クチャ(亀茲〈きじ〉、Kucha/Kuci)は、タリム盆地北縁に広がるオアシス都市国家で、シルクロード北道の要衝として古代から中世にかけて繁栄した地域です。ムザルト川が運ぶ水で灌漑された緑地帯に城郭都市と寺院が並び、キャラバンの往来とともに、言語・音楽・美術・仏教思想が交差しました。漢帝国以来「西域」の主要勢力として記録され、唐代には安西都護府の拠点の一つとなり、やがてイスラーム化を経てトルコ系世界へ統合されます。クチャの名は、托鉢僧や学僧、楽舞の名手、そして色鮮やかな石窟壁画(キジル千仏洞)で知られ、中央アジアと中国、インド世界の接点に立つ「文化の結節点」として世界史に刻まれています。ここでは、地理と名称、言語と人々、歴史の推移、仏教と芸術、音楽と舞踊、都市と経済、遺跡と研究史、意義と射程を分かりやすく整理します。
地理・名称・言語:タリム北道のオアシスに育つ「交差点」
クチャは、天山山脈の支脈から流れ出るムザルト川(庫車河)によって潤う扇状地のオアシスに位置します。北は天山の峠道(ムザルト峠)を越えてイリや七河流域へ、南は砂漠縁の北道を西へ進めばアクス—カシュガル、東へ進めばカラシャール(焉耆)—トルファン—敦煌へ達します。乾燥気候ながら、川沿いには桑や葡萄、小麦や粟、綿などの作物が栽培され、周囲の砂礫地には隊商路が網の目のように伸びました。
中国史書では「亀茲」「丘慈」「庫車」などと記され、ギリシア・ローマ側の記録ではキオーチア(Kiocha)に比定される場合もあります。言語はインド・ヨーロッパ語族に属するトカラ語B(クチャ語)が中世初頭まで用いられ、梵語・ガンダーラ系プラークリット・ソグド語・漢語などと共存しました。現地文書や仏教写本に残るトカラ語Bは、印欧語比較言語学の宝庫であり、僧院・商館・官署が多言語運用の場であったことを示しています。住民構成は、在地のインド・ヨーロッパ系を核に、ソグド商人、イラン系・トルコ系・漢地出身者が出入りする複合社会でした。
歴史の推移:漢代の強国から唐の安西、イスラーム化へ
前漢・後漢期、亀茲は西域三十六国の中で最大級の勢力を誇り、しばしば隣国や匈奴・漢の間で自立的な外交・軍事を展開しました。後漢末〜魏晋南北朝期には、仏教受容とともに都城・寺院が整備され、僧団と王権が相互に依存する体制が成立します。4世紀には、クチャ系の学僧・訳経僧が活躍し、インド・ガンダーラと中国を結ぶ「教理の回廊」となりました。
7世紀、唐王朝が西域政策を強化するなかで、亀茲は唐軍の遠征を受けます。648年、唐の阿史那社爾らが亀茲を攻略し、国王は降伏、のち安西都護府の駐在拠点の一つとして再編されます(安西はのちに亀茲・焉耆・于闐・疏勒の四鎮をめぐって移転)。唐は城塞と官衙、駐屯軍を置き、交通・租税・司法を整えました。8世紀に入ると、吐蕃(チベット帝国)や突厥・回鶻(ウイグル)とのせめぎ合いが激化し、西域は多極化します。
10世紀、回鶻系の諸勢力やカラハン朝(トルコ系イスラーム王朝)がタリム盆地へ勢力を伸ばすと、クチャも徐々にイスラーム化し、言語・信仰・法制度の面でトルコ系世界に統合されてゆきます。モンゴル帝国期には察合台 ulus の一角として隊商と課税のシステムに組み込まれ、以後の新疆史の文脈に接続します。こうした政治的変遷のなかでも、石窟・寺跡・写本は「仏教都市だった時代」の層を留め、地域の記憶を今日に伝えています。
仏教と芸術:キジル千仏洞、スバシ仏寺、そして訳経の系譜
クチャの文化的象徴は、なんといってもキジル千仏洞(克孜爾石窟)の壁画群です。3〜8世紀頃にかけて開削された数百の石窟には、仏本生譚・説法図・供養者・天人・飛天・蔓草文様が鮮烈な彩色で描かれ、インド・イラン・ヘレニズム由来のモチーフが、クチャ的な色面と線描で再構成されています。天蓋の幾何学文様、深い群青や辰砂の発色、尖頭アーチの連続は、ガンダーラやバーミヤーンの表現と呼応しつつ、独自の動きとリズムを生み出しました。壁画の周囲には、施主名や祈願文を記した書記が残る窟もあり、寄進と制作の社会的プロセスを教えてくれます。
オアシス北東の高台に広がるスバシ仏寺(蘇巴什故城)は、僧坊区・講堂・仏塔基壇が広大に展開する寺院遺跡で、僧団生活と儀礼空間のスケールを物語ります。ここから出土した塑像片・木簡・写本断簡には、トカラ語Bやサンスクリット、漢語の記録が併存し、経蔵・戒壇・講学の機能が読み取れます。
訳経の系譜では、クチャ出身(あるいはクチャ文化圏で育った)名僧鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が特筆されます。父はインド系の学僧、母はクチャの王族系女性とされ、幼少期にクチャで学問を積んだのち、西域・敦煌を経て前秦・後秦の長安へ赴き、漢訳仏典の金字塔を築きました。彼の文体は「羅什訳」として尊ばれ、『中論』『法華経』『大智度論』などの標準訳は東アジア仏教の教理を形作ります。羅什の背後には、サンスクリット・ガンダーラ語・トカラ語・漢語を横断する多言語環境と、クチャの学僧ネットワークがあり、都市が「翻訳の場」として機能したことがわかります。
音楽・舞踊・演芸:唐代宮廷を席巻した「龜茲楽」
クチャは楽舞でも名高く、中国側史料にたびたび「龜茲楽(くじがく)」として登場します。拍節の明快さ、旋回する舞、鮮やかな衣装と仮面、打弦楽器と横笛・打楽器の合奏が特徴で、唐代長安の雅楽・教坊に受け入れられて宮廷・都市の娯楽を彩りました。とりわけ撥弦楽器の琵琶(当時は横抱え=横抱き琵琶)や、弓を持つ舞人、面具をつけた滑稽役など、石窟壁画や墓室壁画に描かれる演者像は、クチャ起源の芸能要素をよく示します。
「胡旋舞」と呼ばれる高速回転の舞、「胡騰児」に象徴される軽業的演技、拍子木・鉦鼓・腰鼓のリズムは、シルクロード由来の都市文化の華でした。音階と旋法は、西域のイラン系音楽伝統と漢地の音律との混交の産物で、作曲・記譜・楽器製作の面でも革新を促しました。唐の楽府は、龜茲・疏勒・于闐・高麗などの外来楽を編成して「十部伎」へと整理し、その中核にクチャ楽が据えられます。クチャの楽人は宮廷のほか市井の教坊・酒楼でも活動し、舞楽は宗教行事・祭礼・葬送の場にも広がりました。
都市社会と経済:オアシス農耕、隊商、課税と安定装置
クチャの経済基盤は、灌漑に支えられたオアシス農耕と、隊商交通の管理にありました。水路の分配と用水権の調整は村落共同体と王権・官僚の協働で運営され、麦・粟・豆・葡萄・桑・綿が主要作物でした。桑と養蚕は絹織物の生産につながり、隊商への供給品・贈答品・寺院の供養布として流通します。家畜(羊・山羊・馬・ラクダ)は農耕・運搬・軍事を支え、周辺の草地と耕地が互いを補完しました。
隊商経済では、宿駅(キャラバンサライ)・市場・税関が都市の核をなし、通行税・関税・市税が王権・官衙の歳入となりました。ソグド人をはじめとする商人は、香料・香木・ガラス器・金属器・漆器・紙・書籍・仏具・織物を携え、東西を往来します。貨幣は諸地域の銭貨が併用され、銀塊・布帛・穀物・家畜による代替決済も一般的でした。寺院は寄進・奉納・写本制作・宿泊の拠点として経済循環に参与し、僧団は知識・福祉・仲裁の機能を通じて都市の安定装置として働きました。
都市構造と遺跡:城郭・市街・寺院の配置と景観の重層
古代クチャの都城は、城壁で囲まれた内城と、その外縁に広がる市街・寺域・墓地から構成されました。街路はオアシスの水路に沿って湾曲し、乾燥と日射に適応した日干し煉瓦(アドベ)建築が連なります。官衙区と市場には、税吏・書記・通訳・検察の諸役所が置かれ、隊商の登録と検印、物価・度量衡の監督が行われました。寺院は市街に点在し、僧院の厨房・講堂・経蔵・僧房・浴室が回廊で結ばれ、修行と講学、福祉が一体化した空間を成していました。
遺跡としては、キジル千仏洞群のほか、キジルガハ・ユルテ(北石窟)、カムタグ(南石窟)、そしてスバシ仏寺・故城址がよく知られます。墳墓・墓誌・陶片・木版の断簡は、日常生活や官僚実務、寄進と身分、工房の分業を具体的に物語ります。壁画の顔料や下描き、石窟の構造(中央柱窟・方形窟など)の分析は、制作技法と信仰儀礼の関係を解明し、広域の工房ネットワーク(トルファン・敦煌との職人往来)を照射します。
研究史と保存:写本・断簡・壁画の散逸と国際協力
近代以降、クチャ地域は多国の探検隊の調査対象となり、写本・壁画片・仏像片などが各地の博物館・図書館へ分蔵されました。ドイツのトゥルファン探検隊をはじめ、ロシア・日本・フランス・イギリス・中国の研究者が参加し、言語・美術・考古・音楽学の学際研究が進展しました。他方で、出土地からの流出や壁画の剥離、盗掘・風化・水害による劣化が深刻で、現地保護と国際的な保存協力が課題です。顔料分析・3D計測・デジタル復元・気候制御などの技術が導入され、散逸資料の統合的カタログ化が進められています。
世界史的意義:翻訳の都、音楽の震源、交差する美術言語
クチャの意義は、単に「中継地」だったからではありません。第一に、翻訳都市として、サンスクリット—トカラ語—漢語—ソグド語の間で知識と信仰を行き来させ、東アジア仏教の形成に不可欠の基盤を提供しました。第二に、音楽と舞踊の震源地として、唐代中国の宮廷文化・都市文化を刷新し、後世の雅楽・伎楽・舞楽に長く影響を与えました。第三に、美術言語の交差点として、インド・イラン・ヘレニズムの図像語彙を独自のリズムで編集し、東アジアの仏教美術へ新しいプロポーションと色彩感覚を送り込みました。さらに、オアシス国家の統治・灌漑・税制・僧団運営は、乾燥地の社会技術として現代の地域史研究にも示唆を与えます。
まとめ:砂漠の縁に灯り続けた「知と芸能の都」
クチャ(亀茲)は、砂漠の縁に生まれ、峠と砂礫を越える道を束ねながら、千年近く「知と芸能の都」として輝きました。石窟の濃紺、旋回舞の疾走、琵琶の音色、訳経の文体、隊商の掛け声—それらは、東と西、南と北が出会う現場の手触りです。政治地図が幾度も塗り替わっても、オアシスに刻まれた水路と壁画、寺域と市場は、文化が移動し、翻訳され、再演されるプロセスの痕跡を残し続けています。クチャを学ぶことは、シルクロードを単なる物資の道ではなく、音・色・言葉が行き交う多層の回廊として捉え直すことにほかなりません。そこに、世界史の躍動を見出すヒントがあるのです。

