『三大陸周遊記』(一般に『旅行記』『リフラ』とも呼ばれる作品)は、14世紀のモロッコ人旅行家イブン・バットゥータ(Ibn Baṭṭūṭa, 1304–1368/69?)が約30年に及ぶ旅の体験を口述し、筆記者イブン・ジュザイー(Ibn Juzayy)が編纂したアラビア語の記録です。アフロ・ユーラシア(アフリカ・アジア・ヨーロッパ)の三大陸にまたがる広大な世界を、イスラーム法学者の観察眼で活写し、都市の景観、宗教儀礼、商業ネットワーク、人びとの風俗、船や道路の事情まで多角的に描いています。原題は『観察者への贈り物—諸都市の奇異と旅の驚異』(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار)で、メッカ巡礼(ハッジ)を出発点としつつ、インド洋・中央ユーラシア・地中海・サハラを縦横に往来した稀有な体験の集大成です。物語として面白く、同時に一級史料としても価値を持ちながら、誇張や伝聞の混入、口述ならではの編纂上の屈曲も抱える、きわめて豊かなテクストです。
成立と編纂—口述筆記の背景と作品のかたち
著者イブン・バットゥータは、北アフリカのタンジールに生まれたイスラーム法学(マリキ法学)の素養を持つ人物で、1325年(ヒジュラ暦725年)にメッカ巡礼へと旅立ちます。以後、帰郷と再出発を重ねながら、約30年にわたって各地を巡りました。長大な旅程を終えてモロッコの宮廷(マリーン朝)に戻ると、フェズで宮廷書記のイブン・ジュザイーに口述し、1356年ごろまでに書物としてまとめられます。作品の文体には、法学的判断・祈り・詩句の引用・奇譚(アジャーイブ)の挿入が折り重なり、口述者の記憶と書記の文飾が混ざり合った特色が色濃く現れています。
原題が示す通り、本書の設計は「都市誌」と「旅の驚異」の二本柱です。各地の都市(メッカ、カイロ、ダマスカス、バグダード、デリー、コーラン坡〈泉州〉、ハンザウ〈杭州〉、マリの宮廷など)に関する章立てが基本で、そこに人物の逸話、宗教儀礼の描写、宿泊・接待制度(スーフィーのハーンカーやリバート、カーン〈隊商宿〉)の利用案内、移動の実務(海路の季節風・船種、陸路の隊商路・峠・関税)などが具体的に差し込まれます。イブン・ジュザイーは先行地理書・奇譚集からの引用も交え、散逸を防ぐ意図で文献的知識を補っています。これにより、作品は体験記と百科事典風の地理誌の中間に位置する独自の厚みを得ました。
旅程の全体像—三大陸を結ぶ道と海のネットワーク
第一の大軸は、マグリブ(モロッコ)から地中海東岸・アラビア半島へ向かう朝聖路です。彼はメッカ・メディナを拠点に、エジプトのカイロ、シリアのダマスカス、イラクのバグダード、イラン高原のタブリーズやヤズドに足を伸ばし、モンゴル政権(イル汗国)のもとにある都市や、スーフィー聖者と法学者のサークルを訪ね歩きました。マムルーク朝のキャラバンサライ、ナイルの運河、ティグリスの舟運など、インフラの描写はインド洋世界と内陸ユーラシアの結節点を生きた情報として伝えています。
第二の大軸はインド洋圏です。1328–1334年頃、彼はペルシア湾からオマーンを経てインド西岸(グジャラート、カンバート、カリカット=コーリコード)へと渡り、やがてデリー・スルターン国の宮廷で法官(カーディー)として遇されます。君主ムハンマド・ビン・トゥグルクの気まぐれで苛烈な政治、恩寵と失脚の落差、宮廷の壮麗さ、寄進と学寮の制度などを、当事者の言葉で赤裸々に描きました。その後、モルディブ諸島に長逗留して司法職に就き、婚姻・離婚・装身・衣装・女性の社会的地位を生き生きと記します。さらにセイロン(スリランカ)で聖遺物(ブッダの歯)伝承を見聞し、ベンガルからスマトラ(サムドラ=パサイ)へ至る海域では、モンスーンの風、アラブ・インド・マレーの商人共同体、ジャンクとダウの船型の違いなどを伝えています。
第三の大軸は東アジア訪問の章です。彼は中国の元朝領域へ航海し、泉州(刺桐)や福州、あるいは杭州・大都への旅について記します。具体的な地名・行政慣行・寺院・市場の描写には鋭さがある一方、時系列の混乱や伝聞の挿入も目立ち、滞在範囲・期間めぐる研究者の議論が続いています。とりわけ大都(北京)到達の可否、杭州の運河・市舶司描写の信頼度、朝貢ミッション随伴の経路などは、同時代中国資料との突き合わせが必要です。いずれにせよ、インド洋と南シナ海を結ぶ実務知—港湾での税関手続、外国人居留区(番坊)、紙幣(交鈔)の流通—を伝える情報はきわめて貴重です。
第四の大軸は西アフリカ行です。1352–1353年ごろ、彼はマグリブからサハラ縦断路に入り、ワーラタ(ウアラータ)やガオ、マリ王国の宮廷を訪ねます。黄金・ナイジェル河川交通・イスラームの受容の度合い、王と学者・商人の関係、女性の衣装や社交の慣行(顔面を覆わない等)など、サハラ以南イスラームの多様性を具体的に描きました。しばしば名が挙がるトンブクトゥに関しては、彼が実際に足を踏み入れたかどうかは不確かで、言及の多くは伝聞に依拠すると見られます。
視線と記述の特徴—法学者の眼、都市誌、航海と接待の実務
本書の強みは、宗教と日常、制度と体験が交差する記述です。著者は法学者として、各地の礼拝・断食・巡礼・婚姻・刑罰の運用に鋭い関心を払い、スーフィー修道場の食事(サマア)や施し、モスクの寄進(ワクフ)、学寮(マドラサ)のカリキュラムと財源に触れます。同時に、宿泊・接待の制度(カーン、ズィアーファ、ハーンカー)、旅券や通行証、関所の納付、為替や両替の慣行、砂漠・高原・密林の危険と対策など、動くための実務を克明に記録しました。この「制度×移動」の視点が、地理書としての価値を高めています。
都市描写では、街路の幅、城壁と門、スーク(市場)の品揃え、浴場(ハンマーム)の価格帯、港湾の施設、船の構造(縫い合わせ船/釘打ち船)、僧院・寺社の所在など、具体が豊富です。たとえばデリーでは宮廷の儀礼秩序と残酷な刑罰、モルディブでは女性の髪飾りや離婚手続、セイロンでは巡礼路の寄進所と聖遺物、泉州では倉庫・関税・外国人居留区、杭州では橋と運河、市場の行楽と娯楽のありようなど、〈歩く視線〉で都市の生活層が立ち上がります。商人・学者・聖者・水夫・隊商長・現地官吏といった担い手へのインタビュー的記述も豊富で、人物の性格や価値観がにじみます。
叙述の語り口には、奇譚・霊験・逸話が多く、読物としての魅力が増幅されています。嵐の夜の救難、聖者のカリスマ、動物の奇行、王の突飛な命令など、アジャーイブ(驚異譚)は中世イスラーム文学の定番で、本書も例外ではありません。これらは事実性という点では慎重さが要るものの、当時の読者が何を面白がり、どこに宗教的意味を見たかを伝える文化史資料でもあります。
史料としての価値と課題—信頼性、写本、近代の受容
『三大陸周遊記』は、14世紀イスラーム世界の内部から書かれ、東西南北の複数の辺境をつなぐ希有な同時代記録です。海の季節風・港湾制度・通貨と課税、スーフィー諸教団のネットワーク、法学教育の実態、マムルーク・イル汗国・デリー・マリといった諸政権の宮廷儀礼や外交儀礼など、多分野にとって一次的な情報の宝庫です。とりわけインド洋世界の連結について、交易品(香料・馬・金・布)と人の移動(ウラマー、商人、奴隷、水夫)の双方を具体に描く点が重要です。
一方で、限界と注意点も明確です。第一に、作品は口述筆記であるため、時系列の錯綜、同内容の反復、地名の誤写・混同が起こりやすいです。第二に、編纂者イブン・ジュザイーが先行文献から加筆している箇所があり、著者の体験と書誌的挿入の区別が難しい場面があります。第三に、著者自身も誇張や伝聞を交えることがあり、特に中国訪問の範囲や一部の奇譚は、外部史料との照合が不可欠です。こうした問題は、同時代の年代記・地理書・旅行記(たとえばイブン・ハルドゥーン、アル・ウマリー、マリの伝承、中国側の地方志や『島夷志略』等)との比較で検証が進められてきました。
写本伝来の面では、複数の系統があり、19世紀にフランスの東洋学者デフレメリーとサングィネッティ(Defrémery & Sanguinetti)が校訂・仏訳(1853–58)を刊行して以降、欧州語訳が広がりました。20世紀後半以降はアラビア語新校訂や英訳・仏訳の改訂版が整い、地域研究・比較史の基礎文献として定着します。日本語でも抄訳・全訳が出ており、地名・人名の当て方や本文異同の扱いに差がありますが、研究資料としてアクセスしやすくなっています。
比較の視点では、しばしばマルコ・ポーロの『東方見聞録』と対置されます。両者は同時代に近く、広域旅行記という点で似ていますが、職能と視角が異なります。マルコが商人・外交使節の立場からモンゴル帝国の行政・生産・税に光を当てるのに対し、イブン・バットゥータは法学者・巡礼者として宗教儀礼・教育・接待制度、都市の社会行動を濃密に記します。また、マルコの移動は陸上ルートの比重が大きいのに対し、イブンはインド洋航海の情報を豊富に伝え、海の世界像に厚みを与えました。
総合的に見ると、『三大陸周遊記』は、14世紀のグローバル化したイスラーム世界の「地図」を、当事者の目線で描いた希有な書物です。読者は、学者の講義、隊商の交渉、港の税関、宮廷の接見、修道場の食事、砂漠の夜営、モンスーンの待機といった具体の場面を通じて、知と信仰と経済が絡み合う世界の手触りを追体験できます。史料批判を怠らずに読み解けば、政治史・経済史・宗教史・都市史・海域史のすべてに資する洞察が得られます。作品は、旅の面白さと世界の構造を同時に教えてくれる、数少ない古典なのです。

