バプテスト教会爆破事件(1963)は少女4人の命を奪い、クラン関係者が後年有罪となりました。フリーダム・ライダーズへの襲撃、ミシシッピの3公民権活動家殺害(1964)なども広く知られています。
この時期、暴力的民兵型のクランと、表向き合法主義を装う保守団体(例:白人市民会議)とが役割分担する局面もありました。連邦政府はFBIの潜入調査・公民権法(1964)・投票権法(1965)などの法執行で対抗し、連邦大陪審・司法省の民権局がリンチや選挙妨害の訴追に動きました。マーティン・ルーサー・キング牧師ら非暴力運動の広がりと、テレビ報道による暴力の可視化は、社会の支持を公民権側へ引き寄せ、クランの正当化余地を狭めました。
1960年代後半以降、クランは多派閥への断片化が進み、名称にKKKを冠する小団体や、白人至上主義ネットワークの一部としてのネオナチ・スキンヘッド・ミリシアとの連携が見られるようになります。1970〜80年代にはテレビ討論に登場して影響力を誇示しようとした人物(例:デヴィッド・デューク)も現れましたが、長期的には訴訟・民事賠償・ヘイトクライム法の整備、地域社会の監視や市民団体のカウンターによって活動は抑え込まれていきました。
思想・組織・儀礼:白衣・フード・疑似宗教的演出
クランの基本思想は、白人至上主義と排外主義、プロテスタント原理主義的な道徳観、陰謀論的世界観の組み合わせです。アメリカは白人プロテスタントの国であるべきだという前提から、黒人解放、移民の増加、カトリックやユダヤ人の台頭、フェミニズムやLGBTQの権利拡大などを「堕落」とみなし、暴力や威圧で押し返そうとします。儀礼は疑似宗教的で、白衣・フード・十字架燃焼・宣誓・秘密の称号(インペリアル・ウィザード、クレーグルなど)・暗号風の語彙(クーリオグラフィー)を伴い、メンバーの結束と威嚇効果を高める意図を持ちます。
組織は歴史的に分権的・断片的で、中央による統制力は弱く、地域ごとの指導者や派閥が勝手に名乗ることが一般的でした。資金源は会費・衣装販売・イベント・寄付などで、第二期には入会金ビジネスが拡大しました。現在では、オンライン上での宣伝・勧誘・周辺グッズの販売が試みられますが、社会的孤立と法的圧力の下で持続性は乏しいのが実情です。
法と社会の対応:強制法、公民権法、民事訴訟と監視
KKKの思想表明そのものは、米国憲法修正第1条の表現の自由に一定範囲で保護される場面がありますが、暴行・脅迫・放火・殺人・選挙妨害・組織犯罪などの行為は州・連邦法で厳格に処罰されます。1870年代の強制法に始まり、1960年代の公民権関連法、近年のヘイトクライム法の整備は、クラン型暴力の訴追を容易にしました。〈表現の自由〉と〈差別的脅迫の禁止〉の境界は判例で調整され、「真の脅迫」「差し迫った違法行為の扇動」に該当する言動は保護されません。
また、民事訴訟は、有力な抑止手段として機能してきました。被害者や市民団体が、クランや同調団体に対して損害賠償や活動差止を求め、組織の財政を破壊する戦術は一定の成功を収めています。民間の監視団体や学術機関は、ヘイト・グループの動向を継続的に記録し、警察や地域コミュニティと連携して被害の未然防止と教育啓発を行っています。
現在と残滓:断片化した小団体、ネット時代の過激主義
21世紀のKKKは、小規模・高齢化・分断化が顕著で、名称にKKKを冠しない白人至上主義ネットワークの中に埋没する傾向があります。インターネットは、匿名性と拡散性を武器に、歴史の歪曲・陰謀論・ヘイトを広める新しい回路を提供しました。Klan系の象徴や語彙は、しばしば他の極右サブカルチャーと混ざり、ミームや匿名掲示板、暗号通貨による資金集めに流用されます。他方で、プラットフォームの規約強化・アカウント停止・決済遮断・検索エンジン最適化によるデプラットフォーム化が進み、オンラインでの可視性は一定程度抑制されています。
社会全体の課題としては、憎悪犯罪の通報・記録・統計の精度、市民教育(メディア・リテラシーと歴史教育)、地域での対話・包摂政策の強化が挙げられます。KKKの残滓は、特定の制服や儀礼というより、人種主義的暴力と排外主義の反復として現れるため、法執行とともに、社会的包摂・貧困対策・地域の信頼回復を含む長期的対策が不可欠です。
象徴と文化表象:神話化と批判的再解釈
クランをめぐる文化表象は、20世紀初頭には美化・神話化の対象となりましたが、今では圧倒的に批判的再解釈が主流です。映画・文学・記録写真・裁判記録・博物館展示は、被害者の証言と地域社会の抵抗を前面に押し出し、リンチの記憶を可視化してきました。記念碑や地名の見直し、学校教育での人権学習、メディアの倫理規範は、暴力の過去と向き合う努力の一環です。白衣や十字架燃焼は「恐怖の象徴」として語り直され、被害の歴史を忘却から救い出す媒体になっています。
まとめ:暴力と排外の連鎖を断つために
クー・クラックス・クランは、アメリカ史における民主主義の否定例として記憶されるべき存在です。第一期は再建期のテロ、第二期は大衆運動としての排外主義、第三期は公民権運動への暴力的抵抗—これらはいずれも、法の支配と市民平等を破壊するものでした。現在のクランは断片化した周縁勢力にとどまりますが、憎悪と暴力は形を変えて再登場し得ます。歴史の検証と教育、法的抑止、地域の包摂的ガバナンスを組み合わせることが、同種の運動の再拡大を防ぐ最も現実的な方策です。クランを学ぶことは、自由と平等を守る仕組みがいかに脆弱で、そしてまた回復可能であるかを理解するための手がかりになるのです。

