コシュート – 世界史用語集

コシュート(ラーヨシュ・コシュート、Lajos Kossuth, 1802–1894)は、19世紀中葉のハンガリー民族運動を代表する政治家で、1848年革命期に国民議会を主導し、オーストリア帝国からの自治拡大と近代改革を押し進めた人物です。彼は雄弁な演説と新聞活動で世論を喚起し、農奴解放や租税の平等化、言論・出版の自由、責任内閣の樹立などを掲げました。やがて帝国側との対立が内戦へ発展すると、コシュートは国民的動員を訴えて抗戦を率いましたが、ロシア軍の介入で敗れ、亡命の途につきます。その後は欧米を巡りながら、民族自決と立憲政治の理念を発信し続けました。英雄視も批判も受ける存在ですが、ハンガリー近代史における国家・国民・自由の三つを結びつけた政治家として今日まで語り継がれています。本稿では、時代背景、生涯の要点、改革と戦争、亡命と思想、記憶と評価をわかりやすく整理して説明します。

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時代背景と形成――多民族帝国のなかのハンガリー

コシュートが活動した19世紀前半のハプスブルク帝国(オーストリア帝国)は、ドナウ流域からアルプス、アドリア海に至る広大な多民族国家でした。帝国内のハンガリー王国は固有の法と身分制を維持していましたが、政治の実権はウィーンの宮廷と官僚機構が握り、ハンガリー側の自治要求は抑制されがちでした。産業化の波と印刷・交通の発達は、新しい政治意識と民族的自覚を生み、言語・教育・経済の近代化を求める声が強まっていきます。

1802年生まれのコシュートは下級貴族の出身で、法学を学び、地方行政や弁護人として経験を積みました。彼の政治的出発点は言論活動でした。議会(ディエータ)での討議や地方の政治過程を克明に報じる匿名パンフレットや新聞は、保守派から弾圧を受けつつも読者を広げ、ハンガリー語による公共圏を形成しました。投獄(1837–1840)を経ても彼の名声はむしろ高まり、釈放後は『ペシュト日報』などで改革派の論陣を張ります。雄弁な演説は「コシュート熱」と呼ばれる大衆的支持を生み、財政や関税、工業保護を組み合わせた「経済的国民運動」の青写真を描きました。

当時の課題は多岐にわたりました。第一に、農奴制の改革です。荘園に縛られた農民の賦役と地代の負担は重く、経済の停滞と社会的不満の最大要因でした。第二に、身分秩序と税制の不平等です。貴族の免税特権が国家財政を圧迫し、近代的公共事業や教育が遅れました。第三に、言語と行政の問題です。ハンガリー語の公用化と教育の整備は、民族的自覚の核心でした。これらを一挙に解くには、議会改革と責任内閣の樹立が不可欠だとコシュートは考えました。

1848年革命と改革――「三月法」と国民動員

1848年、フランス二月革命の余波がヨーロッパ全土に波及すると、ウィーンでも民衆蜂起が起こり、帝国は譲歩を余儀なくされます。ペシュト(ブダペシュト)では若い知識人グループ(ペテーフィらの「三月の青年」)と改革派政治家が連携し、検閲撤廃、報道自由、責任内閣、農奴解放、国民軍創設など「十二か条」を掲げました。コシュートは議会で財政自立と国軍の編制を求める演説を行い、国内の熱狂を組織的な政治改革へと導きます。

この結果、1848年春から夏にかけて「三月法」と呼ばれる一連の改革立法が成立しました。農奴解放(地代と賦役の法的廃止、補償の枠組み)、租税の平等化(貴族免税の撤廃)、言論・出版の自由、地方自治の整備、ハンガリー語の公用化、国民警備隊(国民軍)の創設、そして最も重要な責任内閣の成立です。改革政府の首相には保守穏健派のバティアーニが就き、コシュートは財務相として紙幣発行(クチュカリ、いわゆるコシュート紙幣)と財政基盤の整備に動きました。彼の経済政策は、対外関税や国内工業保護、国債・紙幣の活用で独自の財政主権を確立しようとする試みでした。

しかし、改革は直ちに難関に突き当たります。帝国内の他民族、たとえばクロアチア、セルビア、ルーマニアなどの諸集団は、ハンガリー議会の民族一体化政策に警戒を抱き、言語や自治をめぐる対立が先鋭化しました。ザグレブのバン(総督)イェラチッチはウィーンと結び、軍を率いてハンガリーへ進軍します。ウィーン宮廷が反動化すると、ハンガリー政府は防衛のための非常措置を拡大し、内戦の様相を呈しました。

1849年4月、戦況の一時的好転を受けて、デブレツェンの国民議会はハプスブルク家の支配を廃し、独立宣言を発します。コシュートは「国家摂政・総裁」として非常権限を握り、国土防衛と動員を指揮しました。彼は地方有志と都市の同業組合、農村の小作層に訴え、兵站と銃後の支援を整えようと努めます。だが、帝国はロシア帝国に援軍を要請し、数十万のロシア軍がカルパチアを越えて侵入しました。多正面作戦と兵力差の前に、ハンガリー軍は次第に劣勢となり、8月にヴィラゴシュで降伏、革命は終息します。

敗北から亡命へ――世界を巡る演説と外交

敗北後、コシュートはトルコに逃れ、オスマン帝国の保護下に置かれました。オーストリアとロシアは引き渡しを要求しましたが、トルコは圧力を退け、一定の条件下で亡命者を保護します。やがて彼は英米への渡航を許され、ロンドンやマンチェスター、さらにニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンなどを巡って演説旅行を行いました。彼は民族自決、立憲政治、言論の自由、そしてヨーロッパの専制に対抗する国際的連帯を訴え、各地で大観衆の歓迎を受けます。

アメリカでは、上院・下院の歓迎決議や都市の凱旋パレードが行われ、コシュートは「自由の闘士」として喝采されました。他方で、アメリカの国内政治、とくに奴隷制問題に触れることには慎重で、外交的配慮から普遍的原則に留める発言が多かった点は、後世に議論を残しました。彼は米英の支援を梃子に、ヨーロッパでの反専制連合を構想しましたが、クリミア戦争前夜の国際政治は思惑どおりには動かず、実質的な軍事支援や介入を取り付けることはできませんでした。

その後、コシュートはイタリアのトリノやトリーステ周辺に滞在し、ときにマッ志ーニら共和主義者と接触しながら、再起の機会を探りました。しかし、ハプスブルク帝国は1867年にハンガリーと妥協して二重帝国(アウスグライヒ)体制を成立させ、ブダペシュトの支配層は自治と近代化の利益を享受する道を選びます。コシュートはこの妥協を容認せず、亡命の地から批判を続けました。彼にとって、完全独立と民主化は譲れない原則だったからです。

思想・政治手法・評価――自由と国民を結ぶ試み

コシュートの政治思想は、立憲主義と民族自決、経済ナショナリズムの三要素で整理できます。立憲主義では、責任内閣と議会主権、司法の独立、言論・出版の自由を柱とし、専制的統治を抑える制度設計を重視しました。民族自決では、ハンガリー語と文化の保護・振興を国家の基軸に据え、教育と言論を通じて国民意識の普及を図りました。経済では、関税・紙幣・国債・国立銀行構想などを通じて財政主権の確立をめざし、政治的独立と経済的自立を同時に追求しました。

一方で、彼の運動には限界もありました。多民族社会における統合の設計が不十分で、ハンガリー領内のスラヴ系・ルーマニア系などの権利保障が後景化し、帝国側に分断と介入の機会を与えました。また、戦時指導としての集中権限が民政改革を圧迫し、紙幣発行や徴発が短期的には有効でも長期の基盤整備には至らなかったという批判があります。英雄的指導者のカリスマは動員の推進力になる一方、制度化の段階で脆弱性を残すという近代革命の普遍的課題が、彼の事例にも現れました。

評価は時代により振幅します。19世紀後半から20世紀にかけて、コシュートはハンガリー民族主義の象徴として称揚され、記念碑や街路名、紙幣の肖像を通じて公共空間に刻まれました。他方、二重帝国下の穏健派からは、彼の強硬路線が無用の惨禍を招いたとの批判も根強く、社会主義者や多民族主義者からは、農民・少数民族の利害への配慮が不十分だったと指摘されました。今日では、カリスマ的民衆指導と制度的包摂の両立、ナショナルな解放とマルチエスニックな共存の両立という、現代政治にも通じる課題を提示した人物として、よりバランスの取れた評価が進んでいます。

政治手法の点で特筆すべきは、印刷・集会・演説を駆使した「世論の創造」です。彼は新聞の論説、議会演説、街頭演説を連動させ、税や通貨、軍の問題を日常語で語り、抽象的理念と具体的利益を結びつけました。これにより、都市と農村、職人と商人、学生と地主という異なる層が同じ政治言語を共有する端緒が開かれました。近代的大衆政治の技法は、彼の時代からすでに実験されていたのです。

記憶と遺産――地図の上の名と、公共空間のコシュート

ハンガリー国内には、コシュート広場(国会議事堂前)、コシュート通り、銅像や胸像が各地に置かれ、学校の教科書や映画、記念式典を通じて彼の名は日常的に触れられます。紙幣や切手に描かれた肖像は、国家の起源神話と近代化の物語をつなぐ象徴として機能しました。国外でも、米英をはじめ各地に記念碑や地名が残り、1848年革命の国際性と、彼の演説が生んだ共感の広がりを物語ります。

文化的表象の面では、彼は「剣を掲げる革命家」と「巻物と財政表を手にする行政家」という二つの像を併せ持ちます。前者は抵抗と自由の情熱、後者は制度化と近代化の理性を象徴します。どちらの像も単独では不完全で、両者の緊張関係こそがコシュートの政治の核心でした。抵抗のエネルギーを制度に変換する難しさ――この課題は、彼の敗北と亡命の経験も含めて、後世への教訓として記憶され続けています。

総じて、コシュートは、言論と制度、自由と国家、民族と多民族共存という複雑な方程式に挑んだ政治家でした。1848年の挫折にもかかわらず、彼が示した立憲・自治・経済主権の三位一体の構想は、のちの中央ヨーロッパの国家形成に間接的な影響を与え、現代の市民社会論にも通底する射程を持ちます。彼の名が公共空間に残るのは、勝敗や政権獲得の成否を越えて、「何のための国家か」「誰のための自由か」を問い続ける契機を提供するからにほかなりません。