フランスの左派連合政権は、一般に1936年に成立した人民戦線内閣(首相レオン・ブルム)を指し、急進社会党(急進党)・社会党(SFIO)・フランス共産党(PCF)の選挙協力と議会多数にもとづく統治を意味します。大恐慌後の不況と失業、極右勢力の台頭、国際的ファシズムの伸長に対して、議会制民主主義を守りつつ社会改革を前進させることを目標に掲げました。週40時間労働・有給休暇・団体交渉権などの画期的な労働立法を実現し、労使関係を近代化すると同時に、フランス人の生活文化に夏のバカンスを根づかせた内閣として記憶されています。他方、フランの切り下げや価格上昇、資本逃避、スペイン内戦に対する不介入政策などをめぐる論争と葛藤が続き、1937年の「休戦」宣言、1938年の急進党ダラディエ政権への移行を経て、短命の改革期に終わりました。本項では、成立背景と政治構成、政策と社会的インパクト、外交・安全保障上の判断、連合の解体と遺産、さらに後世の「左派連合」(1981年のミッテラン期、1997年の〈複合左派=ゴーシュ・プリュリエル〉など)との連続と相違を整理します。
成立背景と政治構成:2・6暴動から選挙連合へ
1930年代前半のフランスは、大恐慌の打撃がじわじわと本土へ波及し、失業・企業倒産・物価と賃金のバランス悪化が家計を圧迫していました。1934年2月6日、右翼団体(クロワ・ド・フーなど)や元軍人の動員が議会前で暴徒化する「2・6暴動」が発生し、議会共和制の基盤が揺らぎます。これに危機感を共有した社会党(SFIO)、急進社会党(急進党)、そして議会政治への参加を再定義しつつあったフランス共産党(PCF)が、反ファシズム・民主主義防衛・社会改革を掲げて共闘の道を探りました。1935年には〈人民戦線協定〉(〈共同行動協定〉)が整い、統一候補・選挙協力・立法課題を骨子とする綱領が作られます。
1936年4〜5月の総選挙で人民戦線は過半数を獲得し、SFIOのレオン・ブルムが首相に就任しました。政権の中核はSFIOと急進党で、PCFは閣外協力の立場を取りました(PCFは大臣ポストを受けず、議会で支える形)。社会党は労働立法と福祉拡充、急進党は財政規律と農民・中小層保護、PCFは反ファシズムと労働者権利を前面に出し、それぞれの支持基盤を意識した役割分担が試みられました。連合はイデオロギーの差異を抱えながらも、「共和国防衛」という大枠で一致して出発したのです。
改革の核心:マチニョン協定、週40時間・有給休暇、社会の顔つきの転換
政権成立直後、フランス各地では労働者の〈着座スト(サボタージュではなく、工場・店舗に残って生産を止めずに占拠する形)〉が波のように広がりました。政府は鎮圧に走らず、労働総同盟(CGT)、経営者側(CNPF前身)、政府が仲介してマチニョン協定(1936年6月)を締結。ここで、(1)団体交渉権と労働組合の承認、(2)賃上げ(一般に7〜15%程度の一括引き上げ)、(3)労働者代表の選出手続、(4)争議の解決ルール、が合意され、直後の立法で週40時間労働、年2週間の有給休暇、児童・青年保護の強化、労働監督の整備などが一体で実現しました。
40時間制は、雇用の分かち合い(ワークシェア)と労働の人間化を狙いました。賃金は名目で上がりましたが、需要の喚起と生産性向上の調整が追いつかず、物価上昇や供給制約という副作用も生じました。有給休暇は、列車・自転車・海辺の町を一気ににぎわせ、フランス社会に「バカンス文化」を根づかせるきっかけになります。庶民が初めて海を見た、という回想が残るほど、生活感覚の転換は大きいものでした。
農業・中小商工に対しては、農業信用の拡充、農産物の最低価格や共同出荷の促進、家賃規制や零細家計の保護などが講じられました。公共事業や住宅建設の刺激も図られ、社会保障の礎を厚くする方策が検討されます。他方、金融資本の規制や国有化は限定的で、電力・兵器など戦略部門の公的統制・国有化が段階的に進められたにとどまります。対外収支と為替の制約の下で、漸進的改革と市場の反応の調整に苦労したのが実態でした。
経済・通貨・政治的せめぎ合い:フラン切下げ、資本逃避、休戦宣言
改革の熱気の一方で、マクロ経済は難題に直面しました。賃上げと時間短縮は家計に恩恵をもたらしましたが、生産コストの上昇と供給の滞りが物価圧力となり、競争力の低下が懸念されました。投資家の一部は将来の増税や規制強化を嫌気し、資本逃避が生じ、フラン売りが加速します。政府は1936年秋にフランの切り下げに踏み切り、輸出競争力の回復を図りましたが、信認の回復には時間がかかりました。外貨準備の流出が続く中で、ブルムは1937年6月に「休戦(トルヴ・アーム)」宣言を行い、新規の社会支出拡大を凍結、財政と物価の安定を優先する転換を打ち出します。これは左派基盤に痛みを伴う決断で、連合内部の緊張を高める結果になりました。
政治的にも、人民戦線の足並みは次第に乱れます。急進党内の保守派は財政規律と治安の重視を強め、社会党左派は改革の速度に不満を募らせ、PCFは人民戦線の維持を呼びかけつつ対独不安に敏感な姿勢をとりました。1937年夏にブルム内閣は退陣、短命の再登板(1938年3月)を経て、急進党のダラディエ内閣が成立します。ダラディエは40時間制の弾力化などを進め、対外危機へ向けた再軍備と産業動員を急ぎました。
外交と安全保障:スペイン内戦と不介入、対独抑止の難路
1936年に勃発したスペイン内戦は、人民戦線政権最大の外政課題でした。ブルム個人はスペイン共和国政府への同情と支援の意志を持っていましたが、英仏協調と戦争回避、国内の分断回避、軍の準備不足を理由に不介入政策を採用します。これは政権内外で激しい論争を呼び、国際義勇軍や非公然の支援が錯綜する中、イタリアとドイツの公然たる援助を受けたフランコ側が優勢となりました。不介入は「現実的選択」でもありましたが、道義的後退と受け止められ、左派の士気と国際的評価を損なう側面がありました。
対ドイツ政策では、ラインラント再武装(1936)への有効な抑止に失敗し、チェコスロヴァキア危機ではミュンヘン協定(1938)に加わって宥和に与しました。これは人民戦線の時期を越えた国家の選択でしたが、連合の内部論理—戦争回避と再軍備の時間稼ぎ—と、国際情勢の緊張の板挟みが続いた事実を示します。対外危機と内政改革の同時進行という二重の課題は、短命政権の持久力を超える負担だったと言えるでしょう。
解体と遺産:短命の改革、長い影—労働法制・社会文化・共和主義
1938年以降、人民戦線の枠組みは解体に向かい、第二次世界大戦の衝撃がフランス社会全体を覆います。短命に終わったとはいえ、左派連合政権の立法は、労働法制と労使関係の土台を更新しました。40時間制は後に弾力化・改訂を経るものの、労働時間の規制と有給休暇の一般化は不可逆的な流れとなり、戦後の社会国家(社会保障制度の整備、1950年代の賃金制度の安定、1980年代以降の労働時間短縮政策)に連なります。団体交渉権の制度化は労使関係の近代化を促し、労働監督や職業教育の枠組みの整備につながりました。文化面では、余暇・スポーツ・旅行の民主化が進み、「ホリデー列車」「海辺の休暇」が中間層と労働者に広がりました。
政治文化的には、極右の暴力に対する〈共和国防衛〉の大義の下で、社会党・急進党・共産党が最低限の合意を形成できた経験が重要です。その後の冷戦下では左右対立が硬直化しますが、地方自治・文化政策・教育の領域で、〈広い民主主義の陣営〉という発想が生き続けました。ブルム自身の誠実な政治スタイル—議会主義・法の支配・合意形成—は、戦後フランス政治の規範意識にも影響を残しています。
後世の「左派連合」との比較:1981年の〈左翼連合〉、1997年の〈複合左派〉
用語としての「左派連合」は、1936年に限らず、のちの二つの局面でも参照されます。第一は1981年のミッテラン政権で、社会党(PS)とフランス共産党(PCF)が〈左翼連合(ユニオン・ド・ラ・ゴーシュ)〉を形成して政権交代を果たしました。国有化や最低賃金引き上げ、週39時間・退職年齢引下げなど大胆な左派政策で出発しましたが、国際競争と通貨・資本移動の制約の下で、1983年に緊縮・通貨防衛へ政策転換(いわゆる「転回」)を強いられます。ここには、1936年と同様に、内政改革とマクロ制約の緊張が映し出されています。
第二は1997年の〈複合左派(ゴーシュ・プリュリエル)〉で、社会党・共産党・緑の党・左翼急進党などの連立がジョスパン内閣を支えました。ここでは、35時間制・若年雇用支援・市民パクト(PACS)などの社会改革が進み、欧州統合(ユーロ導入)と両立する左派政策の模索が特徴でした。1936年の人民戦線と比べると、連携の仕方は制度化が進み、環境・ジェンダーなど新しい争点が加わっていますが、「連立の内部多様性をいかに管理するか」「経済の国際化との釣り合いをどう取るか」という構図は重なります。
用語・年表・学習のヒント
主要人物:レオン・ブルム(SFIO首相)、モーリス・トーレス(PCF書記長)、エドゥアール・ダラディエ(急進党)、ヴィオレ・ルボン、ジャン・ゼー(教育文化政策)、他。
キーワード:人民戦線、マチニョン協定、週40時間、有給休暇、団体交渉、フラン切下げ、資本逃避、不介入(スペイン内戦)、共和国防衛。
年表:1934年2・6暴動→1935年人民戦線協定→1936年総選挙・ブルム内閣→マチニョン協定・40時間・有給休暇→1937年休戦宣言→1938年ダラディエ内閣→1938年ミュンヘン。
左派連合政権(フランス)を理解する要点は、(1)民主主義の危機への〈政党間の協働〉、(2)労働と余暇をめぐる生活世界の改革、(3)為替・資本移動・物価というマクロ制約、(4)対外危機(スペイン内戦・ナチス台頭)との同時進行、の四本柱を有機的に結ぶことにあります。こうしてみると、短命でも社会の顔を変える改革があり得ること、そして連合政治の運営には緻密なバランス感覚が不可欠であることが実感できるはずです。

