孔穎達 – 世界史用語集

孔穎達(こうえいたつ、574–648年頃)は、唐の太宗期に古典注釈の国家標準『五経正義』の編纂を主導した儒者で、以後一千年近くにわたり科挙と官学の根幹を形づくった人物です。簡単にいえば、「経書の読み方を国の共通ルールにした人」です。漢代以来の注(ちゅう)・義疏(ぎそ)を整理し、異説を取捨し、学派を超えた折衷で統一的な解釈を示したことで、官僚登用試験や行政の文書作法、法律解釈の基準までもが安定しました。孔子の後裔としての象徴性、太宗の学政(教育政策)への実務貢献、注疏体という編集技法の確立—この三点が孔穎達を理解する鍵です。ここを押さえるだけで、唐代の学問統治がどのように制度化され、宋・元・明・清へと連なる東アジアの学術空間がどのように形成されたかの輪郭がつかめます。

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生涯と時代背景:隋唐転換期の学匠

孔穎達は、孔子の家系に連なる家に生まれたと伝えられます。若くして経書・史書・訓詁に通じ、隋末の混乱をくぐって唐に仕えました。唐初は、制度と文物の総整備が進められた時代です。太宗(在位626–649)は、法制・戸籍・軍政の再編に加えて、学校制度・図書整理・科挙制度の整備を国家事業として推進しました。諸学派の注釈が割拠し、同じ経書でも異なる講読法が並び立つ状況では、官学と試験の公平性・一貫性に欠けます。太宗はここに着目し、学者集団に経書の定本化を命じました。その中心に立ったのが孔穎達でした。

彼は弘文館・国子監などの学官を歴任し、注疏編纂の統括役に抜擢されます。人物像としては、博覧と折衷のバランスに優れ、過度に一派に依らず、異説の要点を整理して妥当解を立てる調停型の学者でした。唐初の官僚制は、軍功・家格・学識の三要素の調和で持ちこたえていましたが、孔穎達はそのうち「学識」の部分を制度化するという地味で重要な役割を担いました。

『五経正義』の編纂:注疏体の確立と国家標準

孔穎達の代表事業は『五経正義』の編纂です。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』(『春秋』は『左氏伝』と一体で講じられるのが唐以降の通例)を指します。編纂の基本方針は、漢魏以来の「注」(主に鄭玄らの定評ある注釈)を底本とし、その上に唐代学者が「疏」(注の意味・背景・他説との関係を説明する層)を加える「注疏体」を整えることでした。単独の権威に依存せず、諸注諸説を対校し、語義・制度・禮(礼)・度量衡・地名・官名などの実務情報を含めて、行政・教育でそのまま参照できる「運用型の解釈」を目指したのが特色です。

編纂作業は、孔穎達を総裁とする合議制で進みました。各経ごとに分担者を置き、草案の段階から相互批判を繰り返し、最終的に統一稿にまとめ上げます。彼は全体の方針統一・語彙統一・典拠整理を担い、異説が拮抗する箇所では、(1)古来の通説、(2)文献学的根拠、(3)制度史・礼制の整合性、(4)読みやすさ、の四基準で裁定する姿勢をとりました。『五経正義』は貞観年間に大枠が整えられ、孔穎達の没後に後継者が補訂して、永徽年間に朝廷へ正式に上奏・施行されます。以後、この体系は「国学の正科」となり、唐後期の『開成石経』の刊刻や宋の刊本整備、元明清の科挙経義の出題根拠へと受け継がれていきました。

『五経正義』の効用は三つあります。第一に、試験制度の公平化です。受験生と試験官が参照すべき標準を一本化し、出題・採点の恣意を抑えました。第二に、行政運用の可用性です。礼制・官名・刑政に関わる語義が整備され、詔勅や公文書での用語選択の指針になりました。第三に、教育現場の均質化です。地方ごとに講読法が異なる問題を解消し、国子監・州県学の授業で共通のテキストを使えるようにしました。

方法と思想:折衷主義、実務性、そして「古典の公共化」

孔穎達の学問姿勢は、派閥対立を超える折衷主義にありました。漢代の今文・古文の対立、公羊・左氏・穀梁の三伝の競合、訓詁学(語義・音韻)と義理学(道徳・政治)の緊張を、彼は「注疏体」という編集方法で橋渡しします。具体的には、(1)語義はできる限り古注に拠る、(2)制度の変遷は史書・志書で補う、(3)道徳判断は過度に踏み込まず、経典本文の秩序観にとどめる、という抑制的な原則です。これにより、『五経正義』は一派の宣言書ではなく、公共財としての古典読解ガイドとなりました。

もう一つの特徴は「実務性」です。礼記の条文と実際の儀礼手順の対応、官名の変遷、爵位・封建の制度、度量衡の換算、地理の比定など、役所でそのまま使える形に整序されています。唐代は、律令格式の大改編と律令注の整備(律は刑法、令は行政法、格式は施行細則)を同時に進めた時代で、経書の語義が法令の条文理解に直結しました。『五経正義』は、経典と法令、学問と行政が連動する社会で、共通言語としての役割を果たしたのです。

思想史の位置づけでいえば、孔穎達は新しい「教義」を創出した革新者ではありません。むしろ、散在する知を編集して公共化する「制度の技術者」でした。唐以後の大陸と朝鮮・日本の官学が、同じ語彙で議論できたのは、この編集技術が共有基盤を提供したからです。東アジアの知の標準化—いわば「アカデミック・インフラ」の整備—こそが彼の思想的貢献でした。

科挙・教育・東アジアへの波及:長い影

『五経正義』は、唐・宋・元・明・清の科挙における「経義(けいぎ)」の出題と答案の言語を決定づけました。答案の作法(経文引用の順序、注疏の典拠提示、異説の処理、礼・法との接続)は、『正義』の枠組みを前提に訓練されます。これにより、官僚層の思考が一定のフォーマットに収まり、行政の文書作法が全国的に均質化しました。地方官が赴任先を変えても、礼文・刑名・地理・税目の語義を共有しているため、引継ぎがスムーズに行える—このような「知の可搬性」も、『正義』が支えた効果の一つです。

また、この標準は朝鮮・日本にも及びます。朝鮮王朝の成均館教育や科挙(科田試など)では、宋以降の理学的注釈と並び、『五経正義』系の注疏が講読され、用語と作法の基盤を与えました。日本でも、奈良・平安期の大学寮や鎌倉・室町の禅林・儒林の講義で、唐宋の注疏が輸入され、江戸期の林家学統や昌平坂学問所の講学において、経書講義の共通語として機能します。すなわち、孔穎達の仕事は国境を越えた「行政の文法」を整え、東アジア官僚社会の思考様式を長期にわたって規定しました。

評価と限界:標準化の功罪、宋学・考証学からの視線

孔穎達の評価は概して高いものの、時代ごとに角度が異なります。宋代の朱子学は、形而上学(理気論)に基づく体系化を進め、経文の道徳哲学的読解を強めました。その観点からは、『五経正義』は訓詁・制度情報に偏り、形而上の理を掘り下げないという物足りなさが指摘されます。他方、清代考証学は音韻・校勘・出土資料の増加を背景に、漢唐注疏の伝承過程を厳密に検証し、語義・地理比定の誤りや、異本整合の不足を批判しました。すなわち、宋学からは「哲学的深みの不足」、清学からは「文献学的精密さの不足」という挟撃です。

それでも、『五経正義』の公共的効用—教育・行政・法令の相互運用性—は揺らぎませんでした。標準化は創造性の伸びを抑える側面を持ちますが、国家の初期整備期には、まず共通言語と最低限の品質保証が不可欠です。孔穎達は、その役割を見事に果たしたといえます。近代以降、経書解釈の独占的地位は失われましたが、注疏体という編集様式、典拠をたどる作法、語義・制度・礼の連関に注意を払う姿勢は、今日の人文・法学・政治史研究にも通じる基礎スキルとして生き続けています。

まとめ:学問を制度に変えるという仕事

孔穎達の意義は、新学説を打ち立てたというより、散らばった知識を「国家が使える形式」に束ね直した点にあります。注(基層)に疏(説明層)を重ね、学派間の対立を一次資料と運用性で架橋し、教育と行政に直結する標準を作る—この編集技術は、唐代の建国プロジェクトを静かなところで支えました。『五経正義』は、単なる古典注釈ではなく、社会の共通言語を形にしたインフラです。孔穎達を通じて見えるのは、思想家と官僚と編集者が一体化する東アジアの学統の姿であり、学問が制度となり、制度が長い時間に耐えるための作法なのです。彼の名は、古典の世界に公共性を与えた「整備者」の代名詞として、今も静かに読み継がれています。