自由党 – 世界史用語集

自由党(じゆうとう)とは、明治時代の日本で結成された近代政党の一つで、民選議院の開設や憲法制定を求めた自由民権運動の中心的存在となった政党です。1881年(明治14年)、板垣退助(いたがき たいすけ)を指導者として結成され、フランス流の自由主義思想や民権論に影響を受けながら、「人民のための政治」「言論と集会の自由」などを掲げました。のちに解党や再建、合併をへて姿を変えていきますが、日本の議会政治・政党政治の出発点を語るうえで欠かせない名前です。

教科書で「自由党」と出てくるとき、多くの場合はこの明治期日本の自由党を指します。ただし、世界には「自由党(リベラル・パーティ)」を名乗る政党が各国に存在するため、文脈によってはイギリス自由党など別の政党を意味することもあります。ここでは、とくに日本史・世界史でよく取り上げられる「明治日本の自由党」を中心に、その成立背景、活動内容、そして近代日本の政治発展との関わりを見ていきます。

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自由党とは何か:成立の背景と基本的性格

日本の自由党が結成される背景には、明治維新後の政治体制への不満と、「近代国家として憲法や議会を備えるべきだ」という意識の高まりがありました。明治新政府は、版籍奉還・廃藩置県などを通じて中央集権国家を作り上げましたが、実権は薩摩・長州などの出身者に集中し、「藩閥政府」と呼ばれる状況が続きました。維新に協力した他の藩や地方の士族・有力者のなかには、「自分たちの意見が政治に反映されていない」という不満がくすぶっていました。

一方、西欧列強に追いつくための近代化が進む中で、欧米視察を通じて議会制度や立憲主義に触れた知識人・政治家たちは、「列強と対等な文明国であることを示すためにも、憲法と議会が必要だ」と主張するようになります。とくに、フランスの共和政やイギリスの議会政治に触れた人びとは、国民の代表が政治に参加する仕組みを日本にも導入すべきだと考えました。

こうした流れのなかで、民選議院設立を求める運動が各地で起こり、それが「自由民権運動」と呼ばれる大きな潮流にまとまっていきます。1880年には「国会期成同盟」が結成され、全国的な請願運動も展開されました。しかし、政府側は急激な政治変革が混乱を招くことを恐れ、言論・集会をたびたび取り締まりました。運動の側からすると、政府に対抗するための、より強力で組織だった枠組みが求められるようになりました。

このような状況下で、土佐出身の元藩士であり、早くから民権運動を主導してきた板垣退助らを中心に、1881年に自由党が結成されます。自由党は、自由民権運動の諸団体・地方組織を政治政党としてまとめあげ、「民権派」の政治的受け皿となることを目指しました。綱領の中では、国会の早期開設、憲法制定、地方自治の拡充、言論・集会の自由などが掲げられ、フランス流の急進的な自由主義・民主主義思想の影響が見られます。

もっとも、自由党が目指した「自由」や「民権」は、現代の普遍的な人権概念とはやや性格が異なり、「一定の財産や教養を持つ男性市民が政治に参加する権利」を主として念頭に置いていました。それでも、藩閥政府の専制的なあり方を批判し、「政治は官僚や一部の上層エリートだけのものではなく、広い社会の声を反映すべきだ」と訴えた点で、当時としては非常に先進的な主張でした。

板垣退助と自由民権運動の中の自由党

自由党の中心人物である板垣退助は、土佐藩出身の武士で、戊辰戦争では新政府軍側で活躍した人物です。しかし、明治新政府のなかで薩摩・長州系の人材が重用される一方、土佐出身者の影響力が相対的に小さい状況に不満を抱き、「政府に入って内部から改革する」道ではなく、「政府の外から民意を代表して批判・提言する」道を選びました。彼の有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」は、自由民権運動に命をかける姿勢を象徴するものとして知られています。

板垣は、1874年に民選議院設立建白書を政府に提出し、早期の議会開設を求めましたが、これはすぐには受け入れられませんでした。その後、各地で演説会を開き、国会開設と民権の必要性を説いて歩きます。彼の活動は、多くの地方有力者や農民・町人層に影響を与え、自由民権運動の広がりに大きく貢献しました。自由党の結成は、こうした運動を政党という形で組織化し、より継続的で全国的な運動にする試みだったと言えます。

自由党は、中央だけでなく地方組織の存在が大きな特徴でした。地方の有力者や学校教師、新聞人などが中心となり、各地に自由党支部や民権結社がつくられました。これらの組織は、政談演説会の開催、機関紙の発行、請願運動などを通じて、村々や町々に民権思想を広めていきました。その結果、以前は政治に無関心だった農民層の中からも、「自分たちの声を政治に反映させたい」という意識が芽生えていきます。

一方で、自由党の運動には、都市的・知識人的な側面だけでなく、地方の豪農・地主層の利害や、士族の不満など、さまざまな要素が絡み合っていました。自由党に参加する人びとの中には、政府の地租改正や財政政策に不満を持つ農業経営者や、秩禄処分で生活基盤を失った旧士族も多く、彼らは「民権」という言葉に、自らの経済的・社会的な不満の解消を重ね合わせていました。そのため、自由党の運動は必ずしも一枚岩ではなく、地域や立場によって温度差や方向性の違いも存在していました。

それでも、自由党が「政党」として全国規模で活動したことには大きな意味がありました。日本ではじめて、本格的に組織された近代政党として、自由党は選挙運動や世論形成の方法、地方組織の運営など、多くの面で後の政党政治のモデルとなりました。自由党を通じて、多くの人びとが「自分たちの代表を選び、政府に要求を突きつける」という近代政治のスタイルを体験していったのです。

自由党の活動・農民運動と政府との対立

自由党が結成されたのとほぼ同じ1881年、明治政府は「国会開設の勅諭」を発し、1890年に帝国議会を開く方針を示しました。一見すると、自由民権運動の要求が一定程度受け入れられたようにも見えますが、運動側からすると、「10年も先送りにされた」と受け止められ、なお不満は強く残りました。自由党は、引き続き国会の早期開設や憲法の内容をめぐって政府に圧力をかけようとします。

こうしたなかで、自由党の地方組織は、地租軽減や地方自治の拡大など、具体的な要求を掲げて農民運動とも結びついていきました。とくに、地租の高さや物価高に苦しむ農民にとって、自由党の掲げる「民権」は、生活を守るための政治的手段として映りました。彼らは自由党の演説会に参加したり、請願書に署名したりすることで、自分たちの不満を表現し始めます。

しかし、自由党の地方運動が広がるにつれ、政府はこれを治安上の脅威として警戒するようになりました。政府は、集会条例や新聞紙条例などを整備して、政治的な集会や言論活動を規制しました。また、一部の地域では、自由党系の運動が急進化し、暴動や武装蜂起へと発展するケースも出てきます。代表的なのが、1884年に起こった「秩父事件」です。これは、埼玉県秩父地方での困民党(自由党系)の農民蜂起であり、地租や負債に苦しむ農民が、自由党の民権思想と結びついて政府や地主に対する武装抵抗を試みたものとされています。

秩父事件をはじめとする急進的な運動は、自由党の名誉にも一定の打撃を与えました。政府はこれらを「自由党の煽動の結果」とみなし、弾圧を強めました。自由党の指導部の中にも、「議会設立を目指す政党として、暴力的な行動は避けるべきだ」という認識が強まり、過激な動きを抑えようとする動きが出てきます。こうした内外の圧力のなかで、1884年、自由党は一時的に解党に追い込まれてしまいました。

自由党の解党は、自由民権運動にとって大きな挫折でしたが、その経験は、後の運動や政党活動にさまざまな教訓を残しました。一つには、「急進的な武装蜂起ではなく、制度の枠内で議会や政党を通じて変化を求める」方向性を強める要因となりました。また、地方で政治運動に参加した人びとは、その後も地域の名望家・地方政治家として活動を続け、帝国議会開設後の選挙や政党活動の土台となっていきました。

再建自由党とその後:立憲政党政治へのつながり

1889年に大日本帝国憲法が制定され、翌1890年に帝国議会が開設されると、日本は形式上、立憲君主制と議会制度を備えた近代国家へと一歩を踏み出しました。この新しい政治枠組みの中で、かつての自由党の流れをくむ人びとも、ふたたび政党を結成して議会政治に参加するようになります。1890年には、「立憲自由党」が結成され、のちに名称を「自由党」と改めました。これがいわゆる「再建自由党」です。

再建自由党は、衆議院選挙において有力な勢力となり、他の民党(民選議員を基盤とする政党)とともに、政府(とくに藩閥出身の内閣)に対する批判勢力として活動しました。初期の議会では、予算案や軍備拡張をめぐって、政府と民党が激しく対立し、「超然主義」を掲げて政党から距離を置こうとする内閣と、政党の力を強めたい民党とのせめぎ合いが続きました。このなかで、自由党の系譜を引く政治家たちは、しばしば政府との妥協や連携も模索しながら、議会の権限拡大を図りました。

1890年代末には、自由党は同じく民党系の進歩党などと合同し、「憲政党」や「憲政本党」などの新しい政党へと再編されていきます。とくに、1898年には板垣退助らの自由党と大隈重信らの進歩党が合同して憲政党を結成し、日本初の本格的な政党内閣(第一次大隈内閣)が誕生しました。これは、かつての自由党が目指した、「政党が内閣を担う政治」の一つの到達点でしたが、内部対立や政党基盤の弱さから、政権は短命に終わりました。

その後も、自由党の流れをくむ政党や政治家は、立憲政友会などの大政党に取り込まれながら、日本の政党政治の形成に関わり続けます。明治末から大正期にかけて、政党内閣が常態化していく過程では、かつて民権運動を掲げた人びとの経験やネットワークが、議会政治の実務や選挙運動の基盤として生かされました。自由党そのものの名前はやがて消えていきますが、その残した遺産は、日本政治の中に形を変えて生き続けたと言えます。

世界史的な視点から見ると、日本の自由党は、ヨーロッパの自由主義政党(イギリス自由党など)に刺激を受けつつ、日本独自の社会状況の中で展開したリベラルな政党運動の一例として位置づけられます。自由党の活動は、「専制的な政府に対して、市民や地方社会が政治参加を求めて立ち上がる」という、19世紀世界に共通する民主化の流れの、日本版の表現でもありました。教科書で「自由党」という名前に出会うとき、その背後には、明治日本の人びとが、どのようにして「自由」と「民権」を自分たちの言葉として獲得しようとしたのか、という物語が広がっているのです。