クヌート(カヌート) – 世界史用語集

クヌート(カヌート、英: Cnut / Canute)は、11世紀前半にイングランド・デンマーク・ノルウェーを統合して「北海帝国」を築いたデンマーク王で、在位はイングランド1016–1035年、デンマーク1018–1035年、ノルウェー1028–1035年とされます。ヴァイキング時代の終盤に登場した彼は、単なる略奪者ではなく、法と貨幣、行政と教会保護を組み合わせた「統治の技術」で広域支配を成立させたことで知られます。父はスヴェン(スウェン)・フォークベアードで、彼のイングランド征服を受け継ぎ、内戦ののち英王位に就きました。クヌートは敵対勢力の処理に加えて、年貢や傭兵税(ヒアゲルド)を整理し、国内の貨幣鋳造と港湾を抑えて交易を活性化させました。さらに教会勢力を厚遇して正統性を高め、北海交易圏のネットワークを安定させることで、海を隔てた多王国の同君連合を保ったのです。後世に伝わる「海に王権の限界を示した波止めの逸話」は、彼が権力の振る舞いに自覚的であったことを象徴的に物語ります。要するに、クヌートはヴァイキングの武威と中世王権の制度化を結びつけ、イングランド史と北欧史の接点をつくった人物です。

この人物像を理解する鍵は三つあります。第一に、ヴァイキングの移動世界を背景にした多民族・多言語の王権運営です。第二に、征服後の秩序回復を「法・貨幣・教会保護・貴族統制」のセットで進めた実務力です。第三に、北海を内海化して外征と交易を管理した海上覇権です。以下では、生涯と時代背景、統治の仕組み、対外政策と北海帝国、そして死後の変容と評価という観点から、クヌートの全体像を分かりやすく掘り下げます。

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生涯と時代背景:内戦と征服から王位へ

クヌートはデンマーク王スヴェン・フォークベアードの子として生まれ、若くして遠征に同行したと考えられています。1000年前後の北海世界は、デーン人・ノルウェー人・スウェーデン人の勢力がブリテン島やバルト海へ進出し、略奪と交易が混じり合う動的な秩序にありました。イングランドではエゼルレッド無策王の治世にデーン人への支払い(デーンゲルド)が増え、王権の威信が低下します。1013年、父スヴェンがイングランド征服を果たし、王位に就きますが、翌1014年に急死し、クヌートは撤退を余儀なくされました。

1015年、クヌートは再び大軍で渡英し、1016年にはサクソン側の若王エドマンド・アイアンサイドと各地で激戦を交えます。両者は一時、テムズ上流域で領土分割の合意に達しましたが、ほどなくエドマンドが急死し、クヌートは単独でイングランド王位に就きました。即位直後、彼は反対派の有力者イードリック・ストレオナを処刑し、動揺する貴族層に対して恩賞と威圧の双方を用いて体制を固めます。王妃には前王エゼルレッドの后であったノルマンディー公女エマを迎え、王権の連続性を演出しました。この婚姻は、後の王位継承と対ノルマン関係にも長い影を落とします。

デンマークでは、兄ハーラルが没したのち1018年にクヌートが王位を継承し、イングランドとの同君連合が成立しました。ノルウェーについては、当初はオーラヴ2世(聖王)が支配していましたが、クヌートは交易路と朝貢関係をテコに、地方首長の離反を促して圧力を強め、最終的に1028年にノルウェー王位を奪取します。この頃までに、彼は北海両岸にまたがる広域支配の骨格を整え、「北海帝国」の中核を形作りました。

統治のしくみ:法・課税・貨幣・教会を束ねる実務

クヌートの強みは、征服者でありながら秩序回復に手際がよく、王国の基盤を素早く制度化した点にあります。まず軍事面では、戦役後も一定数の北欧人傭兵を残留させ、彼らに給金を支払うための特別税「ヒアゲルド(Heregeld)」を整備しました。これは、かつてエゼルレッド期に重税として不評だったデーンゲルドを、王権の常備防衛費として再構成する発想でした。軍を解散して無頼化させず、王の直轄戦力として管理し続けたことが治安の安定に寄与します。

次に法と行政です。クヌートはイングランドの慣習法(ウェセックス法・マーシア法・デーンロウ法)を尊重しつつ、王令を発して殺人・略奪・偽証などの重罪を厳罰化し、血讐の連鎖を抑える方向で裁判慣行を整えました。地方統治には「アール(伯)」を置き、ウェセックス・マーシア・ノーサンブリアなどの大耳長領を再編して複数の有力者に分散統治させます。とりわけウェセックスの伯に台頭したのがゴドウィンで、彼の一族はのちに王権の最重要パートナーへと伸長していきました。

財政では、貨幣鋳造の再編が目を引きます。中世イングランドの貨幣制度は王権の専権で、一定周期ごとに新図案のペニーを発行し、旧貨の回収・再鋳造で手数料を得る「リコイネージ」を通じて財源を確保しました。クヌートはこの仕組みを安定的に運用し、港湾と市場の取り締まり、計量の統一、通行税・関税の整備を進めます。貨幣の流通と徴税の規律化は、北海交易圏における信頼を高め、政権の国際収支を支えました。

教会政策も周到でした。クヌートは司教・修道院への寄進と保護を積極的に行い、聖職者の財産と裁判権をある程度認める一方、王令によって聖職者にも公共秩序の遵守を求め、王権と教会の協調を演出しました。1027年にはローマへ赴き、皇帝コンラート2世の戴冠に合わせて教皇・神聖ローマ帝国との関係を確認しています。彼がイングランドの人びとに宛ててローマ巡礼の成果と諸特権を報告した書簡は、王が国際舞台で獲得した権益を国内に還元する姿勢を示す貴重な史料です。

宮廷運営では、スカンディナヴィア系の家臣とアングロ=サクソン系の有力者を慎重に配合し、出自の異なるエリートの利害を調整しました。征服者が陥りがちな偏重人事を避け、王妃エマのノルマン・ネットワークとも連携して、婚姻と恩給で結束を固めます。こうした「折衷的人材配置」は、広域支配の安定に不可欠でした。

対外政策と北海帝国:海を内海化する覇権

クヌートの広域支配は、陸の国境ではなく「海の回廊」を軸に構想されていました。北海は暴風や暗礁の危険を孕む一方、航行技術と港湾支配が確立すれば、兵站と徴税において陸路より効率的です。彼はデンマーク海峡やスカゲラク、ブリテン島東岸の港を抑え、交易船と軍船の流れを管理しました。王の名で徴税される通行料や港湾税は、軍の維持と宮廷財政の基盤になり、同時に商人たちにとっても治安と秩序の保証となりました。

ノルウェーへの介入は、まさにこの海上覇権の産物です。オーラヴ2世が国内統一を進める過程で反発した沿岸首長たちは、クヌートの保護に期待を寄せ、彼は金銭・爵位・交易特権を手札に取り込みを進めました。更にスウェーデンとの外交も重ね、バルト海側の利害調整を図ります。1028年、クヌートはノルウェー王位を奪い、トロンハイムを押さえて北海支配の三角形を完成させました。もっとも、北海帝国は王個人のカリスマと外交均衡に強く依存したため、制度化された連邦というより、同君連合と従属関係の束に近いものでした。

スコットランドやアイルランドの王侯とも関係を築き、名目的な宗主権や貢納を取り付ける一方、イングランド北部の国境地帯ではスコット王との協定によって小競り合いを抑えました。ウェールズ諸王との関係も通行・交易・略奪抑制の取り決めを通じて調整され、ブリテン島全体における「王の秩序」の範囲が拡大します。クヌートは武威の誇示だけでなく、講和・条約・婚姻を駆使して、戦争コストを最小化する政治を学んでいきました。

彼にまつわる有名な逸話が、「海に命じても波は止まらない」という場面です。側近におもねられた王が玉座を海辺に置かせたものの、潮は容赦なく足元を洗い、王は「神の御前に人の権力は及ばない」と教訓を示した、とされます。後世には王の傲慢を諫める寓話として語られましたが、近年の読みでは、むしろ王自身が権力の限界を示して側近の追従を諫めたと解されます。どちらにせよ、クヌートの王権は、奇跡を装う宗教的カリスマよりも、法と財政と外交という「人間の手で扱える道具」に重心を置いていたことが伝わるエピソードです。

死後の変容と評価:帝国の解体、記憶の定着

1035年のクヌートの死は、広域支配にとって致命的な空白を生みました。後継問題では、第一夫人との子ハロルド(「野ウサギ足」)と、王妃エマとの子ハーディクヌート(ハーザクヌート)が争い、イングランドではハロルドが事実上の王位を掌握、デンマークではハーディクヌートが王となります。ノルウェーではオーラヴ2世の勢力が復帰し、クヌートの三王冠は急速にばらけました。ハロルドの死(1040)後、ハーディクヌートがイングランド王位を継いだものの短命で、1042年の彼の死をもってデンマーク系の王統は途絶え、エドワード懺悔王が即位してアングロ=サクソン王朝が形式上復活します。

この間にも、クヌート期に台頭したゴドウィン家は強大化し、最終的に1066年、エドワードの死後にハロルド・ゴドウィンソンが王位に就くものの、同年のノルマン・コンクエストでウィリアム征服王が王座を奪います。皮肉にも、クヌートが整えた貨幣制度や行政枠組みは、ノルマン王権の統治効率を高める基盤となりました。王個人の死で多王国体制は解けましたが、彼が残した「統治の器」は次の支配者に再利用されたのです。

評価の面では、かつての「異民族の征服王」という単純な図柄は後退し、今日では「征服後の統治を制度で支えた近世的な王」という像が強まっています。貨幣の質の安定、法と秩序の回復、教会との協調、港湾・交易の保護といった政策は、短期的な軍事成功を持続的な王権に転換する要件でした。彼の多王国支配は、君主の人格とネットワークに依存する脆さを抱えつつも、北海世界の一体性を具体化した稀有な試みであり、ブリテン島と北欧の中世史を架橋する鍵となっています。

総じて、クヌートはヴァイキング終盤の「海の覇者」であると同時に、税と法と教会保護を束ねる「陸の管理者」でもありました。剣だけでなく秤と印章を使いこなした王として、彼は征服を統治へ、海の強さを制度の強さへと転化しました。北海の波は止められませんが、そのうねりを読んで船団と市場を動かすことはできる—その現実主義が、クヌートの治世を支えたのです。