ゲットー – 世界史用語集

ゲットー(ghetto)は、もともと近世ヨーロッパ諸都市でユダヤ人の居住を法的に区画・隔離した地域を指す言葉です。夜間門を閉ざす、印の着用、職業の制限などの統制と引き換えに、礼拝や内部自治、同胞援助を保つという両義的な空間でした。20世紀にはナチス・ドイツの支配下でユダヤ人を強制的に集住させた閉鎖区が最大の連想を生み、飢餓・強制労働・虐殺へと連なる過程の要所となりました。戦後は語の意味が拡張し、米国の人種隔離や貧困が集中する地区、欧州の移民居住区なども比喩的に「ゲットー」と呼ばれるようになりましたが、この拡張は歴史的文脈の重さを薄めてしまう危険もはらみます。ゲットーという語を理解するには、①近世都市の法的制度としての起源、②ナチス期の極限状況、③戦後都市社会での構造的排除とレッテルの問題、の三層を区別してみることが大切です。

以下では、語の成立と近世の実態、近代以降の転位、ナチス期のゲットーの機能と住民の生の工夫、戦後の都市社会における用法と批判的視点を整理し、歴史学・都市社会学・記憶文化が提示してきた枠組みをわかりやすく紹介します。

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語の起源と近世ヨーロッパのゲットー:隔離と自治のあいだ

「ゲットー」という語の語源はヴェネツィア方言のgetto(鋳造所・鋳物場)に由来するとされ、1516年にヴェネツィア政府がカンナレージョ地区の旧鋳物場一帯をユダヤ人の居住区域に指定したことが出発点だと広く理解されています。近世の都市政府は、宗教秩序と治安・財政を名目に、ユダヤ人の生活空間と移動を管理しました。城門や橋に門番を置き、夜間に開閉する門扉、鍵の保管者、居住登録や外出許可の仕組みが整えられ、地区の出入りは時刻・身分・職業で制限されます。

隔離は抑圧にとどまりません。ゲットー内部は会堂(シナゴーグ)や学校、慈善組織、共同浴場、商店、貸付業が集中し、ユダヤ法(ハラハー)に基づく婚姻・相続・紛争調停が共同体の規範を支えました。一方で、都市当局は身分印(黄色の印や帽子)の着用、土地所有の制限、貸付利率や商売の規制、キリスト教祭礼への参加義務など、差別的な統制を課し、ゲットーの空間は高密度・過密居住に傾きました。公共財へのアクセス(井戸、水路、道路)の優先順位や門の施錠が、日常の不自由を可視化します。

ヴェネツィアのほか、ローマ、フローレンス、フェラーラ、フランクフルト、プラハ、ワルシャワなど、各地に制度化されたユダヤ人区が成立しました。とはいえ実態は一様ではなく、都市の経済構造や君主の利害に応じて、課税・居住密度・職業許可の幅は大きく変化しました。宗教改革・三十年戦争・商業の発展は、ユダヤ人の商業機能や金融仲介の需要を高める一方、疫病や経済危機はスケープゴート化を促し、ゲットーの扉は政治気候に敏感に開閉しました。18世紀後半の啓蒙改革(例:ハプスブルク領のユダヤ人特許)は、法的平等化と解放(エマンシパシオン)に向かわせ、19世紀には多くの都市でゲットーの制度が撤廃されていきます。

近代の転位とナチス期の極限:ワルシャワ、ウッチ、そして「移送」

近代に入ると、法的なゲットーは縮小・撤廃されますが、ロシア帝国の「ユダヤ人定住区域(Pale of Settlement)」のように、広域の居住制限が残った地域もありました。そこでは町(シュテットル)にユダヤ共同体が集住し、ヘブライ・イディッシュ文化が開花しました。都市化・産業化の波は、貧困と移民(東欧から西欧・米国へ)の圧力を強め、ユダヤ人の空間配置は多層化していきます。

第二次世界大戦期、ナチス・ドイツと協力政権は、占領地の多数の都市に「ゲットー」を設置しました。ワルシャワ、ウッチ(ロッジ)、クラクフ、ヴィルナ、ベドジン、ルブリンなどで、ユダヤ人(しばしばロマも含む)を壁や有刺鉄線で囲った地区に強制的に集め、食糧配給を切り詰め、労働と貨幣を管理しました。外出は通行証と指定通用門に限られ、密輸は日常の生存手段となります。人口過密、チフス、飢餓、強制労働、文化活動の地下化(学校、劇、祈り、記録保存)が同時に進行し、自治委員会(ユーデンラート)やゲットー警察と住民のあいだには、抑圧と調整の矛盾が横たわりました。

1942年以降、「最終的解決」実施のための移送(ディポルタチオン)が本格化すると、ゲットーは絶滅収容所への集積拠点へと転化します。ワルシャワでは地下組織が武装蜂起(1943)を行い、ウッチでは長期にわたり労働ゲットーとして存続した末に住民の大半が移送されました。記録者たち(例:オネグ・シャバット文書館)が文書・日記・統計・絵を秘匿し、戦後に掘り出された史料は、飢餓の配給表、児童の作文、闇市場の価格動向、病院の台帳など、ゲットーの「日常」を生々しく伝えています。極限状況でも人々は学び、祈り、助け合い、音楽を奏で、闇パンを分け合い、子どもに字を教えました。ゲットーは単なる受動的な被隔離空間ではなく、統制・抵抗・生存戦略が衝突・交錯する場でした。

戦後の語の拡張:都市の人種隔離・貧困集中と「ゲットー」という比喩

戦後、「ゲットー」は比喩的に拡張され、特に米国都市で人種隔離・貧困・犯罪が集中する地区を指す語として広まりました。公的・民間の住宅差別(レッドライニング、限定契約)、高速道路建設による黒人居住区の分断、ホワイト・フライト(郊外流出)、学校区の分離と資源格差、差別的な警察実務などの複合効果が、空間と機会の分断を固定化しました。やがて1960年代の都市暴動、公民権運動、連邦プログラム(グレート・ソサエティ)と再開発、1980年代以降の麻薬戦争と大量投獄、90年代のゼロトレランスを経て、居住・雇用・医療・教育の不平等が世代を超えて連鎖し、「ゲットー」という語は構造的排除の象徴となりました。

欧州でも、移民・難民の密集地区(パリのバンリュー、ブリュッセルの内側環状、スウェーデンの大団地など)に対して、メディアが「ゲットー化」という表現を用いることが増えました。これらの地区では、言語・教育・雇用差別、警察との緊張、住宅市場の選別が絡み合います。ただし、ナチス期のゲットーの物理的封鎖と国家暴力の体系とは質的に異なるため、歴史学・メモリー研究の立場からは、用語の慎重な使用が求められます。言葉が現実を作る側面(ラベリング効果)が強く、地区の烙印化と住民の自己像に影響するからです。

同時に、音楽・ファッション・言語の文化的創造性は、いわゆる「ゲットー」と呼ばれた地区から数多く生まれました。ヒップホップ、グラフィティ、ジャマイカ系サウンドシステムの系譜、移民食文化のハイブリッド、ストリートウェアの潮流は、排除に対する反発と誇り、自治とネットワーク形成の実践の産物です。「ゲットー」という言葉は、排除と創造の両方の記憶を抱えています。

記憶・研究・政策:語の重さに向き合うために

研究面では、近世のゲットーを都市史・宗教史・法制史の交差領域として分析し、都市の財政・地籍・司法記録、婚姻・相続の訴訟、礼拝所の建築や地図の復元が進みました。ナチス期ゲットーは、発掘された地下文書、当時の統計、写真、日記、壁新聞、裁判記録など、膨大な史料群に支えられており、データベース化と地理情報(GIS)分析が居住密度・死亡率・配給の空間不均衡を可視化しています。都市社会学は、戦後の「ゲットー」論を、差別の制度設計・住宅金融・教育制度・刑事政策と結びつけ、個人の選好では説明できない構造的要因を明らかにしてきました。

政策の面では、歴史的居住区の保存と記憶の継承(ヴェネツィアのゲットー跡、東欧の記念館と巡検)、都市の包摂策(インクルージョンary zoning、学校資源の再配分、交通アクセス、差別是正の住宅金融、コミュニティ・ポリシングの改革)、住民主体のエンパワーメント(協同組合、地域メディア、文化センター)が注目されます。再開発はジェントリフィケーションの副作用(追い出し、文化の喪失)を伴いやすく、歴史の重層性に配慮した合意形成が不可欠です。

最後に、言葉の扱いについて。日本語で「ゲットー」を軽い罵倒語や属性ラベルとして用いることは、歴史的暴力の文脈を消し、スティグマを再生産する危険があります。近世の法的隔離とナチス期の絶滅政策、戦後の構造的不平等という三層を踏まえ、文脈を明示したうえで用語選択(「隔離居住区」「貧困集中地区」「人種隔離の結果としての高失業地区」など)を工夫する姿勢が求められます。語の重さに向き合うこと自体が、歴史理解と社会的配慮の実践であるからです。