四川暴動 – 世界史用語集

「四川暴動(しせんぼうどう)」は、清末の1911年(宣統3年)に四川省で発生した大規模な民衆・士紳・商人・学生・軍隊の連動的抗争を指す語で、直前の鉄道国有化政策に反対する「保路運動(ほろううんどう)」が瞬く間に全省的な騒擾へ拡大した出来事を中心に用いられます。省の自力建設を掲げて積み立てた鉄道資金が中央の突然の国有化と外債導入で奪われたとの認識が広がり、納金者(股金を出した出資者)や地租・附加税を負担してきた農民・商工層、近代都市の学生・新聞人が怒りの共同体を形成しました。9月の成都デモ弾圧(いわゆる「九・七」事件)を契機に武装化と放火・官署襲撃が続発し、総督趙爾豊の強圧は逆に火に油を注ぎます。この四川の激動は、湖北の新軍部隊が鎮圧のために四川へ抽出されて武漢地区の兵力が手薄になるという連鎖を生み、1911年10月10日の武昌起義——辛亥革命の発火点——へ決定的に接続しました。すなわち「四川暴動」は、地域財政と地方自治の問題が、中央の権力構造・列強金融と絡み合い、中国近代革命のダイナミクスを起動させた典型事例なのです。

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背景と前史――地方自営鉄道の夢、列強融資と清末新政の矛盾

19世紀末から20世紀初頭、中国各省は近代化の象徴として鉄道建設を渇望しました。四川省でも成都—漢口—広東方面を連絡する路線構想が早くから語られ、清末新政の気運のもと1904年以降、省主導の自営鉄道会社(四川漢路公司など)が組織されます。資金は省内士紳・商人の出資(股金)に加え、地租への附加課税や塩税の転用などで賄われ、農民まで広く負担を負う仕組みが作られました。地方社会はこれを「四川の血と汗の公共事業」と理解し、自力近代化への誇りと期待を重ねました。

しかし、帝国全体では列強からの借款に依存する鉄道敷設が進み、利権の外部流出と政治的干渉が顕著でした。清廷は財政難と外債管理の論理から、鉄道を中央集権的に統御し、返済スケジュールを安定させたい思惑を強めます。加えて、地方での資金流用・不正や工事の遅延も批判され、省営の限界を口実にする声が中央で強まりました。こうして1911年5月、度支部(財政省)主導で「鉄道国有化令」が発布され、各省の路線計画・会社・資金は中央の管理下に置かれることが決定されます。

四川にとって問題は二重でした。第一に、辛苦して積み上げた省営資金と税負担が中央に吸い上げられ、しかもイギリス・ドイツ・フランス・アメリカの四国借款団を通じて運用されることで、利息支払いの重荷と利権の外在化が見込まれたこと。第二に、出資者に配る代償としての国債(賠償公債)は実質的な減額であり、現金性・換金性が低く、納税者の体験からすれば「紙切れに化ける」不公正と映ったことです。こうして「保路(路を保つ=省の鉄道自営を守る)」のスローガンが、利権と自治の防衛を意味する政治語彙として急速に浸透しました。

展開――保路同志会の結成、成都の「九・七」、四川全域の蜂起

1911年夏、四川各地の士紳・商人・学生は「保路同志会」を結成し、請願・集会・ボイコットを組織しました。報章は国有化の不当性と外債の危険を連日論じ、街頭では太鼓と幟を掲げたデモが繰り返されます。省城成都では、鉄道資金の返還と国有化令の撤回を求める群衆が官衙に押し寄せ、当局は解散命令と逮捕で応じました。趙爾豊(四川総督)はチベット・川辺道での強圧統治で知られ、今回も軍警を投入して強硬鎮圧に踏み切ります。

1911年9月7日(旧暦7月13日)、成都の集会に対して官憲が発砲・切り込みを行い、多数の死傷者を出した事件が発生します。これが通称「九・七惨案」です。この流血は瞬時に反官の波を生み、保路運動は請願から蜂起へと相貌を変えました。監獄襲撃・政治犯釈放、官署・税務署・一部の銀行の焼き討ちが続き、都市の商業は麻痺、交通は遮断されます。農村部でも納税拒否・団練(自警団)の武装が進み、鉄道建設のために徴発された労役・資金の返還を求める訴願が蜂起と連動しました。

趙爾豊は鎮圧のため新軍・緑営・巡警を動員し、指導者の逮捕、新聞閉鎖、結社の解散を命じますが、軍紀は弛緩し、兵士の離反・逃亡が相次ぎました。地方の有力者は自費で民兵を整えつつも、中央への不信から総督に全面協力せず、かえって自治政府の樹立へ傾く動きが現れます。9月下旬には重慶・瀘州・自貢など長江・嘉陵江流域で騒擾が頻発し、官民の対立は決定的になりました。こうして四川は、中央の鉄道国有化に対する「省権擁護」の戦場となり、清末国家の統治正統性は大きく損なわれていきます。

全国政治への波及――兵力の空洞化、武昌起義、辛亥革命の連鎖

四川の激動が中国全体の政治地図に与えた最大の効果は、兵力配置の連鎖でした。朝廷は鎮圧のため各地の新軍部隊を四川へ抽出し、要地であった湖北の武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)の兵力が相対的に手薄になります。もともと湖北の新軍内部では革命派(共進会・文学社など)の浸透が進み、爆発を待つ不安定な状況でした。10月10日夜、火薬庫爆発事件をきっかけに武昌の革命派部隊が蜂起すると、清側は即応兵力を欠いて鎮圧に失敗し、湖北軍政府が成立、辛亥革命の連鎖が各省へ拡大します。

この意味で「四川暴動」は、直接の革命宣言というより、革命の〈機会構造〉を作り出した触媒でした。省権・財政・公共事業という一見技術的な政策争点が、地方の自治と中央の主権、列強金融と国家財政、近代的代表制の欠如といった根本問題を浮かび上がらせ、政治システムの破断面を露わにしたのです。湖南・陝西・雲南など周辺省も相次いで独立を宣言し、清王朝はわずか数か月で実質的な統治能力を喪失しました。

一方、四川省内の運動は革命政府成立後も統一を欠き、軍閥化の兆候と地方勢力の競合が早くも顔を出します。これは、清末から民国初年にかけての「省権」優越と軍事化の連鎖が、その後の軍閥割拠期へ連なっていく典型的なプロセスでした。すなわち、四川の経験は、中央集権と地方自治、公共投資と財政主権の再配分をめぐる近代中国の長期課題を先取りして示したのです。

名称の射程と史料――「四川暴動」と「保路運動」「四川教案」の区別

日本語史学や教科書では、1911年の一連の出来事を総称して「四川暴動」と呼ぶ場合が多いですが、中国語史料では通常「四川保路運動」「保路風潮」「成都血案(九・七)」などと表現されます。また、1895年に成都を中心として発生したキリスト教会・宣教師館の襲撃事件(通称「四川教案」)も、かつて「四川暴動」と呼ばれることがあり、用語が衝突しやすい点に注意が必要です。本項で扱うのは1911年の鉄道国有化反対運動を基点とする暴動・蜂起であり、宗教対立を主軸にした1895年の事件とは性格も背景も異なります。

一次史料としては、当時の新聞(『大公報』『申報』など)の四川特電、保路同志会の声明文、清廷の諭旨・部頒条例、地方官の報告書、各地商会・公所の連署文書、欧米領事報告などが存在します。回想録・地方志・県誌は、その後の政治的立場に影響された記述が混じるため、相互照合が求められます。経済史資料としては、省営鉄道会社の会計台帳、股金名簿、地租・附加税の徴収記録、借款契約の条項などが、運動の社会的基盤を可視化します。

研究史では、マクロ政治史の文脈(武昌起義の誘因)として扱う伝統的叙述に加え、近年は「省権主義」「地方公共財の政治」「金融と主権」の視点から再解釈が進みました。とくに、投資した農民・商工層の「所有権」意識、株式・公債の法的地位、税と代表の問題(課税なき代表は暴政の論理の逆)をめぐる議論は、四川運動の近代性を照らし出しています。

総括――地方公共事業が革命の導火線となったとき

1911年の「四川暴動」は、単なる地方の騒擾ではなく、近代国家形成の核心——財政主権・公共投資・代表制・中央—地方関係——をめぐる衝突が爆発した事件でした。省民が汗と税で積み上げた鉄道資金が、中央の法令と列強借款で一挙に再配分されるとき、正統性を欠いた制度は短時間で瓦解し得ることを、四川の街頭は示しました。成都の「九・七」血の記憶は省全体を覚醒させ、兵力の移動は武昌起義の成功条件を整え、中国は王朝から共和へと一気に転回します。地方公共事業という身近な利害が、帝国政治の中枢を揺さぶり、国のかたちを変え得る——四川暴動は、その事実を最も劇的な仕方で歴史に刻んだ出来事だったのです。