グラスノスチ(glasnost)は、1980年代後半のソ連でミハイル・ゴルバチョフ政権が掲げた「情報公開・言論の開放」を中心とする政治運営の方針を指します。簡単にいえば、「見せないことで成立していた政治」を「見せることで動かす政治」に切り替える試みでした。検閲の緩和、メディアの自由化、過去の誤りの公的検証、行政の説明責任の強化などが柱で、経済改革ペレストロイカ(再建)を前に進めるための空気と制度を整える役割を担いました。チェルノブイリ事故やアフガニスタン撤退、スターリン期の粛清や民族弾圧の再検証といった「公に語れなかった事実」が次々に表面化し、社会の自己理解は大きく変わりました。他方、情報の奔流は統合の糊をも溶かし、民族運動の高揚、体制批判の急拡大、党の規律の弛緩を招きました。グラスノスチは民主化の扉を開くと同時に、統合帝国としてのソ連を解体へと押し出した力でもあったのです。
ここでは、用語の成立と背景、制度と実務の中身、社会・政治・国際関係への波及、限界と帰結、そしてその後の記憶と現在への影響という観点から、グラスノスチの全体像をわかりやすく整理します。言い換えれば、これは「見える化の政治」の歴史的実験であり、それが国家・経済・文化・ナショナリズムをどう変えたのかをたどる物語です。
背景と登場:閉鎖から開放へ—なぜ「見せる」必要があったのか
グラスノスチが登場した背景には、1970年代末から80年代初頭にかけての停滞(スタグナーツィヤ)がありました。計画経済は硬直し、技術革新は遅れ、軍拡競争とアフガニスタン侵攻が財政を圧迫していました。情報は「良い知らせ」だけが上へ上がる仕組みで、現場の問題は隠蔽・粉飾されがちでした。この「閉鎖の政治」を壊さなければ、経済の再建(ペレストロイカ)は絵に描いた餅に終わる—その危機感から、1985年に総書記となったゴルバチョフは、言論と情報の開放を改革の前提条件に据えました。
「グラスノスチ」はロシア語で「公然性・開示性」を意味する日常語に根を持ちますが、政治スローガンとなったとき、その射程は広がりました。行政文書の公開、議会と党大会のテレビ中継、メディアの自己検閲の緩和、歴史研究・芸術表現の自由の回復、司法の透明化、内部告発の保護といった改革が段階的に導入されます。目標は二つでした。第一に、社会の問題を隠さず公論にかけることで、改革への合意と参加を引き出すこと。第二に、官僚制の惰性と腐敗を、世論の圧力と競争によって押し返すことです。
転機になったのは、1986年のチェルノブイリ原発事故でした。初動の情報遅延と隠蔽は国内外の不信を増幅し、「隠す政治」の限界を白日の下にさらしました。この惨事は、情報公開と行政説明の制度化を急がせ、事故報告や健康被害の議論を公的領域に引きずり出しました。以後、ソ連の新聞・雑誌・テレビは、汚職・環境破壊・住宅問題・民族関係などタブーとされてきたテーマを連日取り上げるようになります。
制度と実務:メディア、議会、司法—「開く」ために何を変えたか
グラスノスチの中身は、単なる雰囲気作りではなく、具体の制度設計に踏み込むものでした。まずメディアでは、検閲の事前許可を事後責任へと切り替える方向の法整備が進み、新聞『プラウダ』『イズベスチヤ』『アルグメンティ・イ・ファクティ』、雑誌『オグジョニョーク』『ノーヴィー・ミール』『ズナーニエ・シラー』などが、体制批判や歴史の再検証、社会調査にもとづく告発記事を積極的に掲載しました。作家ソルジェニーツィンやアフマトワ、マンデリシュタームらの作品、テレヴィジオノの討論番組、映画『炎628』『小犬をつれた貴婦人(再上映)』など、かつての禁書・禁映作品が次々に解禁され、文化領域の自由度が一気に上がります。
次に、政治過程の可視化です。人民代議員大会や最高会議の審議がテレビ中継され、代議員たちが政府を公然と追及する光景は、市民に「政治が自分事である」という感覚を与えました。1988年の第19回党大会での規約改正は、党内民主主義の拡大、国家機関と党機関の分離を打ち出し、1989年には人民代議員大会の選挙が一定の競争性を伴って実施されます。これにより、非体制派のサハロフらが議場に登場し、テレビを通じて全国的に知られるようになりました。
司法領域でも、スターリン期の冤罪事件の再審・名誉回復が進み、政治犯の釈放が実行されました。人権擁護団体の活動や、地方紙の調査報道が、地方官僚の汚職や環境破壊(アラル海の縮小など)を暴露し、行政の説明責任を強めます。党の「統治特権」を定めていたソ連共産党の憲法上の特別規定(第6条)の削除(1990年)は、グラスノスチの延長線上にある画期的な一歩でした。これは、国家運営から党の独占的指導を切り離し、複数の政治勢力が公に議論する前提を整えたのです。
とはいえ、制度の変化は一枚岩ではありませんでした。表現の自由が一気に広がる一方、古い検閲機構や保安機関の反発、地方官僚の抵抗は根強く、法律・通達・非公式ルールが錯綜しました。このギャップが、現場の混乱と「言っていることとやっていることのずれ」を生み、改革の信頼性を傷つける場面も少なくありませんでした。
波及効果:歴史の再発見、民族の覚醒、経済と外交の再配線
グラスノスチの効果は、社会の深層に及びました。第一に、歴史の再検証です。スターリン期の大テロ、グラグ(強制収容所)、飢饉、民族移住(クリミア・タタール、チェチェン、イングーシ、ヴォルガ・ドイツ人など)に関する文書や証言が公表され、記憶の政治が一変しました。これにより、国家の正当性は「功績の列挙」から「過ちの承認と責任」へと軸足を移し、市民は体制を外から吟味する目を持つようになります。記念碑や追悼の儀式、博物館の展示、歴史教科書の改訂が相次ぎ、社会の道徳コンパスが振れ直されました。
第二に、民族運動の活性化です。情報公開は、中心と周辺、ロシア人と非ロシア系の間の不平等や歴史的怨恨を顕在化させました。バルト三国では独立回復運動が合法的な団体(人民戦線)として拡大し、グルジア(現ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャン、中央アジアでも、言語・文化・領土をめぐる運動が公然化します。民族の「声」が広がるほど、連邦の統合は難しくなり、モスクワの一律的統治は正当性を失っていきました。
第三に、経済と企業統治への影響です。経済改革は価格自由化や企業自主管理の試みと結びつき、情報公開は企業の収支や在庫、品質問題を市民の議論にさらしました。しかし、価格の二重化や供給網の乱れ、既得権益層の反発が重なり、日常物資の不足やインフレが生活を直撃します。「言える自由は増えたが、買えるものは減った」という苛立ちは、改革への支持を揺らがせました。
第四に、外交・安全保障の再配線です。アフガニスタンからの撤兵、米ソ関係の緊張緩和、東欧への「不干渉」方針は、東欧諸国の民主化・体制転換を促し、1989年には「ベルリンの壁崩壊」へ至りました。東欧が自立するにつれ、ソ連の衛星圏は消え、帝国の外縁は急速に後退します。グラスノスチは、世界に向けたソ連の自己呈示(もう恐くない国であるという演出)を成功させましたが、その代償として、旧来の影響圏を手放すという現実も受け入れました。
限界と帰結:八月クーデター、連邦解体、「開く政治」の逆説
開放は同時に、体制の「結束」をほどく作用も持ちました。党内保守派や治安機関は、情報公開が党の権威を掘り崩し、国家の統合を危うくしていると見て、改革の後退や統制の再強化を求めました。1991年8月、保守派の一部が非常事態を宣言して権力掌握を試みます(いわゆる「八月クーデター」)。しかし、モスクワでの市民の抵抗と軍部の不協力により失敗し、共産党は政治的に致命傷を負いました。結果として、この出来事は連邦の解体を早め、同年末にソ連は消滅します。
この帰結は、グラスノスチの「逆説」を物語ります。隠蔽と恐怖が秩序を支えていた社会で、自由と情報公開を一挙に拡大すると、人々は新しい秩序をまだ持たないまま、古い秩序への服従をやめてしまうのです。制度変革の速度と、公共圏の熟度、経済生活の安定のあいだのバランスが崩れると、改革は正当性を失いやすい。グラスノスチは、その難しさを世界に可視化しました。
また、「透明性」の拡大は、メディアの商業化や扇情主義と結びつき、短期的なスキャンダルが長期課題の議論を圧倒するという別の副作用も生みました。長い議論と合意形成を要する政策(税制、連邦制再設計、社会保障)は、「見栄えのする暴露記事」に押されがちで、政策能力の毀損が進みました。公共圏の質をどう担保するかは、開放の時代に不可避の課題だったのです。
その後の記憶:ロシアと世界のグラスノスチ
ポスト・ソ連のロシアでは、1990年代にメディアの自由化が進む一方、2000年代以降は国家の統制が強まり、グラスノスチの遺産は部分的に後退しました。とはいえ、過去の罪の告白、政治囚の名誉回復、博物館・記念碑による記憶の継承など、公共圏の一部にはグラスノスチの痕跡が残っています。市民社会の活動やネット空間の自由、地方の独立メディアの試みは、困難を抱えながらも、開放の価値を支え続けています。
国際的には、グラスノスチは「政府の透明性」「説明責任」「情報公開法」「公益通報者保護」といった民主主義の制度語彙と重ねられて語られます。他国の移行期(南アフリカの真実和解委員会、東欧のルストラツィア、ラテンアメリカの軍政検証など)においても、過去の暴力を隠さず語ることが和解と再出発の条件になるという「開示の政治」の考え方は一般化しました。グラスノスチは、ソ連固有の出来事でありながら、世界のガバナンスに共通する課題—見せること、説明すること、謝ること—を前景化した歴史的経験でした。
総じて、グラスノスチは「情報を開くことは、力を分けることだ」という原則を可視化した出来事でした。開放は、統治者の特権を減らす一方で、市民に負担と責任を引き受ける力を求めます。見える化は、安心ではなく不安をも連れてきます。それでもなお、問題を表に出さなければ、問題は解けません。グラスノスチの物語は、開放の代償と意義を、国家だけでなく組織や企業、私たちの生活に引き寄せて考える手がかりを与えてくれます。どの程度の速さで、どの範囲まで、どの順番で開くのか—この設計の巧拙こそが、改革の成否を分けるのです。

