シベリア出兵 – 世界史用語集

 

シベリア出兵(1918–1922年)は、ロシア革命後の内戦期に、連合国の一角として日本・アメリカ・イギリス・フランスなどがシベリアと極東ロシアに軍を派遣した一連の行動を指す用語です。名目はドイツ・オーストリアへの対抗、チェコ軍団の救出、シベリア鉄道の保全などとされましたが、実際には各国の思惑が交錯し、特に日本は領域安定・対ソ関係・通商利権・満蒙構想など複数の計算を抱えて行動しました。ウラジオストク上陸から外満州・沿海州・アムール流域への展開、さらに尼港事件を契機とした北樺太占領(~1925年)に至るまで、軍事・外交・経済・世論が縺れ合い、最終的には撤兵とワシントン体制下の対露再調整へ収束します。出兵は、第一次世界大戦の尾を引く干渉戦争の一章であると同時に、日本国内の政治・経済・軍部文化、極東の国際秩序、ソ連成立期の対外関係を理解する鍵でもあります。

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背景と動因:革命、鉄道、チェコ軍団、そして列強の思惑

1917年の二月革命・十月革命を経てロシア帝国は崩壊し、ボリシェヴィキ政権はブレスト=リトフスク条約(1918年3月)でドイツと単独講和しました。連合国にとって東部戦線の消滅は重大であり、同時にロシア内戦の混乱は極東からの物資・援助・人員移動を危うくしました。ここで一躍重要性を帯びたのが、ユーラシア横断の大動脈であるシベリア鉄道です。線路の保全は、軍事的にも経済的にも死活的課題でした。

もう一つの契機がチェコ軍団の存在です。彼らはオーストリア=ハンガリー帝国の支配から独立を望む兵士・志願兵が主体で、連合側として西部戦線に移るべくシベリア鉄道でウラジオストクへ向かっていました。しかし内戦と治安悪化により、各地で武装・自治化し、鉄道沿線の要衝を押さえる局面も生じます。連合国は、彼らの救出と輸送を名目に極東へ増援を送る論理を整えました。

やがて英仏は対独・対ボリシェヴィキ干渉の観点から派兵を支持し、アメリカのウィルソン政権は限定的・中立的な関与(“rescue mission”)に留める方針をとります。他方、日本は地理的近接、満蒙における既得権益、ロシア極東における治安と商圏の確保の観点から、より大規模な派兵と行動の自由を志向しました。対外的名目は連合・共同での鉄道保全と救出支援ですが、舞台裏では対ソ関係の将来像、外蒙古・満洲・沿海州における影響力、ロシア白軍への支援など、多層の計算が交錯していました。

展開:上陸、鉄道線の占拠、白軍支援と極東共和国

1918年夏、連合軍はウラジオストクに上陸し、日本軍は最も大きな兵力を展開しました。米軍(シベリア米遠征軍)は約数千規模の限定派兵、英仏も数千規模でしたのに対し、日本軍は最終的に数万規模(7万名超に達した局面を含む)に膨らみ、極東ロシアの広域に駐屯・機動しました。占領・駐屯地はウラジオストク、ハバロフスク、チタ、イルクーツク方面の鉄道沿線や要衝に広がり、各地で鉄道警備・治安維持の名目で駅・橋梁・倉庫・炭鉱などの管理に関与しました。

内戦の力学は複雑でした。反ボリシェヴィキ勢力(白軍)は西シベリアでアルハンゲリスク・オムスク方面を基盤にコルチャック政権(「全ロシアの最高統治者」)を樹立しますが、統一性に欠け、農村動員や兵站で劣勢となっていきます。日本は状況に応じて白軍や地方勢力を支援しましたが、米軍は干渉深度を抑え、英仏も戦後処理や本国事情で積極性を失っていきました。鉄道の実効管理をめぐっては、連合各国代表と技術者(鉄道委員会)が協働しつつも、現場では利害衝突や主導権争いが頻発します。

1920年、ソビエト政権は極東での直接衝突を避けるために、クッション国家として「極東共和国」を樹立しました。これは名目上は独立、実質はモスクワ寄りという緩衝政体で、沿海州・ザバイカル・アムール流域の広範を覆います。日本はこの枠組みに懐疑的で、現地の反ソ勢力との関係を維持しつつ、自軍の撤退タイムテーブルを慎重に引き延ばしました。

現地の戦闘は、正規軍同士の会戦よりも、鉄道沿線のゲリラ・破壊工作、渡河点・橋梁をめぐる攻防、越冬・疫病・補給難との闘いという様相を呈しました。酷寒と泥濘の季節、氷結・解氷のサイクルは、兵站と士気を激しく消耗させました。日本軍は治安維持・護送・鉄道運行に多くの兵力を割き、野戦の規模は局地的でしたが、駐屯の長期化が政治・財政・世論の負担を拡大させていきます。

尼港事件と北樺太:撤兵と占領のねじれ

1920年春、アムール河口に近いニコラエフスク(日本側呼称「尼港」)で、日本領事館と市内の邦人・守備隊が革命派の襲撃を受け、多数が殺害される事件が発生しました(尼港事件)。この衝撃は日本の対露感情と撤退戦略に大きな影響を与え、政府は極東本土からの段階的撤兵を進めつつ、報復・補償・安全確保を理由に北樺太の占領を断行します。北樺太占領は1925年まで続き、石油資源や航路の確保が付随的動機として作用しました。

一方、ウラジオストク周辺の駐屯は国際的圧力と国内事情(財政負担、世論の疲弊、米英との足並み)から縮小・撤退へ向かい、1922年の撤兵完了へ収束します。極東共和国は同年にロシア社会主義連邦ソビエト共和国へ編入され、ソ連としての国家体制が極東にも及ぶ体制が整いました。1925年、日ソ基本条約の締結により、北樺太からの撤退と国交の樹立が実現し、シベリア出兵の長い尾はようやく政治的に処理されます。

国内政治・経済・軍の影響:米騒動からワシントン体制へ

出兵決定が公になった1918年夏、日本国内では米価高騰への民衆不満が爆発し、全国的な米騒動が起きました。直接の原因は米価と買占め・輸送の問題でしたが、軍需や海外行動への苛立ち、戦時景気の偏在などが社会不安を増幅させました。政局は寺内内閣から原敬内閣へ移り、「平民宰相」による政党内閣が生まれますが、出兵の継続・縮小・撤退をめぐる与野党・軍部・財界の思惑はねじれ続けました。

財政面では、長期駐屯に伴う軍費と補給、現地調達・復興支援の名目で多額の資金が投下され、戦後不況局面での負担となりました。商社・資源企業・鉄道・港湾の関係者には、沿海州・満洲・北樺太における商機を期待する声があったものの、治安の不確実性・国際圧力・撤兵の既定路線が、長期的な投資判断を難しくしました。

軍部文化への影響としては、外地での独自判断・現地政治への関与・治安維持任務の比重増大といった経験が、のちの満洲事変期に見られる現地軍の自律性・越権行為の土壌となった、との指摘があります。シベリアでの「鉄道警備」「在外邦人保護」「秩序回復」のレトリックは、1930年代以降の大陸政策で繰り返し用いられる語彙となりました。他方で、米国との協調・国際会議による秩序形成(ワシントン会議、四カ国条約・九カ国条約)に日本が積極参加したのもこの直後であり、出兵の反省と国際協調の模索が並走した時期とも言えます。

国際関係の座標:米・英・仏・チェコとソ連の成立

アメリカは、鉄道とチェコ軍団救出の限定目標を掲げ、深い干渉を避ける姿勢を維持しました。これはモンロー主義的な慎重さと、欧州大戦の疲労、対日警戒(日本の過大な進出回避)などが重なった結果です。イギリスとフランスは対独戦の延長で干渉を志向しましたが、本国事情と戦後処理で手一杯となり、遠隔地での継続的関与は困難でした。チェコ軍団は、鉄道沿いでの自治・戦闘を経て、最終的にウラジオストクから本国へ帰還しましたが、その過程は沿線の権力構造に大きな影響を与えました。

ソビエト側は、内戦の勝敗が東進・西進の複線で決まる局面で、極東では衝突の外形を抑えるため極東共和国を設置し、外交・宣伝・ゲリラの組み合わせで連合軍と白軍を徐々に圧迫しました。レーニン期の対外方針は、欧州革命の期待と現実的妥協の間で揺れ動きつつ、最後には国家承認・通商の窓口を拡げる方向へと徐々に舵を切ります。日ソ基本条約はその流れの一環で、北樺太の処理と通商関係の整備が含まれました。

誤解の整理:単なる侵略でも、完全な救出活動でもない

第一に、「シベリア出兵=連合の一致した対ソ侵略」という理解は過度に単純です。各国の目的・関与の深さは大きく異なり、米の限定主義、英仏の後退、日本の拡大志向と国内制約が交錯しました。第二に、「日本の領土拡張のための計画的侵略」という断定も、当時の政府・軍内の意見対立、国際圧力、財政・世論の制約を無視しています。拡大を志向する勢力と、限定・撤退を主張する勢力の綱引きが続いたのが実像です。

第三に、「チェコ軍団救出=建前、資源略奪=本音」という二分も実際には曖昧です。救出・鉄道保全は実務上の課題であり、本当に必要でしたが、同時に現地での商機探索や治安維持の名の下の影響力拡大が行われたことも否定できません。第四に、「出兵の成果はゼロ」ではありません。軍事的成果は乏しく政治的コストが大きかったものの、鉄道運行・避難・医療・復興などの現場経験、国際協調の限界に対する知識、ソ連体制成立の理解など、後世の政策判断に資する学びを残しました。ただし、それが十分に活用されたかは別問題です。

最後に、年次の整理をしておきます。1918年夏:連合軍ウラジオストク上陸/1919年:白軍の反攻と退勢、鉄道沿線の動揺/1920年:極東共和国成立、尼港事件、北樺太占領開始/1922年:日本軍撤兵完了、極東共和国のソ連編入/1925年:日ソ基本条約、北樺太からの撤退。これらの節目を押さえることで、シベリア出兵が「大戦の余韻」「革命の波」「国際協調の模索」「帝国日本の岐路」の交点に立っていたことが見えてきます。