「航海法廃止」とは、17世紀以来イングランド/グレートブリテンが維持してきた海運・植民地通商の保護法制(航海法体系)を、19世紀半ばに自由貿易原理へ転換する中で撤廃・緩和・再編した一連の改革を指します。核心は1849年の「航海法(Navigation Act)改正=実質的廃止」にあり、これに続く1850年の植民地適用拡張、1854年の商船法での全面的整理によって、英国は自国船への航路・品目・船員国籍の特権を大幅に放棄しました。背景には、重商主義から比較優位に基づく自由貿易への政策転換、蒸気船・鉄船・保険・港湾インフラの技術変化、英米・北欧・独の新興船隊との競争、そして対外関係を双務主義(相互門戸)で再設計するという国家戦略がありました。本稿では、廃止に至る道筋、1849—1854年の立法内容、国内外の反応と経済的効果、帝国運営と通商秩序への含意を解説します。
転換への道筋:重商主義から自由貿易へ
航海法は1651年に端を発し、1660年法の体系化、1663年積み地法、1673年プランテーション関税法、1696年補強法などを通じて、英本国船優先・列挙品目の本国直行・船員構成比などを柱に、帝国通商を「本国ハブ」に配線してきました。しかし18世紀末から19世紀前半にかけ、産業革命と金融革命を背景に、保護より規模の経済・低コスト輸送・迅速な価格情報の集約が重視される潮流が強まります。ナポレオン戦争後の国際経済再編の中で、1823年にハスキソンらが主導した相互通商条約群(Reciprocity Treaties)が成立し、相手国が英船に開放するなら英側も相手国船を受け入れるという「双務主義」が導入されました。
1840年代には、穀物法廃止(1846)に象徴される自由貿易路線が政治的多数派を獲得し、関税体系の整理とともに、海運保護の根幹である航海法の見直しが俎上に載ります。技術面でも、木造帆船中心の時代から、鉄製船体・スクリュー推進・蒸気機関の普及が始まり、保護の網目よりも投資と革新スピードが競争力を左右する段階に移行していました。航路・保険・港湾荷役の標準化により、船籍によるコスト差は縮小し、むしろ外国船の参入が英国港湾の取扱量と保険・金融の集中を高めるという期待が強まりました。
1849—1854年の立法:何が、どのように廃止されたのか
1849年航海法(実質的廃止)。ヴィクトリア期議会は1849年に航海法体系の根幹を撤去しました。要点は(1)外国船による英国—海外間および帝国内の対外貿易への一般開放、(2)列挙品目の本国直行義務の撤廃・緩和、(3)船員の国籍比率規定の大幅縮小、の三本柱です。これにより、第三国船が英国港に直接積み下ろしできるようになり、帝国の「本国ハブの独占」は制度上解体されました。
1850年の植民地拡張・細則整備。1849年の原則を諸植民地にも徹底するため、翌1850年に適用法と通達が発出され、各植民地議会・税関における手続き(船籍登録、証明書、港湾指定、関税実務)の整合が進められました。これにより、カナダ、オーストラリア、ケープなどの自治植民地が、相互主義の枠内で港を開く柔軟性を持つようになります。
1854年商船法(Merchant Shipping Act 1854)。1854年の大規模統合法は、航海法時代の残存規制を整理し、船舶登録・船級・安全基準・検査・船員契約・海難審判などを一体化しました。同法は、<保護>から<規制(安全・資格・登録)>への重心移動を象徴します。重要なのは、英国沿岸の内航(コースティング)についても原則開放の方向が確定したことです(それまで一部に残っていた英籍優先の取り扱いは、段階的に撤去されました)。これにより、英国海運法制の「開かれた市場+厳格な安全規制」という基本形が固まります。
国内政治と利害:誰が賛成し、誰が反対したか
廃止論の推進力は、自由貿易派の政治家・経済学者(ピール派の流れ、コブデンや経済紙人脈)、港湾の商社・保険業・金融業でした。彼らは、外国船の参入が貨物量と回転率を高め、ロンドンやリヴァプールの保険・為替・倉庫業を拡大させると主張しました。対して、保護を享受してきた一部の造船業者、木造帆船の船主、沿岸の小港は、運賃の下落圧力と競争激化を懸念し強く反対しました。労働面では、船員国籍要件の緩和が賃金低下や雇用不安を招くとの声があり、議会では安全・待遇・教育の基準整備とセットの改革であることが繰り返し強調されました。
帝国官僚機構(通商委員会=のちのBoard of Trade)と海軍も重要なステークホルダーでした。海軍は戦時動員の観点から英籍船・英人船員の確保を重視しましたが、蒸気船時代の海軍予備員制度・訓練や、保険・金融を通じた戦時調達の柔軟性が代替策となり、全面反対には至りませんでした。実務官庁は、密輸対策・文書手続き・検査能力の再設計に追われ、税関・海事裁判所の機能は「取締り」から「登記・検査・海難審判」へと役割を変えていきます。
経済効果と国際比較:運賃、船腹、技術、競争相手
短期的効果として、英国港における外国船の寄港は増加し、特にバルト・北海・地中海航路でノルウェー、ハンブルク、ブレーメン、オランダの船隊が顕著な存在感を示しました。運賃は競争で低下し、輸出入取引の総量は拡大、港湾荷役・保険・倉庫・為替手数料の収入がロンドンとリヴァプールに集中する傾向が強まりました。中期的には、英国籍船の総トン数もむしろ拡大を続け、木造帆走から鉄製スクリュー蒸気船への投資が加速します。競争の圧力が陳腐化設備の淘汰を促し、鉄と石炭の国内産業複合が海運革新を牽引しました。
アメリカ合衆国は、1817年以降の自国版「航海法」である沿岸航路の国籍留保(コーストワイズ・トレード)を維持し続けました(のち1920年のいわゆるジョーンズ法へ継承)。このため、米沿岸・内航は依然として米籍に限定されましたが、外航では英との競争が続き、クリッパー帆船時代には一時的に米船が優位を示す局面もありました。北欧諸国は低コスト運航で英国市場に食い込み、ドイツ諸邦は統一後に造船・港湾投資を強化して追随します。
価格体系面では、運賃の低下と輸送の信頼性向上が、穀物・綿花・鉄鋼・機械の国際取引を押し上げ、英国の「世界の工場」としての地位を物流面から補強しました。保険料率は競争と統計の集約で細分化され、再保険・共済の枠組みが成熟します。結果として、航海法廃止は英海運の衰退ではなく、品質と規模の転換—蒸気・鉄・スクリュー・時刻表運航—への移行を後押ししたと総括できます。
帝国と通商秩序への含意:ハブからプラットフォームへ
制度の視点から見ると、航海法廃止は「本国ハブの独占」モデルを、「開かれたハブ+規制基盤」モデルに置き換える改革でした。すなわち、船籍による参入規制を緩める代わりに、登録・検査・安全・契約・海難審判などの共通ルールと、相互主義に基づく条約ネットワークで市場秩序を担保するという発想です。これにより、英本国は港湾・保険・金融・仲裁のプラットフォームとしての機能を強化し、貨物と資本と情報の「三重の集散地」としての優位を長期化させました。
植民地(のちの自治領)にとっては、母国への強制的直行義務が緩むことで、仕向け先の多角化・航路の自律化が進みました。他方、関税収入や港湾財源の再編、地場船主の競争適応など、新たな調整課題も生まれます。外交的には、相互主義条約の網を広げ、敵対国に対しては通商上の圧力(開放・閉鎖の選択)を柔軟に使える余地が拡大しました。後年の「最恵国待遇」や多角的貿易協定の交渉において、航海法廃止で蓄積された交渉技法が活用されます。
安全・労働・法制度:保護から規制へ
保護撤廃と同時に、労働と安全の公的規制が整備されました。船員の契約書式、賃金支払、食糧・医療、救命設備、過積載・安定性・船体強度の基準、灯火・信号・航行規則(国際衝突予防規則)などが整えられ、事故調査(ボード・オブ・トレードによる海難審判)と責任分配の枠組みが強化されます。航海法下では「英国船であること」自体が安全・信頼の象徴でしたが、廃止後は国際基準の遵守と検査体制こそが信頼の源泉となりました。この「保護から規制へ」の移行は、後世の民航・鉄道・通信にも通底する政策モードの転換です。
長期評価:自由化は海運大国を弱めたか、強めたか
史学上の評価は二極化しがちです。一方には、航海法廃止が英国海運を外国の安い船員・低コスト船に晒し、国力の源泉を弱めたという懸念論があります。他方には、統計が示す通り、廃止後も英国の外航船腹は拡大し、蒸気化率が急上昇、航海の定時性・保険市場の深さ・港湾の処理能力で優位を保ったという実証的見解があります。決定的だったのは、世界の貨物と資金の流れを自国内で「計上」できる体制—保険・再保険・仲裁・信用状—を握り続けたことです。船が外国籍でも、契約と保険と決済がロンドンを通れば、経済的価値は英国に帰着します。
同時に、廃止は「英国型」通商秩序の普遍化という副作用を持ちました。英国が自らの保護を放棄する代わりに、他国にも市場開放と法の整備を迫る交渉力を得て、19世紀後半のグローバル化を制度面から牽引したのです。もっとも、これは英ポンド・金本位・海軍力という三位一体の基盤に支えられており、基盤が揺らげば秩序の持続可能性も揺らぐ、という条件つきの優位でした。
まとめ:航路の特権から、ルールと技術の優位へ
航海法廃止の本質は、航路・品目・船籍に対する「法的特権」の撤去を、登録・検査・安全・相互主義という「制度的インフラ」に置き換えた点にあります。1849—1854年の改革は、英国を、保護主義の帝国から、開放的だが厳格な標準と仲裁を供給する通商国家へと転じさせました。競争は厳しくなりましたが、結果として英国は、蒸気・鉄・保険・金融・港湾運営の複合優位で「海運大国の座」を再定義することに成功します。航海法廃止は、19世紀の自由貿易体制の成立における核心的イベントであり、通商政策が〈守る〉から〈整える〉へ移る転換点として理解されます。現代のサプライチェーン安全保障や経済制裁・輸出管理の議論にも、当時の「保護から規制へ」の教訓は響いています。

