コンゴ内戦 – 世界史用語集

「コンゴ内戦」とは、一般に1990年代後半から2000年代初頭にかけて旧ザイール(現コンゴ民主共和国)で連続して発生した大規模武力紛争を指す通称です。狭義には1996〜1997年の第一次コンゴ内戦と、1998〜2003年の第二次コンゴ内戦(「アフリカの世界大戦」と呼ばれる規模)をさします。これらは国内の政変にとどまらず、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、ブルンジなど周辺諸国が正規軍・代理勢力・補給網で深く関与した点に特徴があり、東部キブ州を中心にその後も不安定が長期化しました。背景には、植民地期以来の資源の政治地理、独立後の国家建設の脆弱性、冷戦後の安全保障環境の激変、そして地域横断の避難民・武装集団の移動が重なっています。以下では、用語と背景の整理、二つの内戦の経過、国際的関与と資源・武装経済、そして停戦後の余波と現在の課題を、できるだけ分かりやすく解説します。

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用語と背景—旧ザイール体制の揺らぎ、ルワンダ虐殺の余波、資源と周辺安全保障

1960年の独立後、コンゴ(のちザイール)は動乱とクーデタを経て、1965年にモブツが実権を掌握しました。モブツ体制は「ザイール化」政策や一党支配、外資と資源収入に依存する統治で冷戦期を生き延びますが、1980年代後半以降、銅・コバルト価格の変動、債務危機、汚職・縁故主義による国家機能の空洞化が深刻化しました。軍・行政の給料遅配、公共サービスの崩壊、地方と中央の断絶が進み、国家暴力と自助的秩序が入り乱れる「無数の小さな主権」の状態が広がります。

決定的な転機は、1994年のルワンダ虐殺と、それに続く武装勢力・難民の大移動でした。フツ多数派政権が崩壊し、ツチ系主導の新政権が成立すると、旧政権側の武装勢力(インテラハムウェや旧ルワンダ軍FAR)とフツ民間人多数が東隣のザイール東部へ流入します。これらの武装勢力は難民キャンプに拠って東部キブ州からルワンダ領内に襲撃を繰り返し、ルワンダ新政権は国境の向こう側—ザイール領内—に脅威の根を見出しました。ウガンダもまた反政府勢力への越境拠点化を懸念し、国境安全保障の名目で行動します。こうして、旧ザイールの東部は、地域安全保障と難民・民兵の問題が重なる「国境をまたぐ戦場」と化しました。

同時期、東部から中南部にかけては金・錫・タンタル(コルタン)、ダイヤモンド、木材などの資源が高密度で分布し、密輸・課税・保護費といった非正規財源が武装勢力や地方軍、政治家、周辺諸国のネットワークに利益をもたらしていました。資源は紛争の原因であると同時に延命装置でもあり、中央の脆弱性と地方の収奪経済をつなぐ回路として機能しました。

二つのコンゴ内戦の経過—第一次(1996–97)と第二次(1998–2003)

第一次コンゴ内戦(1996–1997)は、ザイール東部のキブ州で始まりました。ルワンダとウガンダは国境防衛と難民キャンプ無力化を掲げ、在地の反モブツ勢力や亡命政治家と組んで「コンゴ・ザイール解放民主勢力同盟(AFDL)」を組織し、ローラン=デジレ・カビラを政治的顔として擁立しました。AFDLはルワンダ国防軍・ウガンダ人民防衛軍の支援を受け、東部の都市を次々と制圧、西へ電撃的に進撃します。ザイール軍は崩壊的に退却し、1997年5月、首都キンシャサは無血に近い形で陥落、モブツは亡命、国名は「コンゴ民主共和国」へ戻り、カビラが大統領に就任しました。この過程では、難民キャンプ解体とフツ武装勢力掃討の名の下で、市民を含む多数の犠牲が生じ、後年まで真相究明が課題となりました。

第二次コンゴ内戦(1998–2003)は、新政権発足からわずか一年で勃発します。カビラ政権と後見役だったルワンダ・ウガンダの間で亀裂が生じ、東部でRCD(コンゴ民主連合)や後にMLC(コンゴ解放運動)などの反政府勢力が台頭しました。これに対抗して、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビアなどが政府側を支援して参戦し、複数の正規軍・準軍事組織・民兵・傭兵が入り乱れる「多国間内戦」の様相を呈します。1998年8月の空挺奇襲で首都制圧を狙った反乱は失敗し、戦線は東部と中部に固定化、キサンガニやイツリ、カタンガ北部などで激しい戦闘と住民虐殺、資源争奪が続きました。

外交面では、1999年のルサカ停戦協定で一応の停戦枠組みが示され、国連PKO(MONUC)の派遣が決定されます。しかし、現地では停戦違反・分裂・再編が頻発し、武装勢力同士の抗争や「身分化」した暴力が継続しました。2001年にカビラ大統領が暗殺され、後継に就いたジョゼフ・カビラが国際仲介を受け入れてインクルーシブな移行政権づくりを進め、2002〜03年のプレトリア合意・サンシティ合意で統一政府の骨格が定まりました。2003年の暫定政府発足と各派武装解除(DDR)開始により、第二次内戦は制度的には終息に向かいますが、東部ではなお断続的な戦闘と新興勢力(CNDP、のちM23など)の活動が続きました。

国際関与・資源・武装経済—PKO、周辺国、紛争鉱物、民兵の生態系

二つの内戦を通じて、国際関与は段階的に強まりました。国連のMONUC(のちMONUSCO)は、停戦監視、民間人保護、DDR(武装解除・動員解除・社会復帰)、選挙支援、治安部門改革(SSR)など多岐にわたる任務を担い、ピーク時には数万人規模の部隊・警察・文民要員が展開しました。だが、広大な国土、分散した武装集団、脆弱な道路網、反政府勢力の流動性の前で、任務遂行はしばしば困難を極め、PKOへの信頼と不信が交錯しました。2013年には東部のM23に対抗するため、「介入旅団(FIB)」という攻勢的マンデートを持つ部隊が設置され、従来より強制力のある行動が試みられました。

周辺諸国の関与は、国境防衛・反政府勢力支援・資源アクセスといった動機が混在していました。ルワンダとウガンダは東部に影響力を維持しようとし、政府側を支えたアンゴラ・ジンバブエ・ナミビアは、それぞれ自国の安全保障と政治経済上の利害から派兵・援助を行いました。国境地帯では、武装勢力が税関・道路・鉱山・密輸ルートを押さえて独自の租税体制や司法もどきを運用し、住民から徴発と保護を同時に行う「政治的市場」が生まれました。

資源は紛争の燃料でした。金・錫・タングステン・タンタル(3T+T)やダイヤは軽量高価で密輸が容易なため、武装勢力や汚職ネットワークの資金源になりやすく、企業や国際市場も無自覚に汚染されました。これに対し、紛争鉱物規制(各国の法制、OECDデューデリジェンス・ガイダンス、国連専門家パネルの監視など)が整備され、鉱山・輸送・精錬段階でのトレーサビリティ向上が図られました。しかし、規制は地下化と迂回のインセンティブも生み、現地の生計と治安の微妙な均衡を揺さぶる副作用も指摘されます。

停戦後の余波と現在の課題—人道、司法、治安、地域秩序の揺らぎ

2003年の暫定政府発足以降、コンゴ民主共和国は2006年、2011年、2018年と全国選挙を実施し、制度的な国家運営を再構築してきました。とはいえ、東部ではFARDC(国軍)と数十の非国家武装勢力(FDLR、ADF、Mai-Mai諸派、CNDP/M23再興派など)が共存・衝突・共謀する複雑な治安状況が続き、村落襲撃、性暴力、誘拐、強制徴用、採掘現場での搾取がなお深刻です。国内避難民はピーク時で数百万人規模に達し、隣国への越境移動も繰り返されています。エボラ出血熱や麻疹流行などの公衆衛生危機が治安悪化と重なり、人道支援のアクセスが妨げられる場面も頻発しました。

司法の面では、戦争犯罪・人道に対する罪・性暴力犯罪に対する国内裁判が徐々に進み、軍法会議や特別法廷、移動法廷の取り組みが生まれました。国際刑事裁判所(ICC)は一部の武装勢力指導者を起訴・訴追し、国連・NGOは証言収集・被害者支援・法廷監視を続けています。ただし、加害者の多層性と国家機関の関与疑惑、証拠収集の困難、証人保護の脆弱さが、法の正義をしばしば阻みます。移行期正義(トランジショナル・ジャスティス)は、真相究明、賠償、記憶の場づくり、前線兵の再統合と生計支援を含む長期の社会プロジェクトであり、短期の裁きだけで完結するものではありません。

安全保障部門改革(SSR)と地方統治の再建は、内戦の遺産に正面から向き合う課題です。軍・警察の給与支払いの透明化、昇進・配置の脱政治化、汚職の遮断、兵站・道路網の整備、地方行政の権限と財源の再配分、土地と帰還の調停、伝統的権威と法定制度の役割分担など、制度の細部が治安と生活の安全に直結します。地域秩序の面では、東アフリカ共同体(EAC)や南部アフリカ開発共同体(SADC)の安保枠組み、周辺国との越境犯罪対策、難民の保護と帰還の合意形成が、平和の条件を左右します。

結局のところ、コンゴ内戦の教訓は、「国家の脆弱性」「地域の連動性」「資源と暴力の相互依存」が同時に走るとき、危機は国内に閉じないということです。停戦や選挙は必要条件にすぎず、生活を回復させる細部の制度設計、人権と法の支え、地域の相互保障、そして資源の公正な管理が揃ってはじめて、戦争の循環は断ち切られます。長い時間軸で、中央と地方、国家と地域、経済と正義を結び直す作業こそが、現在進行形の課題なのです。