後晋 – 世界史用語集

後晋(こうしん、936〜947年)は、中国の五代十国時代に華北を支配した短命王朝で、建国者の石敬瑭(せきけいたん)が契丹(後の遼)に援助を求め、対価として「燕雲十六州」を割譲したことで著名です。これにより、長城線の南側にまで契丹の勢力が食い込み、華北の防衛バランスは大きく崩れました。後晋は、建国の負債ともいえる対遼従属の構図と、内政の整備による自立化の試みとのあいだで揺れ動き、二代目の出帝・石重貴(せきちょうき)が対遼強硬に転じたのち、947年に遼の侵攻を受けて滅亡しました。短いながらも、節度使政権の限界、遊牧国家との「冊封—保護」の非対称関係、国土喪失がもたらす戦略環境の変化を凝縮して示す政権です。以下では、成立の経緯、対遼関係と国境問題、内政と社会、滅亡とその後への影響を、歴史の流れに沿って整理して解説します。

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成立の経緯――石敬瑭の擁立と燕雲十六州割譲

後唐末、華北は依然として節度使(軍政長官)勢力が割拠し、宮廷内の権力闘争と地方軍の私戦が絶えませんでした。936年、河東節度使の石敬瑭は、主君・後唐の明宗系から権力を奪った李従珂(後唐末帝)と対立し、契丹の太宗(耶律徳光)に救援を要請します。石敬瑭は契丹に対し、自らは「臣」「養子」となって結盟し、その見返りに燕雲十六州(幽州・薊州など、現・北京・河北北部から山西北部にかける戦略要衝)を割譲することを約します。

契丹軍の支援で後唐の都・洛陽は陥落、李従珂は自殺に追い込まれ、石敬瑭は開封(汴京)に入って即位、国号を晋とし、史書はこれを「後晋」と呼びます。石敬瑭は契丹太宗を「契丹皇帝」(叔父)として礼を取り、毎年の歳幣(絹・銀・茶など)を約し、自身は「兒皇帝(じこうてい)」と蔑称されるほど従属的な礼遇を受け入れました。燕雲十六州の割譲は、唐以来の長城防衛線を内地側に大きく後退させ、契丹にとっては南下の跳躍台、後晋にとっては永続的な安全保障の痛手となりました。

石敬瑭(高祖)の在位(936〜942)は、対遼の安定を対価に国内の平定・再建を図る時期でした。税制の立て直し、官僚の登用、内陸交通の整備など、五代の諸王朝が共通に抱えた課題に取り組み、開封を中心に市場と財政を再構築します。しかし建国の経緯ゆえに、対外的自立の余地は狭く、燕雲を失った国境配置は軍略の選択肢を著しく制限しました。

対遼関係と国境――冊封・保護の非対称と戦略的脆弱

後晋と契丹(遼)との関係は、名目上は冊封・保護の枠組みでした。遼は「宗主」として後晋を承認し、後晋は歳幣と朝貢・称臣で関係を維持するという形式です。これは唐—渤海、宋—高麗など東アジアに見られる冊封秩序の延長上にありますが、後晋の場合は、実効支配を伴う領土(燕雲十六州)の割譲が前提で、その非対称性は格段に大きいものでした。

燕雲十六州の喪失は、軍事上の二重の意味を持ちました。第一に、山海関—居庸関—太原北辺という伝統的防衛線が崩れ、契丹騎兵が平原へ下りやすくなったこと。第二に、幽州(燕京、のちの北京)という政治・交通の要衝を失ったことで、河北の節度使群を束ねる統制力が弱まったことです。後晋は河東(太原)や鎮州・定州などの軍鎮を重視し、河川・運河・関門の防備に投資しましたが、戦略的主導権は常に遼側にありました。

外交の実務では、歳幣の額や頻度、使節の礼遇、互市(物資交換)などが敏感な争点でした。石敬瑭はおおむね協調的でしたが、942年に没すると、外戚出身で即位した養子の石重貴(出帝)は、国内の対遼批判を背景に徐々に強硬化します。遼側の内紛や南下の一時停滞に乗じて歳幣の削減・停止を試み、互いの国境監視は緊張を高めていきました。

内政・軍政と社会――節度使の再編、財政と市場、文化の継続

後晋の内政は、五代王朝が共通して直面した「節度使の私兵化をどう抑えるか」という課題に縛られていました。石敬瑭は、自らの出自が節度使であるがゆえに、その利害を熟知しており、要地の転任・分割・親軍(殿前都点検校の系譜)強化によって均衡を図りました。彼は功臣を重用しつつも、軍鎮の世襲固定化を避けるため、頻繁な人事と監察を実施しましたが、地方の自立傾向を根本から改めるには至りませんでした。

財政では、汴京を中心とする運河経済の再建が急務でした。黄河・汴河の輸送系統を整え、塩・茶・布の課税を安定化させ、後唐からの混乱で乱れた戸籍・田籍を徐々に整えます。貨幣は銅銭不足が続き、物納や銀・布との併用が一般的でした。市場では、開封・洛陽・鄴(邯鄲)・太原などの都市に手工業・商業が再集結し、書籍・法令の整備も継続されました。五代は戦乱の時代といえども、唐宋の文化基盤は完全には途絶えず、書画・音楽・宗教(仏教・道教)は都城と地方の寺観を中心に息をつないでいました。

官僚制は、唐制の枠を踏襲しつつ、枢密院(軍政)・三司(財政)・中書門下(文政)のバランスに配慮して運営されました。人材登用では、科挙の実施は断続的で、実務官僚や軍功による抜擢が多く、五代の実力主義が色濃く表れます。刑罰・治安では、戦時体制ゆえに厳罰がちな傾向があり、一方で治乱の鎮定後は恩赦・赦令をもって秩序回復を図るといった弾力運用が見られました。

出帝の対遼強硬と滅亡――947年、遼の南朝・北朝併合の試み

石重貴(出帝、在位944〜947)は、即位当初こそ遼との関係を維持しようとしましたが、やがて強硬に転じ、歳幣の停止・遼使への礼遇縮小を行いました。遼の太宗はこれを「盟約違反」とみなし、944年以降、圧力を強めます。遼内部の遊牧諸部・重臣の利害、韓匡嗣ら後晋内の親遼派・強硬派の対立など、複雑な政治を背景に、局地的な衝突が続発しました。

決定的局面は946〜947年の侵攻です。遼軍は河北から黄河へ進出し、後晋の諸軍は離合集散の末に主力が瓦解、947年正月、汴京は無血に近い形で開城され、出帝は捕縛されます。遼太宗は汴京で自ら「大遼皇帝」として治書し、華北の直接統治(いわゆる「応天受命」の南朝支配)を試みました。しかし水土不服と供給線の伸長、漢人官僚層・地方勢力の抵抗、遼自身の本拠(草原・山地)での問題が重なり、太宗は北帰の途上で病没、遼の華北支配は短期で頓挫します。

遼の撤兵とともに、空白を突いて後漢(劉知遠)が太原を拠点に即位し、五代は次の王朝へ移ります。こうして後晋の統治は終わりますが、燕雲十六州は依然として遼の手中にあり、以後の後漢・後周・北宋にとって、北辺戦略の最大の制約として立ち続けました。後周・柴栄の北伐や北宋・太祖・太宗の十六州回復の試み、さらには遼—宋—夏の三角関係は、後晋が残した「地政学の負債」の延長線上にあります。

歴史的評価と意義――「割地の王朝」か、「過渡の現実主義」か

後晋の評価は、しばしば「割地と屈従の王朝」として厳しいものになりがちです。確かに、燕雲十六州の割譲は長期にわたり中原政権を縛り、北宋の対遼外交・軍事を難しくしました。一方で、石敬瑭の選択は、後唐末の窮状を打開し、短期的には華北の秩序を再起動させた現実主義でもありました。五代の政治は、道義の価値判断だけで片づけられない「選択の連鎖」の中にあり、後晋はその極端例と見ることができます。

制度面では、後晋は五代の行政・軍制・財政の蓄積を受け継ぎ、開封を首都とする都城・市場・運河の運用を継続させました。文化面でも、戦火の合間に文芸・宗教の営みが途切れず、宋代の都市文化・文治主義へつながる細い糸を維持しています。つまり、後晋は「失地の王朝」であると同時に、「唐から宋への橋」に位置し、後周・宋の中央集権化と文治化の前提条件(軍鎮の再編、財政・市場の復旧、官僚制の連続性)を確保した政権でもありました。

総じて、後晋は、外圧と内政、領土と安全、節度使の現実と皇帝権の理想が、激しく拮抗するなかで成立・運営・崩壊した王朝です。燕雲十六州という地政問題、遼という北方国家との関係設計、節度使の抑制と官僚制の再建という課題群は、宋代の政治にまるごと引き継がれました。後晋を学ぶことは、短命王朝の中に潜む長期的な歴史の因子を見抜く訓練であり、国家が存立のために払うコストと代償を冷静に吟味する視角を与えてくれます。