「諸侯(しょこう)」とは、もともと古代中国で、天子(王・皇帝)から土地と統治権を与えられた有力者たちの総称です。かんたんに言えば、「たくさんいる地方の王・大名たち」をまとめて指す言葉で、中国の政治や社会のしくみを理解するうえでとても重要な概念です。とくに周(しゅう)王朝の時代には、天子のもとに多くの諸侯が国を構え、家来を持ち、軍隊を率いて、それぞれの領土をおさめていました。この諸侯たちがあつまって、ゆるやかな連合体のようなかたちで中国世界が成り立っていたのです。
しかし、諸侯はただ素直に天子の命令に従うだけの存在ではありませんでした。力のある諸侯は、しだいに自立性を強め、ときには天子の権威をおびやかすほどの勢力になります。春秋戦国時代になると、諸侯どうしが激しく戦い合い、その中から特に強い国が他の諸侯を飲み込んでいく過程が進みます。最終的に秦の始皇帝が中国を統一すると、「諸侯に国を分け与えて統治させる」という周的なしくみは大きく見直され、郡県制(中央から役人を派遣して直接支配する制度)が広がっていくことになりました。
その一方で、「諸侯」という言葉自体は、その後の漢や魏晋、さらには明・清といった時代にも使われつづけます。意味合いは時代によって少しずつ変化しますが、共通しているのは、「中央の君主から一定の地位や領地を与えられ、自分の配下を持つ有力者」というイメージです。ときには、そうした諸侯が反乱を起こしたり、地方で半ば独立状態になったりすることもあり、中国史のダイナミックな動きの背景には、いつも「諸侯」と中央権力との緊張関係が存在していました。
以下では、まず周王朝における諸侯のしくみと役割を整理し、つづいて春秋戦国時代の変化や中央集権化との関係を見ていきます。そのうえで、帝国時代以降の「諸侯」概念の変化や、日本語としての「諸侯」という言葉の使われ方にもふれながら、この用語のイメージを立体的につかんでいきます。
周王朝の封建制と諸侯の役割
「諸侯」という言葉がもっとも典型的な意味で使われるのは、西周・東周期、つまり周王朝の時代です。周王朝は殷(商)を滅ぼして華北を支配するようになると、広い領域を効率よくおさめるために、一族や功績のあった有力者たちに土地を分け与えました。これを「封建(ほうけん)」といい、土地を与えられた者を「諸侯」と呼びます。諸侯は、それぞれの領地を「〜国」として統治し、自分の家臣(卿・大夫・士など)を配下に置いて地方行政や軍事を行いました。
この封建制の特徴は、血縁関係と儀礼を重んじた重層的な秩序にあります。周王は「天下」の中心に立つ天子として、宗族秩序の頂点に位置づけられ、その子弟や親族、有功の臣に諸侯の地位を授けました。諸侯は周王に対して朝貢や貢納、軍役などの義務を負う一方で、自分の領内ではほぼ「小さな王」としてふるまうことができました。こうして、「王―諸侯―卿・大夫―士―庶民」という階層構造が形づくられ、各レベルで主従関係と血縁関係が折り重なっていました。
諸侯には、いくつか重要な役割が課せられていました。第一に、防衛と軍事の役割です。周王朝は、黄河流域から周辺の異民族との境界線まで広大な領域をおさめる必要がありましたが、中央の軍隊だけで全てを守ることは困難でした。そこで諸侯が自ら軍隊を持ち、外敵への防波堤となるとともに、必要に応じて天子のもとに軍隊を集結させる役割を担いました。第二に、宗教儀礼や祖先祭祀の継承です。諸侯たちはそれぞれの国で宗廟を構え、独自の祭祀を行いながらも、全体としては周の礼制に従うことで、文化的な一体感を保っていました。
ただし、このような封建制は、最初から完全に中央集権的な体制だったわけではありません。周王は「名目上の最高支配者」としての権威を持っていたものの、遠くの諸侯に対して日常的に細かい統制をする力は弱く、諸侯どうしの争いも起こっていました。つまり、周王朝のシステムは、「王を頂点にしたネットワーク」としての側面と、「多数の諸侯が並立する多中心的な世界」としての側面をあわせもっていたのです。そのため、時間がたつにつれて諸侯の自立性が強まり、周王の権威は徐々に相対化されていきました。
このような状況の変化がはっきりと表面化するのが、紀元前8世紀ごろからの東周、すなわち春秋戦国時代です。形式の上では周王がなお「天下の王」であり続けたものの、実際には有力な諸侯が主導権を争い、政治的な中心は次第に彼らのもとに移っていくことになります。
春秋戦国時代の諸侯と「覇者」たち
東周期、とくに春秋時代には、多数の諸侯国が並び立ち、そのあいだで同盟と抗争が繰り返されました。有名な斉・晋・楚・秦・宋・魯などは、いずれも周王朝のもとで封じられた諸侯国です。この時期、周王の軍事力や財政力が弱まる一方で、各地の諸侯は自国の領域と権力を拡大し、時には周王を保護する名目で自らの指導力を誇示しました。こうした有力諸侯の中から、「覇者(はしゃ)」とよばれる存在が現れます。
「覇者」とは、形式上は周王の臣下である諸侯のひとりでありながら、実際には他の諸侯を率いて秩序を保つリーダー的存在です。たとえば春秋五覇と呼ばれる斉の桓公、晋の文公などは、周王を尊びつつも、自ら会盟を主宰し、諸侯会議を開いて他国に影響力を行使しました。このように、諸侯という身分は本来「王に仕える地方支配者」を意味していたにもかかわらず、力のある者は事実上「王に迫る」存在へと成長していきました。
戦国時代に入ると、諸侯国の数は整理・淘汰が進み、秦・楚・斉・燕・韓・趙・魏といった「戦国七雄」が代表的な強国として台頭します。これらの国々は、軍事・行政・法制度などを大胆に改革し、それぞれの諸侯が「王」を名乗るようになりました。これは、形式的な周王の権威からの離脱を意味し、「諸侯」でありながら自らを天子同然とみなす動きでもあります。ここでは、もはや「周王―諸侯」という従来の構図は形骸化し、実力による国家間の争いが主導する時代となりました。
このような変化は、諸侯という存在の二面性をよく示しています。一方では、諸侯は「上から土地と地位を与えられた家臣」であり、天子との上下関係の中で位置づけられています。もう一方では、諸侯は「独自の国内政治・軍事力・外交権をもつ支配者」であり、その力が大きくなれば、天子の権威さえ超えうるポテンシャルを秘めていました。春秋戦国時代は、この二つの面が大きく揺れ動き、「天下の秩序」がどこに基礎を置くべきかが問い直された時期だったと言えます。
最終的に、秦の始皇帝が他の戦国諸国を次々と滅ぼし、中国を初めて統一すると、伝統的な意味での「諸侯世界」はいったん終わりを迎えます。秦は、周以来の封建制を大幅に縮小し、「郡県制」を通じて中央から派遣された官僚による統治を基本としました。これは、諸侯が独自の軍事力と領地を持ち、やがては中央権力のライバルとなる危険性を抑えようとする中央集権的な発想から生まれた改革でした。
帝国時代の「諸侯」と封建・郡県の組み合わせ
秦の統一と郡県制の導入によって、「諸侯の時代」は完全に終わったかのようにも見えますが、実際にはその後の中国史でも、「諸侯」という概念と制度は形を変えながら生き続けました。漢の高祖劉邦は、天下統一の過程で協力した功臣や一族に対して、多くの「王」位や「侯」位を授けています。これは、秦の時代に抑え込まれていた封建的な要素を一定程度復活させるものでした。
漢代には、「郡県制」を基本としつつ、一部に「王国」や「侯国」を併存させる体制がとられました。皇帝が直接任命する郡守・太守が治める地域と、皇族や功臣が諸侯王・列侯として統治する領地とが併せて存在したのです。諸侯王は独自の租税収入や家臣団を持ち、半ば独立したミニ国家のような性格をもつこともありました。そのため、漢初には諸侯王が中央政権に対して反乱を起こす「呉楚七国の乱」のような事件も生じています。
この反乱をきっかけに、漢の武帝は諸侯王の権限を大幅に縮小し、郡県制による中央集権をいっそう強化しました。以後、「王」や「侯」の称号は、政治的な実権よりも名誉と一部の経済的特権を意味するものへと変化していきます。とはいえ、皇族や一部の有力者が形式的にせよ「諸侯」としての地位を与えられる慣行は、その後の王朝でも存続しました。
魏・晋以降の分裂期や南北朝時代には、地方軍閥や節度使が台頭し、名目上は皇帝の臣下でありながら、実際には自立した諸侯のようにふるまう例も多く見られます。唐末の節度使、五代十国時代の各地方政権などは、まさに「皇帝の下にいるはずが、実態は地方の覇者」という諸侯的存在でした。歴史書や後世の語りでは、こうした勢力をまとめて「群雄」や「諸侯」と表現することもあります。
明・清のような比較的中央集権が進んだ王朝でも、皇帝の一族に「藩王」や「親王」として領地や俸禄を与える制度があり、彼らが広い意味で「諸侯」と呼ばれる場合があります。とくに明代の建国直後、各地に配置された朱元璋の息子たち(藩王)は、軍事力と領地を持つ強大な存在であり、やがて「靖難の役」のように、藩王が皇位をめぐって争う事態さえ起こりました。ここにも「諸侯をどう扱うか」という古代以来の問題が顔をのぞかせています。
このように、帝国時代以降の中国では、表向きは郡県制による中央集権を掲げつつも、「諸侯的な存在」を完全に消し去ることはできませんでした。広大な領域と多様な地方社会をおさめるうえで、中央政府と地方の有力者とのバランスをどのようにとるか――その悩みが、「諸侯」という形で繰り返し現れてきたと言えるでしょう。
「諸侯」という言葉のイメージと日本での受けとめ方
中国史における「諸侯」は、単に「君主の家臣」というだけでなく、「地方に根を持った有力支配者」という広いイメージをまとっています。このため、歴史書や文学作品の中では、「諸侯が蜂起する」「諸侯が天子に背く」「諸侯が割拠する」といった表現で、秩序が乱れ、多数の勢力が並び立つ状況を描き出すことがよくあります。「天下」が一つの中心のもとに統合されている状態と、「諸侯」がそれぞれ自分の勢力を張り合っている状態とのあいだを揺れ動くことが、中国史の大きなダイナミズムを形づくってきました。
日本語で「諸侯」ということばが使われるとき、多くの場合は中国史上の諸侯を指すほか、ヨーロッパの貴族や中世日本の大名などを説明するときの比喩として使われることもあります。「各地の諸侯が割拠していた」といえば、「中央の権威が弱く、地方の大名・領主がそれぞれ独立性をもっていた状態」をイメージさせる表現です。これは、中国の諸侯が持っていた「半ば独立した地方権力」という性格が、日本人の歴史用語の感覚の中に取り込まれていることを示しています。
もっとも、ヨーロッパの封建領主や日本の戦国大名を、そのまま中国の「諸侯」と同一視することはできません。具体的な制度や社会のしくみはそれぞれ異なり、たとえば日本の「封建制」は、家臣の主従関係や土地支配のあり方で、中国の周代封建制とはかなり違う側面があります。それでも、「中央の君主から領地と地位を与えられ、それぞれの地域を治める有力者たち」という大づかみなイメージにおいて、「諸侯」という訳語がしばしば便利に用いられてきたのは確かです。
中国史の用語として「諸侯」を学ぶとき大切なのは、この言葉が単なる肩書きではなく、「中央と地方」「王権と貴族層」という構図を一気に思い起こさせるキーワードだという点です。周王朝の封建制から春秋戦国の群雄割拠、秦漢以降の中央集権と地方勢力のせめぎ合いにいたるまで、「諸侯」という存在は、中国社会の骨組みを形づくる重要な役者として、つねに歴史の舞台に登場し続けました。そのイメージを頭に入れておくと、中国の長い歴史の流れが、より立体的に見えてくるはずです。

