クライヴ(Robert Clive, 1725–1774年)は、東インド会社の軍人・行政官として、18世紀半ばのインドにおけるイギリス勢力の基礎を築いた人物です。南インドの小規模戦争で頭角を現し、1757年のプラッシーの戦いでベンガル太守を転覆、会社支配の出発点となる秩序を作りました。さらに1765年にはムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの徴税権(ディーワーニー)を獲得し、会社が統治と収奪を兼ねる「準国家」へ変貌する契機を生みました。他方で、私貿易や賄賂の横行、ベンガル飢饉(1770)の遠因となる財政・商業の歪みなど、帝国建設の陰もまた濃厚です。クライヴは英雄視と批判のはざまで語られてきましたが、彼を通して見ると、貿易会社が主権的権力に変わる過程、ヨーロッパの軍事革命がアジアの政治空間に与えた衝撃、そして帝国と資本の結節が立体的に理解できます。
以下では、生涯と時代背景、軍事的転機とベンガル支配の確立、統治・財政・腐敗の構造、帰国後の追及と評価という観点から、クライヴ像をわかりやすく整理します。
生涯と時代背景:会社とムガルのあいだで
クライヴはイングランド西部シュロップシャーの名主の家に生まれ、十代半ばで東インド会社の文官見習いとしてマドラスに赴任しました。体質や適性の問題で事務職に馴染めず、しだいに軍務へ転じます。18世紀半ばのインドは、ムガル帝国の権威が弱まり、地方太守や王侯が自立化するなか、フランス東インド会社とイギリス東インド会社が各地で影響力を競い合っていました。とりわけ南インドでは、カルナータカ戦争においてフランスのデュプレクスとイギリスの勢力が、地元支配者の継承争いに介入し、補助金・租税権・港湾をめぐって代理戦争を展開します。
この環境でクライヴは、アルコット攻囲戦で機動的な守備・奇襲を成功させ、少数で要域を保つ才覚を示しました。砲兵と歩兵の集中運用、夜間行動、補給線の確保といったヨーロッパ式の近代的軍事技術を、インドの政治交渉と結びつけたのが彼の特徴です。単に戦場で勝つだけでなく、敵対勢力内の不満派を抱き込み、契約・誓約・贈与を介して政権交代を誘導する「軍事と政治の合わせ技」を磨いていきました。
プラッシーの戦いとディーワーニー:会社支配の分水嶺
決定的な転機は1756–57年のベンガル政局でした。ベンガル新太守スラージュ・ウッダウラは、カルカッタのイギリス商館に圧力をかけ、通商特権の乱用是正に動きます。クライヴは艦隊支援のもとカルカッタを奪還し、同地の要塞化と財政確保を進めたのち、太守側の重臣ミール・ジャーファルらと内通して政変を画策しました。1757年6月、プラッシーの戦いでは、ベンガル軍の大部が戦闘を回避するなか、クライヴ軍は砲兵・歩兵の集中運用で太守本隊を崩し、短時間で勝利します。結果としてミール・ジャーファルが太守に擁立され、会社は巨額の補償金と通商上の優遇、領地収入を獲得しました。ここに、軍事力と政変工作を組み合わせて「友好太守」を立て、その背後で財政を握るという、会社の新たな支配スタイルが成立します。
とはいえ、太守交代は安定を直ちにもたらしませんでした。約束の履行や利権配分をめぐり不満が噴出し、フランスの介入も続きます。1764年のブクサールの戦いでは、会社軍(指揮はマジョール=ヘクター・マンロー)がムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守らの連合を破りました。この勝利ののち、クライヴは第二次インド在任期(1765–67)に入り、皇帝からベンガル・ビハール・オリッサのディーワーニー(徴税・財務管理権)を正式に付与されます。これは、会社が「ムガル帝国の法的枠内で」歳入を直接管理することを意味し、形式上は皇帝の名義を借りつつ、実質的には会社が現地の財政と行政に深く介入する体制を作りました。
このとき採られたのが、名目上は太守が行政(ニザーミー)を司り、会社が歳入(ディーワーニー)を司る二重支配(デュアル・システム)です。実務では会社側の収税官が地主(ザミーンダール)や徴税請負と接続し、内政への影響力は急速に拡大しました。軍費・配当・賠償金を優先する歳入運用は、商業信用や農村の流動性に歪みをもたらし、のちの危機の素地となります。
統治と腐敗:私貿易、賄賂、飢饉の影
会社支配の拡大に伴い、深刻化したのが腐敗と私益追求でした。クライヴ自身、役人や商人から贈与金を受けた事実を認めつつも、政変工作や軍費の原資として「慣行」の範囲だと弁明しました。実際、当時の会社文官・軍人は給与が低く、通商特権や「ダストゥーク(免税許可)」を利用した私貿易が収入源となっていました。ベンガルでは生糸や綿布の買付けに会社の強制力が介入し、現地商人や織工の交渉力が低下、価格と供給のバランスが崩れます。クライヴは第二次在任期に「私貿易の禁止・制限」「贈収賄の抑制」「軍隊の常備化と給与改善」などの改革を打ち出しましたが、利害の抵抗と監督体制の弱さから徹底には至りませんでした。
1769–70年のベンガル大飢饉は、自然要因(モンスーン不順)に加えて、歳入優先と市場統制の硬直が被害を深刻化させたと指摘されます。食糧の移出規制や買い占め、不作期における徴税の継続、農民の負債累積などが重なり、人口の大幅な減少と生産基盤の破壊が生じました。飢饉そのものはクライヴの在任後に本格化したものの、彼の時代に敷かれた歳入・貿易の制度が危機に脆弱だったことは否めません。会社の配当確保と軍事支出を優先する財政構造は、地域社会の緩衝機能を弱め、気候ショックに対する回復力を損ねたのです。
軍事・財政両面での「会社国家化」を進めた功績の裏側で、クライヴは収賄・収奪の象徴としても記憶されました。現地の宮廷文化に倣った贈与・褒賞の慣行は、ロンドンの議会政治の倫理からは逸脱と見なされ、やがて帰国後の追及へつながっていきます。
帰国後の追及と評価:英雄・被告・制度設計者
クライヴは1767年に帰国すると、巨額の財産と爵位を得た成功者として迎えられましたが、同時に会社支配の実態が議会や世論の関心を集め、ロバート・クライヴ個人も標的となりました。1772–73年の議会審理では、贈収賄や不当利得の追及が行われ、彼は有名な弁明演説で「必要と慣行の範囲で行動した」と主張しました。議会は厳重注意(censure)にとどめ、法的処罰は回避されましたが、世論の風当たりは強く、精神的にも追い詰められたクライヴは1774年に死去します(死の状況については自殺説が広く流布しています)。
一方で、この時期の政治的反省は、会社の統治を本国政府の監督下に置く改革へと進み、最終的に1784年のインド統治法(ピットのインド法)で制度化されます。クライヴの現場的な統治と財政の設計は、帝国の初期形成に不可欠でしたが、そのままでは腐敗と危機を増幅することも露呈しました。結果として、彼の遺産は「会社国家の可能性と限界」を晒し、議会統制の導入と行政の官僚化を促す引き金になったのです。
歴史学的評価は、時代と視点で大きく揺れます。19世紀の帝国史では「インドのクライヴ」として英雄視され、少数で大軍を破った軍才と大胆な政治交渉術が称揚されました。20世紀後半以降は、植民地支配の暴力性や収奪の構造、飢饉との関連、制度的腐敗に焦点が移り、批判的評価が優勢になります。今日では、功罪を併せ持つ「制度変容の触媒」として捉える視点が一般的で、クライヴは戦術家・陰謀家・行政改革者・収奪者という複数の顔を持つ人物として描かれます。
総じて、クライヴを理解することは、東インド会社という民間企業が、軍事と財政を握る主権的主体へ変質する瞬間を理解することに直結します。プラッシーの短い砲声から、ディーワーニーの長い帳簿へ—戦争の勝利を歳入管理に翻訳し、法的正統性(皇帝からの認可)と実力支配(会社の軍隊)を組み合わせた統治モデルは、その後の英領インドの原型となりました。クライヴは、その扉を開いた鍵の一つだったのです。

